吉村家住宅
Yoshimura


 
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国指定重要文化財 (昭和49年2月5日指定)
佐賀県佐賀郡富士町大字上無津呂2856
建築年代/天明9年(1789)
用途区分/山村農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開

佐賀県の北方、福岡県との県境近くの脊振山中の深い山里に所在する山村農家である。有明海を臨む広大な佐賀平野においては、地域的な特色として屋根の棟筋が凹形となる、いわゆる「くど造り」と称される独特の屋根形状の民家が数多く見受けられるが、ここまで山中に来ると直屋が主流となる。当住宅は勿論、周囲の民家も直屋である。同じ佐賀藩領内にあって形式を異にする建前が存在することについては、藩の建築に対する規制が行き届かなかった為なのか、あるいは地理的な問題、経済的な問題、センスの問題なのかは判らない。山間部で平地が少なかったため直屋になったとの意見が大勢であるが、気象的な問題もあるのではないかと個人的には考えている。すなわち風に対する備えである。当住宅は中規模ながら非常に端正な形をしており、民家の見本のような建前である。屋根は庇を設けず葺き下ろしているが、軒を短く刈り込み室内が暗くならないように配慮が払われている。また山中の寒冷地ゆえに北面するウラ側の部屋には外気を遮断するかのように開口部を殆ど設けず、反対に南面するオモテ側の部屋には太陽の恵みを存分に取り込もうかとするように開口部を大きく取っている。


藩政時代、この地域は山内と呼ばれた。広大な佐賀平野側から古湯温泉を抜け、北上し続ける。途中、大野代官所の跡地を示す看板と石垣が見える。この代官所は佐賀藩と福岡藩の藩境を守るために設置されたもので、佐賀藩の支藩である小城藩から役人は派遣された。更に奥に進むと無津呂という変わった地名の小集落がある。南側に川が流れ、背後に山を背負う。集落の入口には集落の規模と比して立派過ぎる八坂神社があり、大きな銀杏の木が歴史を物語る。
当家に関する由緒は定かでないが、主屋の規模から相応の家柄だったのではないかと推測されている。住宅は直屋である。表側にイマ・サヤの間、ザシキを順に並べる。ザシキは床を構えるが、書院や違い棚は無く、代わって仏壇を併置する。長押を廻すが簡略化された座敷である。しかし一方でイマとザシキの間にサヤの間を置くのは何故だろうか。かなり整った座敷に見受けられるサヤの間が簡略化された座敷に取り入れられているのは何故だろうか。ひょっとすると格式を演出する意味ではなく、山間部における寒冷対策として、暖房効率の良い小さな部屋を設けたのではないだろうか。またザシキとイマの間にサヤの間を置くことによって、両者双方から発せられる人の声が漏れ聞こえることもなくプライバシーが守られるという側面もあるかもしれない。変哲もないような建前でありながら、いろいろ考えさせてくれるものである。そのようなことを縁側に座って早春の陽溜りの中、考えていると実に幸せな気分になれる。

 

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