大名墓

中国

長州藩  毛利家  知行 369411石
大照院(山口県萩市)
東光寺(山口県萩市椿東椎原)




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長府藩  毛利家    長府藩(萩藩支藩) 50000石
功山寺(山口県下関市長府町)
覚苑寺(山口県下関市長府安養寺町)




 
清末藩  毛利家    清末藩 10000石
高林寺(山口県下関市清末西)



 
徳山藩  毛利家    徳山藩 45000石
大成寺(山口県徳山市舞車)





 
岩国藩  吉川家  岩国藩 60000石
洞泉寺(山口県岩国市横山)





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岡山藩  池田家    岡山藩
曹源寺(岡山県岡山市円山)
和意谷墓所(岡山県吉永町)




 
岡田藩  伊東家    岡田藩 10300石
源福寺(岡山県下道郡真備町川辺)





 
備中松山藩 水谷家    備中松山藩 50000石
定林寺(岡山県高梁市和田町)




 
足守藩  木下家    足守藩 25000石
大光寺(岡山県岡山市足守)




 
新見藩  関家    新見藩 18000石
西来寺(岡山県新見市)




 
勝山藩  三浦家    勝山藩 23000石
安養寺(岡山県真庭郡勝山町)




 
津山藩  松平家    津山藩 100000石
泰安寺(岡山県津山市小田中)




 
松江藩  松平家    松江藩 186000石
月照寺(島根県松江市外中原町)




 
広瀬藩 松平家    広瀬藩 30000石
城安寺(島根県広瀬町)




 
津和野藩  亀井家  津和野藩 43468石
永明寺(島根県津和野町)





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鳥取藩  池田家  鳥取藩 320000石
清源寺・池田家墓所(鳥取県岩美郡国府町奥谷)





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山口県

毛利家 長州萩藩 369411石
大照院(山口県萩市)
東光寺(山口県萩市椿東椎原)
萩毛利家の墓所は当寺と東光寺に分かれて所在する。観光的には東光寺が有名で規模も大きいが、大照院の鄙びた風情もなかなか捨て難い。いずれにせよ、どちらも藩主の菩提寺としては第一級の規模である。
両寺とも伽藍がよく残り、墓所は境内の一番奥まった場所にある。
山の緑を背景に墓塔に至る緩やかな石段の両脇に多数の石灯籠が連なる。
墓石は大照院が五輪塔主体、東光寺笠付きの棹石形式である。必ず藩主夫婦の墓塔が並んで建ち、微笑ましい。
写真解説 @大照院庫裏。国重要文化財に指定され非常に美しい。
       A大照院墓所参道。墓塔の前に鳥居があり、そこに至る参道の両脇には灯篭が並ぶ。
       B大照院墓所。夫婦で対に並ぶ五輪塔が基本形。墓所の規模の割りに墓塔は小振り。
       C東光寺総門。元禄年間の建築で国重要文化財。ここより一直線に壮大な伽藍が続く。
       D東光寺墓所参道。これほどの規模の墓所は他では見られない。
       E東光寺墓所。玉垣に囲まれ笠石付きの墓塔が夫婦一対で並ぶ。 

長府毛利家 長府藩(萩藩支藩) 50000石
功山寺(山口県下関市長府町)
覚苑寺(山口県下関市長府安養寺町)
長府毛利家は関が原の合戦後の長州萩藩成立時に分地されて成立。下関一帯を支配した毛利家の分家である。
長府毛利家の菩提寺は、下関長府の北麓一帯に所在する功山寺・覚苑寺・である。功山寺には、菩提寺となる以前からの建物で鎌倉時代築造の仏殿も残されており、国宝に指定されている。
大寺としての風格もある立派な寺院である。墓所は仏殿裏手の土塀と石垣に囲まれた一画にある。
覚苑寺は建物の建築年としては新しいものが多いが長府藩の御殿が書院として移築されるなど風情では負けていない。こちらも裏手の墓地の最奥に3代綱元公・6代匡広公・13代元周公の墓塔が竹薮に囲まれひっそりと所在。
写真解説  @功山寺墓地正面。以前は墓地内まで入れたが今は門が固く閉ざされている。
        A功山寺墓地。江戸で亡くなった藩主の供養塔が中心となっている。
        B功山寺楼門。この奥に仏殿・本堂があり、墓地は仏殿の背後にある。
        C覚苑寺本堂。防府の海蔵醍醐寺の本堂であったものを移築。1794年の建築。
        D覚苑寺墓地。寺の最奥の竹薮に囲まれた一画に所在。
        E覚苑寺墓地。6代毛利匡広公(瑞泉寺殿)墓塔。      

