永富家住宅 Nagatomi ![]() |
| 国指定重要文化財 (昭和42年6月15日指定) 兵庫県揖保郡揖保川町新在家字横田337 建築年代/文政3年(1820) 用途区分/農家(庄屋・大地主) 指定範囲/主屋・長屋門・籾納屋・大蔵・乾蔵・内蔵・味噌蔵・東蔵 公開状況/公開 【書きかけです】 嘗て民家建築が文化財として認知され始めた頃には、豪農と称される農家の由緒について、戦国期には武士として活躍したが藩政期に至って帰農するなどして庄屋・大庄屋となった古い家柄の階層と、江戸中期頃から新田開発によって富を蓄積し、家運を隆盛に導いた新興地主層を明確に区別する考え方が色濃く残っていたような気がする。しかし家作の実際は主屋や蔵などの建物は老朽化や火災などを理由に建て替えられていることが多く、帰農当初からの建築が残されている稀少な例を除いて、殆どその違いを見出すことは難しかったのではなかろうか。けれども屋敷構えや立地条件にまで目を向けると、そこに埋め切れない相違があることが朧に見えてくる。 永富家住宅は、山陽本線の竜野駅の北方2km程のところ、揖保川沿いの平野部に所在する播磨地方屈指の豪農住居である。揖保川を少し遡った先には薄口醤油の産地として全国的に名が知られる脇坂家51000石の播州龍野の城下町が所在しており、当住宅が立地する新在家集落も龍野藩領に属している。永富家の出自は伊賀の武士であったとされ、能楽の祖である観阿弥・世阿弥にも縁ある家柄と伝えられているが定かではない。中世以来、下揖保庄の預所職であったともされるが、少なくとも当屋敷が所在する新在家は江戸中期に集落が拓かれた揖保川の氾濫原で、確たるところとしては、享禄(1680前後)の揖保川氾濫後、現在地に土着したことに始まるようである。近世中期以降、着々と富裕を加え、寛保2年(1742)から一時期、庄屋を務めたこともあるらしいが、新興地主として寛政年間(1789-1801)に龍野藩の御用金用立てに尽力した功により文化9年(1812)に苗字帯刀御免となり、士分格を得ている。巷からは「新在家の大家」と称され、播磨地方屈指の富豪として名を轟かせた存在であったという。 住宅は平地の田圃地帯の只中に位置しており、約800坪の屋敷地に153坪の建坪を誇る巨大な主屋を中心に長屋門や籾納屋、大蔵などの付属建物群が周囲を取り囲む。現存する敷地内の建物は主屋と同様に全て国重文指定を受けており、嘗てはこれらに加えて米蔵や納屋、離れ座敷等も残されていたとのことであるが、残念ながら昭和37年に解体されている。敷地も建築当初は936坪と更に広かったようである。遠目にも鬱蒼と茂る屋敷林と白壁の練塀、主屋を取り囲む建物群から成る威風堂々たる屋敷構えから相当な素封家であったことは容易に想像できる。文化財指定前の昭和35年の台風被害によって3年間をかけて大修理が行われたらしいが、指定後も文化庁による解体修理工事等も実施されず、旧家たる雰囲気を今に至るまで保ち続けている。当家は日本を代表する大手ゼネコンとして知られる鹿島建設の中興の祖・鹿島守之助氏の生家(鹿島家へ養子)であったこともあり、現在は鹿島建設の関連会社が実に見事に保存しておられるが、このことが当住宅の保存にとって最も幸いしたのだろうと思う。私が当住宅を最初に訪れた平成2年頃に「主屋の屋根瓦などは、古くなって雨染みするものでも特殊な溶液に漬け込んで再利用できるようにした」と、鹿島建設OBの管理人さんに教えて頂いたことを今でも覚えている。文化財指定前だったので可能だった芸当だったのかもしれないが、個人的には均質な新瓦で葺き直すよりも、色ムラの有る古瓦を再利用した方が、旧家たる風情を保つ点では良いのではないかと思っている。