「色恋ばかりが、人生じゃない」 - 『恋ではなく―― It's not love, but so where near.』論

恋愛ゲーム総合論集 収録


0.序


共通の幼なじみ、阿藤扶の「卒業までに映画を一本撮りたい」という望みに答え、数年ぶりにお互いに言葉を交わす主人公、槇島祐未と八坂典史。
映研、写真部、デジタルメディア同好会を巻き込み、やがて撮影隊は日本海の孤島、飛島ロケを敢行する。皆で過ごすクリスマス、因縁のバレンタイン。友情と恋愛、そしてライバル心に翻弄されながらも、彼らは時には映画を、ときには写真を撮り続ける。
だが、卒業後の進路が異なる彼らに、残された時間は決してそう多くはなかった。

そして、クランクアップの時、彼らが選ぶ選択とは?
『恋ではなく』公式サイトより)


 早狩武志のゲームシナリオライターとしての4作目となった『恋ではなく―― It's not love, but so where near.』(以下『恋ではなく』)
 田舎町(*1)を舞台に特定の目的のために結集した若者たちの群像劇。恋愛ゲームにしては異例の男性サブキャラクターの多さ(*2)
 どれもこれもこれまでの早狩作品と通底する要素であり、従来からのイメージから逸脱するものではなかった。東西に分裂した日本で内戦という「群青の空を越えて」の方がよほど異色作であった。
 筆者を含め、ほとんどの人間は従来通りの早狩武志作品以上のものを期待していなかったのではないだろうか。発売前の異例のスタッフコメント(*3)など、本来の内容以外のところで物議を醸していた作品でもあった。

 だが、果たしてその、従来通りのものが出てくるであろうという予想は正しかったのだろうか?

 本稿では『恋ではなく』について述べるとともに、本作のシナリオライターである早狩武志の主張・作家性についても言及する。直接的なネタバレはなるべく避けるよう留意したものの、ある程度の台詞引用は致し方ないものとした。未プレイの方は注意願いたい。
 また、BugBug2011年7月号に掲載された『恋ではなく』発売記念の早狩武志インタビューからも引用を行う。


1.より進化した多視点描写

──どうして女の子の視点も書かれるんですか?
【早狩】恋愛で女の子がどんなことを考えているかすごく興味があって、書いていて楽しいから。
恋愛物語だったら、両方からの視点から見られた方が面白いと思います
(BugBug2011年7月号 早狩武志インタビューより)

 『恋ではなく』は写真家志望の少年八坂典史と、彼の幼なじみにして現役のファッションモデル槇島祐未のふたりを主軸とした物語である。
 主人公としてこのふたりが対置されているが、視点人物は彼らだけに限定されず登場するキャラクター全てが視点人物となっての描写がなされている。視点を男性主人公一人に限定しないのは早狩武志作品の特徴とすら言ってよく、(*4)したがって人間関係の錯綜と感情のすれ違いを描きながらもそれが男性主人公から見たヒロイン=少女の不可知さに起因しないのが本作の特徴と言えるところである。プレイヤーは主人公のふたりをある意味では神の視点から眺めることになるのだ。 
 また、全ての登場人物の視点から物語が語られるゆえに、ある特定の組合せで語らないことによる効果が生み出されている。この顕著な例を挙げれば、メインヒロインにして女性主人公の槇島祐未とは過去に因縁浅からぬ仲であるサブヒロインの堤蓉子視点がある。登場直後から蓉子は祐未への対抗心を隠そうとせず、典史をめぐってふたりは三角関係とでもいうべき緊張状態におかれるが、蓉子から見た祐未、祐未から見た蓉子の姿が直接的に描写されることは一度もない。つねにその場にいる第三者視点(*5)で祐未と蓉子の対立が描かれる。また典史に対して想いを寄せる蓉子であるが、蓉子と典史の会話はすべて蓉子視点で描写され、典史が彼女に対して内心でどのような感情を抱いているかはプレイヤーの元に明らかにされない。
 男女ふたりの主人公、典史と祐未のすれ違いについては、お互いの事をどう思っているか視点変更を利用してこの上なく語られるのとはまことに対照的であり、視点の向きがそのまま感情の向き、関心の高さを表しているといえよう。
 こういった手法は他の人物の組み合わせでも使われており、映画の監督を務める扶へ秘めた思いを抱く好佳などはこの好例である。このふたりの関係は常に好佳から見た扶として描かれ、しかも好佳視点での扶との会話シーンは最終盤に至るまで登場せず、それまではずっとその場にいない扶のことを考える好佳という形をとっている。これはまさに扶に淡い想いを抱く好佳と、それに全く気づかない扶という関係を視点の移り変わりによって見事に描写している。
 とはいえ、総勢12人のキャラクターを視点の向きも考慮して組み合わせると132通りにもなり(*6)、そもそも作中に登場しない組み合わせの方が多い。しかし蓉子と典史のようになんども繰り返されても決まって片方の視点からしか描かれないシーンの存在は、場当たり的に視点人物を選んでいるわけではないことを表している。男性主人公以外の人物の視点の描写があるという程度の早狩作品の特徴だった多視点描写が、構成にまで組み込まれて『恋ではなく』でさらに一つ上の段階へ上がったといえるのではないだろうか。