清末毛利家 清末藩 10000石
高林寺(山口県下関市清末西)
清末藩は萩毛利家の支藩である長府藩の支藩にあたり、萩本家からみれば支藩の支藩で珍しいことであった。藩の成立は1653年のことで、長府藩に嗣子が無い場合は当藩より入ったこともあった。領地は狭く、おおよそ現在の中国自動車道小月ICの辺りに陣屋を構えていた。
田園の中の小島のような山を利用して寺は境内を構えている。山裾から伸びる石段上に唯一、山門が残されており、他の建物は灰燼に帰したとのこと。
再建された本堂横の石段を登った先に毛利家の墓所は所在し、墓所全体を玉垣で区切り、その中に一族の墓塔が林立する。小藩らしいこじんまりとした規模の墓所である。
写真解説  @山門。下関市の指定文化財になっており、境内の建物が殆ど失われた中にあって
         唯一残ったもの。石段の下から眺める風情は非常に美しい。
        A藩主墓域正面。玉垣で区画された中に初代藩主を奥に両脇に並ぶように歴代藩主の墓塔が並ぶ。
        Bもっとも一般的な形式。大きいほうが藩主。小さいほうが夫人。

徳山毛利家 徳山藩 45000石
大成寺(山口県徳山市舞車)
萩毛利本家の初代藩主秀就公の弟就隆公から始まる支藩である。おおよそ現在の徳山・下松を中心とする都濃郡一帯を領していた。
この藩は面白いことに江戸時代を通じて度々、城主格(国持大名と同じ処遇を受けられる)になるべく幕府へ働きかけを行ったり、些細なことから萩本藩との間で確執を引き起こし、一度改易されるなど独立心が旺盛であったようだ。
菩提寺大成寺自体は近代的な建物に建て代わり、昔の面影は残していないが境内裏手の小高い山上の墓所は見事である。
初代藩主夫妻の霊屋が残されており、小藩の墓地としては立派である。
写真解説  @大成寺本堂。境内も昔はもっと広かったのであろうが、本堂も新しく風情に欠ける。
        A初代毛利就隆公の廟。歴代の中では初代とその夫人の墓塔のみが覆屋がある。
        B雛壇のように造成された土地に歴代の墓塔が立つ。

吉川家 岩国藩 60000石
洞泉寺(山口県岩国市横山)
関が原の合戦で西軍の総大将となりながらも、敗戦後防長二国の太守として存続した毛利家の最大の功労者は、同じ一族ながら東軍に味方した吉川家であった。
当初この二国は吉川家に与えられるはずであったが、辞退したため本家筋にあたる毛利家が安堵されることとなった。しかし毛利本家は関が原の合戦の敗因は本家と同調しなかった吉川家に一端があるとし、江戸時代を通じて吉川家に対して大名としての格式を許さず、冷遇し続けた。家格の問題は度々発生していたようである。とてもやるせない話である。
菩提寺は岩国では最高の格式を持つというが、規模は大きくはない。
しかし墓所は、白壁の練塀で個々の墓塔を囲み、さらに玉垣で区切られるなど、まるで迷路のような風情の中に巨大な五輪の墓塔が建ち、立派である。
写真解説  @洞泉寺本堂と山門。規模としては小さい。参道の梅の古木が美しい。
        A五輪塔形式の墓塔が主流。夫婦で並んだり、親子で並んだりである。
        B裏山から見た墓所全景。この裏山自体にも初代広家公の墓所がある。


広島県

三原浅野家 廣島藩家老・三原城番 28000石
妙正寺(広島県三原市八坂町)
安芸の大名浅野家の縁戚でもあり、家老職を務めた三原浅野家の墓所である。なので厳密には大名墓ではない。しかし知行は28000石と半端な小藩の大名よりも多く、かつ城持ちであったので大名並みということで掲載する。
新幹線の駅に侵されてしまった三原城から北方へ数百mの傾斜地に菩提寺である妙正寺は窮屈げに所在する。
本堂は白漆喰で塗り固めた端正なもので、本家の広島・浅野家の菩提寺の一つである国前寺の本堂と類似する。本堂の裏手に広がる墓所もそれぞれが玉垣で区画され、とても端正で立派なものである。墓塔も奇をてらうようなものはなく、五輪塔が主体である。
墓所としてのまとまりも抜群であるが幽玄さに少し欠ける。
写真解説  @浅野家墓地・西側高台から臨む。規模は大きくは無いが端正な五輪塔である。
        A墓地全体は、白壁の土塀で囲まれており、中には入れません。
        B妙正寺本堂。非常に端正な姿をしている。瀬戸内地域の建物のセンスは抜群。

