第101回  変わった趣向も場所によりけり

ある日の読売の記事のタイトルをみて考えてしまった。
タイトルは「都会の新スポットはお寺?」

記事と共に、かなりインパクトのある大きな写真が五枚ほど掲載されていた。
お墓を眺めながら境内のカフェで談笑し、ランチを楽しむ人たち。
サイトでカフェのメニューを紹介するために、
テーブルに頬を擦りつけた窮屈そうな姿勢で、
飲み物の写真を撮る墨染めの衣の若い僧侶の表情。
彼の表情はお経をあげているときよりも真剣と思えるものだった。

忙しい現代人に振り向いてもらおうと、
ユニークな取り組みをするお寺が増えているとか。

新宿のあるお寺では本堂を<ライブハウス>と称して開放。
お経とダンスのコラボレーション等では、
女性ダンサーが仏殿を前に踊る写真もあり、
少なからずショックを受けた。

これでは騒々しくて死者の魂も安らかに眠れないだろうと同情をし、
かつ呆れてしまった。

ついにお寺までもが、バリバリのビジネスの世界に参入したのだろうか?
もっとも、これ以前にもいろいろ趣向を凝らした、
お寺のお墓ビジネスをテレビで見たことがある。

お寺の経営は苦しいのだろうか? 

以前、テレビのドキュメンタリー番組でみた
関西地方のお寺の若い跡継ぎは今どきの長髪で、
奥様と一緒にベンツで東京まで乗りつけブランド物を買い漁っていた。
それを眺めながら、坊さまと言っても人の子なのよね、と自分に納得させた。

お寺も千差万別で、昔からの古い建物のままのものから、
真新しい金ぴかの大きな本堂が目立つお寺も結構多い。

お寺や神社巡りが趣味なので、東京の由緒あるお寺を巡ったことがあるが、
かなり近代化されていて、それらが金銭に結びつく印象があり、
いやに俗っぽく感じられたのでがっかりした覚えがある。

わたしは母の葬儀の際に、昔から言われている「坊主丸儲け」を実感したので、
昔からのこの手の文言はよく当を得ていると感心した。

たとえば戒名。
ランク付けによる戒名料の違いは遺族を悩ませる。
ランクと料金の狭間で、疑問に思ったり納得がいかなくても、
生きている者の使命として死者には出来る限りのことをしてあげたい。
それが人情である。

戒名・法名の辞典のサイトによると、仏教は本来平等を説く教えであるから、
戒名にランク付けがあってはならないが、実際にはランク付けがあるとあり、
いろいろ説明があったが、ここでは割愛させていただく。

良い戒名と俗に言われるのは院号と位号のことをさしているのだそうだが、
母の院号は最高位といわれる院を、位号も仏教徒として一番上の大姉をいただいたが、
その戒名代は三十万円。
しかし、これは超破格の安さだという。
お坊さまが母と知り合いだったためである。

そのお坊さまは実に良い佇まいと(お坊さまらしい)
考え方もとても尊敬していたが、それとこれは別。
戒名は名前をつけるだけである。
元手はかかっていないし税金も払わなくて済む。
失礼ながらオイシイ話ではないかと思った。

お寺も外からは窺えない台所事情があるのだろうが、
お寺の役割を考えると奇をてらったビジネスではなく、
死者が安心して眠れるような環境の中で、
それにふさわしいビジネス展開をして欲しいと思うのです。

このような場所でのカフェやダンスが盛況なのは、
「変わった場所で楽しめるならお寺でもかまわない」
「普通では経験できない場所だから」
もはや普通のスタイルでは飽き足らないと、変わった趣向を好む客の好奇心が
それらを後押ししているように思えてならない。

生きているうちは何かと煩わしい思いをしたのだから、
死んでからはゆっくり休みたいと願い、
これでようやく安眠できると信じて墓穴に入った故人たちに、
心から同情を覚えます。

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