吉持家住宅
Yoshimochi



 
鳥取県指定文化財 (昭和49年3月29日指定)
鳥取県西伯郡会見町田住98
建築年代/文化年間(1804-1818)
用途区分/農家(大庄屋)
指定範囲/主屋
公開状況/非公開

米子の南東方向、美保湾に注ぎ込む日野川の支流・小松谷川を遡った会見平野の最奥部に所在する旧大庄屋屋敷である。南・北・東方を穏やかな丘陵に囲まれた微高地に屋敷は在り、正面に小振りな表門を構え、その背後に高棟から軒下まで一気に茅を葺き下ろす大屋根を冠する主屋を配置する。寄棟造・平入の主屋は復原すると桁行7間半、梁間5間半の中規模な建前ながら、傍に寄ると意外なまでに軒高で、遠目からの印象とは異なり大振りな建前である。当家は近世初期に戦国武将から帰農し、元和4年(1616)に当地に土着して以降、代々に亘り大山山麓の長者原の開墾に貢献があったとされる旧家である。この長者原は国土地理院の地図を眺めていると当家の北側の山を越した一帯を指すようである。日野川と法勝寺川が合流する手前の三角形の沖積地で、現在でも長者原台地と呼ばれて肥沃な米子平野の一画を形成してはいるものの、嘗ては水利が悪く荒廃地であったらしい。この地の開墾は困難を極めたようで、当家が江戸初期の元和4年に当地に土着して以来10代に亘って多くの私財を投じ、243年間の歳月を経た幕末の文久元年(1861)に、ようやく8.8kmに及ぶ農業用水路(佐野川用水)を開通させ、およそ480町歩もの土地の開墾に成功したとのことである。名峰・大山を祀る大神山神社の参道脇に吉持長者寄進の大岩に刻まれた御地蔵様が残されているが、江戸中期の当主・甚右衛門が用水路開削の完成祈願のために寄進したものらしいが、代々に亘って強い意志と不屈の精神を持ち合わせないとできない大事業である。最初、こうした逸話を知らずに当住宅を訪れた際、大庄屋職を務めた家柄の割に質素な屋敷との印象をもったが、江戸期を通じて地域の発展のために大いなる貢献を果たした本当の意味での大庄屋に相応しい家だったのである。


 

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