2.三角関係が発生させない「ライバル」たち


 『恋ではなく』のシナリオ分岐構造は、初期3ルート+それらをクリア後に現れるグランドルート という計4ルートで構成されている。すなわち初期から進行できるいくつかのルートで個別のキャラクターについての物語を描き、それらすべてを終えて進めるようになるルート(*7)で物語全体の収束をはかる構造である。2011年の恋愛ゲームとしては非常にオーソドックスな作りであり、それ自体に特筆すべきところはない。むしろ注目するべきはその構造自体ではなく、初期3ルートがサブ男性キャラクターの誰を選ぶかで分岐しているという部分、そして主人公-祐未-サブ男性キャラクターの三角関係が発生しないことだろう。

【典史】お前がさぁ……
もし男だったら、ぜんぶ丸く……楽だったのに。
【祐未】あんたたちと同じに……男に、生まれたかったわよ。

 プロカメラマン志望の典史。すでにプロモデルとして活躍し、さらに上を目指す祐未。ふたりの主人公は恋や愛を超越したもので結ばれ、彼らの間に存在するのは単純な色恋ではなく、ライバル心と憎悪と執着の入り交じったとてつもない何かである。ありきたりの「幼なじみの素直になれない好意」などとは一線を画すものがそこにはある。男だったら楽だったのに、すなわち恋愛感情が介在しない関係であれば、単なるライバルとして競い合えただろう事を残念がる台詞は典史と祐未の関係を見事に象徴している。曲がりなりにも『恋ではなく』の特権的なメインヒロイン(*8)であり、プロモデルである祐未にたいしその女性性を評価しないというねじれがあるのだ。
 むろん、『恋ではなく』の作中にこんな男女関係しか存在しないわけではない。自主制作映画の監督を務める阿藤扶が祐未へと寄せる想いは実にストレートなものであり、恋愛ゲームの物語としてはこちらが正しいといえる。ルートによっては扶から祐未への愛の告白が起きることもある。

【祐未】つまり扶は……わたしがわたしである。ただそれだけの理由では、好きになってはくれなかったんだよね。
扶にとっては……わたしである以前に、女の子、だったんだよね。

 だが、扶の好意はこんな理由でもって祐未に一蹴される。見目麗しいから気になった。異性だから意識した。そんな当たり前の理由は、祐未にとっては受け入れられないものなのだ。
 求めているのは競い合い、お互いを高め合うことができる存在であり、そこには色恋沙汰が入る余地はないから。「モデル志望」ではなく、すでに仕事をして代価をもらう立場であるプロのモデルという立場に祐未を配置したことが光っている。仕事と恋愛のどちらを優先するかという問題意識を持たせやすい人物造形として実にうまくできている。


3.「このあとすぐに別れそう」が批判にもならないカップルたち


 「こいつら、エンディングのあとすぐに別れそうだよね」
 恋愛ゲームの物語を通じて成立したカップルについて、賢しらぶったこんな批判がぶたれることがある。いわく、こいつらは単なる吊り橋効果だから長期的にうまくいくはずがない。いわく、こいつらは生育環境に違いがありすぎて共同生活できるわけがない。いわく……
 恋愛を主題にあげ、最終目的をその恋の成就においた物語においては、作中で成り立ったカップルが「すぐに別れそう」というのは大きな批判となるだろう。だが恋愛が成就したあとの別れまでも視程に入れる『恋ではなく』では、それは成り立たない。

恋人とは別れてみないと理解できない、というのは自分の個人的な持論でして。
なぜなら付き合っている最中は多かれ少なかれ、相手によく見せようと誰もが自分を偽っているからです。
その人が本当の姿を現すのは別れの場面で、だからこそ恋愛について描写するのならば、別れ話は絶対に必要だと考えていました
(『恋ではなく』予約特典小説後書きより)