こうした言葉に表し難いことを大切にするのは民間企業の為せる業であり、恐らく行政の方々にこの感性を求めるのは無理筋な話であろう。 さて、永富家の長屋門から主屋にかけての屋敷構成は実に美しい。屋敷表には桁行13.3m、梁間4.0mの本瓦葺の長屋門と桁行13.8m、梁間5.9m、本瓦葺の籾納屋が直に接して一体的に配置され、実質的には両者合わせて桁行27.1mにも及ぶ長大な長屋門を構えた風情である。長屋門は白漆喰の大壁に腰壁を竪羽目焼杉板張を割竹で押さえ、出入口の西脇に小振りな猿頭押え庇の出格子窓を設ける以外は装飾的な意匠を排除することで全体に抑制の効いた造作とする。籾納屋も長屋門と同様の仕上げとし、白漆喰壁に等間隔で4箇所の小窓を開きはするものの、長屋門と壁面ラインと合わせることで独立した建物感を極力消し去っている。そして長屋門の大戸を潜り屋敷内に歩を進めると、眼前には息を呑むほどに美しい本瓦葺入母屋屋根に白漆喰壁の主屋が端座している。本瓦と白壁の対照的な色彩が見事な美しさを醸している。大屋根には土間上に当たる部分に煙り出しの越屋根を載せ、単調に陥りがちな屋根のラインを引き締めている。また大屋根は軒下まで一気に葺き下ろさず、厨子建町家の様に段落ちさせて本瓦葺の庇を張り出し、中玄関前で更に向拝の様に張り出して軒先のラインに変化を持たせる。またその上手に位置する本玄関前には木連格子の破風を備えた入母屋造の屋根を突き出す。この玄関屋根も他と同じく本瓦葺とするが、軒先には民家建築では珍しく袈裟瓦が用いられている。総じて主屋前面の意匠は一分の隙も無い程に完成されており、これはもう農家の佇まいではなく、土俗的な風情を微塵も感じることのない洗練された美しさである。 大戸口から土間に足を踏み入れれば、天に架かる長大な湾曲した梁が連続する。これらの材は上方(大阪)からわさわざ運ばれてきたものである。土間に沿う床上部は桁行四列、梁行三列に部屋を並べる形で、土間境から奥に四間続きで座敷が並び、最奥の間から更に鍵の手に上段が設えられる様は民家建築の最高峰と呼ぶに相応しい造作である。 専門家の間で近世民家の到達点とも称されるが、この評価に私も素直に首肯する。 明治期に入るとこうした素封家の屋敷は財力にモノを言わせて大名屋敷のような姿へ変貌していくこととなるが、当家の場合は庶民としての分限をどうにか越えずに我慢を重ねることで、内なる美しさを醸すことに成功した建物ではないかと思っている。 江戸時代中期以降に大地主に成長した家柄は概して平野部に多い。 文化5年(1808)に長屋門が完成し、文化15年(1818)に納屋が建築され、文政3年(1820)に主屋が建て替えられた。また最近までは脇坂候から拝領した茶室があったという。 新興地主層の不本意は、屋敷の狭さにある。当住宅においても建築年代が先立つ長屋門と内蔵・味噌蔵が既にあったため、主屋の規模を大きくすることで、窮屈な建物配置となっている。長屋門から主屋の導線は、視覚的な効果として最も大事な部分であったため、ある程度の広さを備えた前庭空間が必要であった。そして梁間18.1mにも及ぶ主屋を建ててしまったため、内蔵・味噌蔵との距離が僅かな空間しか確保できないという事態となってしまったのである。 恐らく、日飼村の堀家のように古い家柄で大庄屋職を務めたような屋敷は、必要以上に広大で、むしろその空間を持て余す程にゆとりがあるものである。 【参考文献】 民家は生きてきた(伊藤ていじ著 美術出版社発行 1970年8月30日第6版)/解説版 新指定重要文化財12 建造物U 毎日新聞社刊/庄屋の生活 龍野市立歴史文化資料館/永富家現地パンフレット/近畿農村の住まい INAX ALBUM29 1994年12月15日第1刷発行/ |