新エッセイの部屋

  第 2 回 ・・・ 三 さ 子 の 「三」と は

  私の名前は「三さ子」、勿論本名です。ここ数年来、誕生する女の子に「○○子」と命名することはとても稀に

なってきています。それに比べて私たちの年代では「子」がつく女性が半数を超えるのではないでしょうか。私と同

じ「みさこ」という名前も少なからず耳にします。女優さんにも「紺野美沙子さん」、田中美佐子さん」等がいます。

「みさこ」の「み」の漢字は女性であるからして「美」が圧倒的に多いようです。たまにひらがなの「み」だったり、珍

しものには「弥」、「実」等もあるようです。そんな中、私の場合は漢数字の「三」なのです。三女なのでは?と思わ

れた方、素晴らしい。実際私には二人の姉がおり、三女には違いありません。でも三女の三ではないのです。

 実はこの三は江戸末期から明治、大正にわたり日本

 画家としての道を歩んだ「飯島三友」からとられた一

 文字なのです。飯島三友の略歴は下記の通りです。

 飯島三友(1829〜1917)

 天保元年4月北佐久郡望月町に生まれる。岩村田藩

 旧代官、飯島源五兵衛豊武の二男。15歳にて江戸に

 上がり渡辺崋山門下四天王、椿 椿山の門に入り三友

 と号す。花鳥山水画を学びて後、岩村田藩の絵師とな

 り画墨に一生を託す。大正6年2月、88歳で逝去。
 

 この飯島三友は私の曾祖父、すなわちひいおじいさんにあたります。三さ子と名付けたのは父です。父に私が

将来画家になって欲しいと思っていた気持ちがあったのかは定かでありませんが、今は絵を描くことが私のライ

フワークとなっています。飯島三友の血を継ぐ親族の中で現在絵に携わっているのは、私以外にもう一人従兄

に当たる田中三友(本名、信義)がいます。

 その従兄からこの3月に故郷の望月町で「飯島三友、田中三友二人展」を開催するという案内が届きました。

平成の世に江戸の三友の絵が公開されるということで、三さ子の「三」についての秘密を明かしてしまいました。

                                                   2005年 2月  三さ子  

田中三友作品

飯島三友作品

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