 元々早狩武志作品は「失恋」に非常に重きを置いており(*9)、主人公に選ばれなかったヒロインの失恋を、そのヒロイン自身の視点からきちんと描く点に特色があった。『恋ではなく』でも従来と同様に直接的な失恋は描かれるが(*10)さらに加えて現在付き合っているカップルの将来の別れまでも対象が拡張される。たとえば物語開始時点で恋人関係にある須崎孝一(*11)と宇渡美月(*12)のカップルにおいては、スランプでいい写真が撮れなくなったら恋人と別れればいい、なんてことが悪い冗談として語られるくらいである。あくまでも冗談ではあるとはいえ、無邪気にこのままずっと一緒だなんて信じないのだ。

【孝一】お互いが好きで、付き合えばラブラブ、幸せ色の世界……そんなの、幻想だよな。

 この構成において、「僕と、僕らの夏」の冬子、「群青の空を越えて」の美樹・夕紀に対応するような、恋愛の甘さも苦さもかみ分けた大人が登場しないのは重要なところである。年上のキャラクターとして登場する関矢尚人(*14)が、旧作からの流れであればその種のポジションに着くべきであろう。しかし『恋ではなく』における彼はいまだ初めての恋人との交際にうかれる青年であり、学生の主人公たちを導ける存在にまで至っていない。彼もまた、典史や祐未より多少なりとも年上なだけで、まだ初めての失恋を味わってはいないのだから。


4.恋なんて、なんどでも出来る


 すれ違いの悲しさ。片思いの切なさ。失恋の苦しさ。裏切りの憎しみ。そして、想いの通じた喜び。その発現の形は様々であれ、恋愛ゲームにおいて物語の主軸に恋愛がおかれるのは至極当然のことである。卵が先か鶏が先かの議論になるが、恋愛が主軸だからこそ恋愛ゲームだともいえよう。だが本作では、恋愛だけが物語の主軸とはならない。そもそもタイトルが否定形の『恋ではなく』であり、非常に自覚的に色恋を中心に据えることを避けている。
 恋愛の一回性にこだわらないのもまた早狩武志作品に共通する要素であるが(*13)作中のキャラクターを通して直接的に語っているのも特筆すべきところである。

【祐未】これから恋人なんて、何人だって作れる。結婚だって、何度でもできる。
だから典史にこだわる理由なんて無いんだ、とわたしはくりかえし自分に言い聞かせた。
でも、
本当は、わかっていた。
いくらだって恋愛はできても、それで、例え幸せになれたとしても……典史みたいに、わたしの存在そのものを認めて、男も女も関係なく本気で競ってくれる相手は、もう二度と現れないでしょうね。
おそらくそれが、無慈悲で残酷な現実だろう。

 最初の相手=運命の相手=一生を添い遂げる相手、というある種の幸せな理想主義は本作には存在しない。だがこれも、『恋ではなく』の登場人物たちには恋愛が人生において最も優先順位の高い事柄ではないからいえることである。彼らは目前の恋愛を軽んじているわけでは決してないけれど、しかしただ一つの理想の恋愛に人生を費やすことも是とはしない。
 主人公たち、典史と祐未の間でもそれは同じであり、彼らは決して「別れ」から目をそらすことはない。
 たとえ将来うまくいかなくなったとしても、紆余曲折を経て結ばれた経験こそが糧になる。それはすなわち、彼らが恋だけに生きていないと言うことにストレートにつながってくる。彼らは目前のパートナーを軽んじているわけでは決してない。真摯にパートナーに向き合っているからこそ、付き合って初めてわかる辛さについて語るのだ。
 こんな祐未と典史の恋愛に対する態度は、恋愛ゲームの主人公カップルとしては異色である。だが、そんな彼らといえども完全に色恋から自由になることもまたできない。序盤の3ルートは、それぞれ異なるライバルキャラクターを投入することによってこの葛藤を起こしている。
 そして物語を締めくくるグランドルートでは、また様相が異なってくる。グランドルートから新たに投入されるキャラクター、桐生省吾(*15)と堤蓉子(*16)の極端すぎる性格付けは、『恋ではなく』のテーマである恋愛と仕事/趣味の葛藤をそのまま象徴しているのだ。「世界レベルのモデルになること」のみを人生の目的とし、平凡な幸せを忌避する省吾。正反対に、数年前に終わってしまっていたはずの恋に執着し続ける蓉子。

【省吾】つがってはらんで幸せになって、それでどうなると言うんです。
……そんな人生が望みならば、そのへんの犬猫に生まれれば良かったのに
人が目指すべきものと、ぼくにはとうてい認められませんね。

