『四つの魔物』 | |
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昔、楊朱が言った。 『人間あくせくするのは4つのことのためだ。 1に長寿、2に名声、3に出世、4に財貨だと。 この四つにとらわれている者は鬼神をおそれ、人をおそれ、 権威をおそれ、刑罰をおそれる。 これを自然にそむく者と呼ぼう。 この場合、その人を生かしたり殺したり、運命を支配するのは 自分以外のものである。』 では、四つの魔物を恐れない、貴方を支配するのは、誰…? 先日、待ち焦がれ、恐れ続け、私の全てを支配するあの人の前に立った。 30年前の別れの舞台とはまるで違う民家。 今ではもう思い出せない、けれど眼壁にこびりついているあの形相は思い出せない、 まるで子猫のようにハリボテのような警戒心を出しているあの人。 断罪を待ち続けたマゾヒストは白々しくあの人に照準を合わせないで言葉をつむぐ。 不思議と冷静(と思い込んでいるだけか?)に、あの人の前に立てた。 優越感からくる、苛立ち。 失望したくせに、安堵する。 ホラ、見ろ。私はまだ彼に支配されているではないか。 信玄調伏失敗から数日後、私は譲さんの様子伺いという口実であの人に会った。 とりあえず、今はナニもない様子だったので、高耶さんを家まで送りますというと、 これからバイトなので、先日奢られそこねた飯!と言われ、すぐそこのさびれた喫茶店に入った。 「ここさーすっげキタネェし、ウェイトレスもオバチャンだしさ、 薄暗いけどなんか安心するんだよ。値段の割りに量も多いし。」 陰気なウェイトレスがオーダーを受け取っていった後、 コソッと話し掛けてくる。 確かに、昼間だというのに方角が悪いのか、ビルのせいなのか店内に日光はまったくなく、 ぼんやりとしたオレンジ色の照明がホコリっぽさを出していた。 天井も低いし、薄暗いため築何年まではわからないが、相当古い建物だということは充分に窺い知れる。 「ですが、ところどころの装飾品はきれいですね。値段では出せない雰囲気をかもし出しています。 アンティークさとシックさの融合ですね。」 「なっげーウンチクだな;アンティークって言ったって、とどのつまり骨董品じゃねぇかよ。」 「いい所ですねって言ってるんです。」 興味を失ったのか、プラスチックでできたグラスを傾ける。 喉が上下する。 まだ未発達な喉仏が音をかすかに立てて、グラスを置きながら舌が唇をたどる。 改めて店内を見渡すその横顔は、まだ子供のもので自分のように頤が目立つわけでもなく、 肌もまだ若木のようだ。 血のシミのない手。 切られていない首。 その眼が穏やかだ。 ふと、その顔を机に押し付けてやりたくなった。 よそ見をしているその頭部をわしづかみにして、力まかせに机におしつけて、 頬の肉が圧力でテーブルクロスに歪む様を見たくなった。 きっと彼は驚きながらも横目でにらむだろう。 簡単じゃぁないか。腰を浮かせて、前のめりになって、そう、手のひらを広げて…。 ドンッ 無言でクラブサンドイッチが置かれる。 ウーロンとコーヒーも。 伝票を置いてさっさと離れて行く女。 「さって、食うか。」 ニコニコと、年相応の顔で食べ始める。 私も、コーヒーを飲む。 少し、熱かった。 「ごっそさん。」 「どういたしまして。」 「っつーか、あーゆー場面でコーヒーだけってあんた、キメすぎ。」 「キメすぎ?」 「火サスにでてくる不倫中のオトコみてーってこと。」 「高耶さん、意外と昼メロとか見てるでしょう?」 「昼メロって・・・何時の時代だよ;」 「戦国時代ですよ。ところで、アルバイトは何時からなんですか?」 「ん?あぁ五時から。いっつも学校帰りだからな。あの、駅前のガソスタで今やってんだよ。」 「そうですか…じゃぁまだ時間がありますから、ちょっと散歩でもどうですか?」 「おう。」 いつだったか訪れた、千曲川を歩いていた。 どうにも、彼と共に過ごす時間を欲したくせに持て余していた。 だから、彼にとってまだ未知な場所を選んだのだろう。 まだ彼は、この川に流れた血を思い出していない。 「アルバイトは週何日でやっているんですか?」 「んー結構その週によるけど、今は週5ぐらいかな。」 「…学業よりもそちらのほうが本業のようですねぇ。」 「仕方ねーだろっバイクのローンまだあるしなぁ…。ガス代だって稼がなきゃなんねぇし。」 「…お金が、欲しいですか?」 第四の魔物<財貨>を恐れてる? 「そりゃな〜。あって困るモンじゃねぇし。」 「学校もサボっちゃいけませんよ。」 「わぁってるって。美弥とおんなじこと言うのな;」 第三の魔物<名声>も、第二の魔物<出世>も恐れないの? 「なぁ、俺にも一本くれよ。」 「ダメです、未成年者の吸うものじゃありません。」 第一の魔物<長寿>…。 「自分が、400年も生きてきた、という実感はわきましたか?」 「まっさか。でも…夢だとか、幻だとかは思ってねぇよ。現実は小説よりもナントカっつーヤツ?」 「小説より奇なり、ですよ。」 「そうそう、ソレ。なんか、なんでもアリなような気もしてきた。(笑) 」 「なんでもアリですか…じゃあ貴方が魔物だとしても驚かない?」 眼を細めて、軽く言う。 「400年も人の体で生きてるんだったら、それはもう魔物じゃないのか?」 口唇は、喜怒哀楽どれを示しているのかわからない形を描いている。 眼は、川を見つめている。その視線は遠い。 詰襟で、髪の毛がゆれている。 「魔物かも、知れませんね…。」 あぁ、貴方は四つの魔物に犯されていない。 けれど、確かに自然にそむいている者。 あなたは、あなたという魔物を恐れ、支配されている。 凍りついた夜に、獣が飢えて息を吐いている。 灰色の雲よりも、有毒で、汚くて臭い息。 皮で覆われた肉球で火種を踏み消す。 「さぁ、そろそろアルバイト先に送りますよ。」 「ん。さんきゅ。」 コンクリの上でもみ消された火種が、 いつか氷に結ばれた檻を溶かす夜が来ることを、 どこかで予感する。 期待だったのかもしれない。 end
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