柚木家住宅 Yunoki |
登録有形文化財 (平成12年10月18日登録) 岡山県倉敷市玉島3-8-25 建築年代/天明年間(1781〜1788) 用途区分/大庄屋(松山藩奉行格) 登録範囲/主屋・御成門・茶室(いずれも西爽亭建物) 公開状況/公開 新幹線の新倉敷駅の南方、高梁川の河口部にある玉島集落は江戸期には備中松山藩の港町として栄え、現在でも往時を偲ぶ海鼠壁の大店が点在し、県の重伝建地区に指定されている。当家は玉島の庄屋職を務めたという家柄で、藩主の参勤交代時には本陣に充てられたという。主屋は外観のみ往時の雰囲気を模してはいるが殆ど原型を留めぬ改造がなされており、文化財の登録は隣接する西爽亭と称される数寄屋風の書院建築のみである。ちなみに亭の名称は備後の儒学者・菅茶山の命名とのこと。 西爽亭は江戸中期に活躍した備後国の儒学者・菅茶山の命名である。天明年間の建築とされる。 亭は薬医門、玄関、書院から構成され、玄関は起り屋根の入母屋造で式台を構える。式台を上がると玄関の間、次の間、御成の間の3室が鍵状に並ぶ。書院の造作は数寄屋風で本陣座敷としてはくだけた印象である。 西爽亭には幕末において物語がある。亭の所在する玉島は備中松山藩の港町で、明治維新の動乱時において幕府の老中職を務めた板倉勝静が藩主であった。京都の鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府に対し、薩長側は徳川家及び主要官僚の職にあった大名達の領地官職を没収することとした。一夜明けて賊軍となった備中松山藩兵は所領に帰るべく玉島に辿り着いたものの、官軍に囲まれ足止めをくらい、一発触発の状態となった。藩兵を率いていた熊田恰は自らの命と引き換えに矛を収める官軍に嘆願。この西爽亭で自刃したというもの。 |