【蓉子】一生を掛けてやりたいこと、なんて……将来の希望、なんて。
そうそう……誰もが抱えているものじゃないんだよ、典史くん。

 それぞれ自分の恋と夢の間で揺れ動く登場人物たちの繰り広げる人間模様を3ルートぶん描いたあとに、新しく投入したキャラクターでもって揺れ動きの両極端を見せる。それはすなわち、価値観の対立を描くのではなく相反する二つの価値観と折り合いをつけ、未来へ進むというグランドルートのラストへとつながる道のりである。省吾と蓉子がそれぞれ現在のままの態度と人生観を保ち続けてもうまくいかないように描写され、グランドルートのラスト付近で改心させられるのはキャラクターがテーマに奉仕させられていると言えなくもない。だが、あれこそは早狩武志なりの救済の姿であり、大団円にふさわしい全員が幸せになるハッピーエンドを目指した結果なのだろう(*17)。


5.大切なもの。それは、恋ではなく──


僕は恋愛を、人生の中で二番目に来るものだと思ってるんです。
なくていいとは思わない。
あった方が幸せで豊かだけど、それを一番にしてしまう人生は寂しくないかなぁ……と。
一番目は仕事であったり趣味であったり、人によって順位付けは違うと思います。
でも二番目に来るのは共通して、自分の傍らにいる人間であったり、恋愛だと。
このことを、逆に恋愛ゲームで書けたのはうれしかったです。
(BugBug2011年7月号 早狩武志インタビューより)

 早狩氏のこの言葉こそ、『恋ではなく』の持つテーマを象徴するところだろう。
 大切なものは、恋ではなく、愛でもない、もっと別な何か。それを抱いて、未来へ進むことのできるもの。恋愛を主題におくべき恋愛ゲームで、異色ともいえるこの価値逆転も、すべてはひっくるめて一つの作品として完成しているのが「恋ではなく―― It's not love, but so where near.」であるとして、本稿を締めくくりたい。

 願わくば、本作をプレイしたプレイヤー、これからプレイするプレイヤーすべてが、人生をともにできる恋ではない何かを見つけられることを祈って。


脚注

*1 「僕と、僕らの夏」ではダムに沈む予定の山村、「群青の空を越えて」ではつくば、本作では酒田
*2 12人中6人が男性 男性キャラクターの多さは早狩武志作品に共通するところであり、従来の作品では主人公を差し置いて男性サブキャラクターとヒロインが結ばれるという展開があったこともある
*3 「最終的に槙島祐未がライバルに奪われるもしくは付き合うというエンディングはございません」「ライバルと二人で出かけることや手を握ることなどはございます」「いわゆる"寝取り""寝取られ"というのに敏感な方は、その点あらかじめご了承の上お楽しみいただければ幸いです」
*4 PCゲームにおいて早狩氏が視点変更を用いなかったのは『潮風を消える海に』のみである。本作はシナリオ分岐なしの小規模・低価格作品であり、フルプライス・マルチエンディングの『僕と、僕らの夏』『群青の空を越えて』とは多少異なる
*5 すべて男性主人公の典史以外の人物視点なのが示唆的である
*6 1対1のみを考慮した場合 複数人での会話も考慮するとさらに増加する
*7 一般的に言われるところの「トゥルールート」
*8 典史と祐未が結ばれる結末しか用意されていないこの物語で、祐未に対してこれ以外の表現ができようか
*9 「恋愛ゲームシナリオライタ論集30人30説+」掲載の拙稿「うまくいくばかりが、恋じゃない」参照
*10 祐未に想いを寄せる扶、亮輔  典史に想いを寄せる朋子
*11 デジタルメディア同好会会長 映画撮影に協力する
*12 写真部部長 典史に写真の指導をしたのは彼女
*13 「恋愛ゲームシナリオライタ論集30人30説+」掲載の拙稿「うまくいくばかりが、恋じゃない」参照
*14 教育実習で母校を訪れた映研の先輩
*15 祐未のモデル事務所の後輩 世界クラスのモデルとなることを期待されている
*16 典史たちとは違う学校の学生 典史に数年来の想いを寄せる
*17 「幸せにならない悲劇のパターンを見せたあとで、「よくある幸せだけど、よかったね」って言うルートがきたら、その、よくある幸せがすごくありがたく感じるじゃないですか。こういう演出はゲームならではですよね」(BugBug2011年7月号 早狩武志インタビューより)


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