税所家住宅
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出水市指定文化財 (平成7年9月5日指定)
鹿児島県出水市麓町5-11
建築年代/江戸時代(19世紀初頭・推定)
用途区分/郷士
指定範囲/主屋・祠
公開状況/公開
薩摩国の北西部に位置する出水郷は、肥後国との藩境にある外城として最も重要視された地である。関ヶ原合戦の前年から整備が始まり、約30年の年月を要して薩摩藩内における最大級の外城となった。当住宅は地頭仮屋から比較的近い位置にあり、竪馬場通に東面して表門を構える。代々外城の政務に携わる「郷士年寄」という重職を務めてきた上級郷士の家柄で、住宅は半農半士的な生活を余儀なくされたと云われる郷士身分ながら、入母屋屋根付きの式台玄関を構え、座敷も整う本格的な武家住居である。


一度は九州のほぼ全域を掌中に収めた島津家にとって、太閤秀吉による九州征討で薩摩・大隅の二国に押し込められるという結末に、膨張した家臣団をどうやって維持していくか、さぞかし頭を抱えたに違いない。
関ヶ原合戦で敗軍に与しながらも領土をそのまま安堵された江戸期においてもなお、領民に対する武士の割合が他藩と比して5倍にも達したままであったというから、中世から連綿と続く古いイエが存続する限りは家臣団を解体することなど生易しいことではなかったのであろう。
そして、その是非はともかくとして、このことが薩摩と云うクニに、他藩にはない外城制と呼ばれる独特の領国統治システムを編み出させた。領内の103ヶ所に邑主的な存在として地頭を配置し、その政庁である仮屋を中心に麓と呼ばれる武家集落を作り、そこに城下に収まりきらない大半の家臣団を半農半士的な生活で散住させたのである。
京・大坂から遠く離れた九州南端の僻地ゆえに、軍制の近世化が遅れ、兵農未分離の状態にあったため、多くの家臣団もこうした措置を比較的素直に受け容れることができたのであろう。その意味においては、薩摩というクニ、島津という古いイエであったからこそ可能な芸当であったと云えるのかもしれない。

出水は、その中でも最大規模の麓集落で、1000人近くの武士がこの地に居住したという。立地的に熊本藩・人吉藩との藩境となる位置にあったため、領国を守る役割を担っていた。

当家は上級郷士の家柄とはいえ、半農半士的な生活を送っていたとのこと。蚕を飼っていたらしい。建物は取り壊されているが、礎石とした布石列が残っている。寒冷地の養蚕とは異なり、主屋の上層階で行うスタイルではなく、別棟を建てたらしい。また主屋と共に文化財指定を受けていた祠は屋敷の北側にあったらしいが、座敷南側に移され、建て替えられ既に失われている。


江戸期の軍役高帳によれば、税所家は加世田から郷士の「所移し」により移住してきたとのこと。
元和6年には31石の石高は、1684年には90石、1710年には178石、1761年には130石、1794年に130石、1841年に130石、1867年に100石と激しく変動している。
外城士は鹿児島城下の内城士と比較して、石高が低く、身分的にも下位にみなされてきたが、明治維新後は農村部という立地条件を逆手に殖産興業に励む者が多く、当家も茶や養蚕などを行い、むしろ豊かな生活を送る者が多かったという。



 

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