岡山県

池田家 岡山藩
曹源寺(岡山県岡山市円山)
和意谷墓所(岡山県吉永町)



伊東家 岡田藩 10300石
源福寺(岡山県下道郡真備町川辺)



水谷家 備中松山藩 50000石
定林寺(岡山県高梁市和田町)



木下家 足守藩 25000石
大光寺(岡山県岡山市足守)
木下家は、豊臣秀吉の正室ねねの血筋を伝える外様大名である。大分県にあった日出藩も木下家であるが、縁戚関係にある。しかし、江戸時代初期の跡取問題で、こじれたことにより分かれた歴史があり、あまり仲が良かったとはいえないようだ。


関家 新見藩 18000石
西来寺(岡山県新見市)
新見市街の東の山腹に所在する西来寺を訪れたときは、ちょうど庫裏の新築工事中であった。
境内の入口に突如として建つ二王門も、姿はなかなか良いが古いものではない。本堂のみが年代を経たものであるが、そういう意味では新たな伽藍の再興に熱心な寺院だということだろうか。
それとも一般の墓地が境内を浸蝕しつつあったので、単に商売に熱心な寺ということか。
藩主・関家はもともと津山藩主・森家の一族であった。森家が嗣子なくして家名断絶の際に、血統が途絶えることを惜しんだ幕府は、一族であった関家に新見藩の立藩を許した。
関家の墓所は、本堂の北側の山腹を造成して設けられており、規模の大きなものではない。
墓所には、初代・長治公と4代・政辰公及び一族の墓塔が建っており、その他の歴代藩主は江戸に葬られた。墓所へ至る山道を登っていくと正面に初代藩主、その背面に4代藩主の墓塔がある。
笠付きの六角塔で非常に形のよいものである。規模としては大きくは無いが、個人的に好きな形の墓塔のひとつである。
墓所内で珍しいのは、他の歴代藩主の墓塔が無い代わりに、辞世碑や自詠碑といった句碑である。
墓所内にこうした句碑がある例は、墓塔そのものに辞世句を彫りこむことはあったとしても、他ではあまり見かけないことである。江戸で葬られた藩主を偲ぶものが地元の藩士たちにも欲しかったのであろうか、よほど藩主が慕われたのであろう。

三浦家 勝山藩 23000石
安養寺(岡山県真庭郡勝山町)
勝山の町は中国山中の非常に不便な場所にありながら、驚くべきほど文化の香りがする。
端的にいうと「田舎臭く無い」のである。菩提寺とともに寺町を形成する寺社仏閣の建物の精緻さは驚くべきものがあり、まさに江戸文化の華である。これらの建造物は町人の寄進によるところのものらしく、武家文化というよりも、やはり町人文化が栄えたようだ。藩政時代には高瀬舟による
瀬戸内沿岸との交易が盛んであったということなので、こうした背景があってのことらしい。
江戸時代の街並みの復元図を見ると、城と武家地の間に町人町があり、もともと町人町があったところへ武家地を無理やり作ったような感じである。他の城下町と異なる配置は、いろいろと想像を掻き立ててくれる。
菩提寺は、寺町の西端に所在しており、楼門と本堂が残る。本堂の裏手は一般墓地が広がっており、その最奥の西端に藩主墓所は練塀に囲まれて所在する。
墓地内には5代、6代、7代、9代、10代の藩主が葬られているが、このうち墓所の中心にあり、かつ最も大きく、古い5代、6代の墓塔の戒名が彫られた角石の部分が新しいものに置き換わっているので、少々興が削がれる。

松平家 津山藩 100000石
泰安寺(岡山県津山市小田中)




写真解説 @本堂。なかなか姿の良い建物だ。
       A
       B


島根県

松平家 松江藩 186000石
月照寺(島根県松江市外中原町)
山陰地方屈指の墓所である。当家は結城秀康の三男である松平直政を初代とし、明治維新に至るまで10代にわたってこの地を治めた。出雲の国は神代の時代に端を発する独特の神話的世界をベースに江戸時代の蹈鞴製鉄や出雲平野における米作などの産業が絡み合い重層的で奥深い文化を感じさせてくれるところである。
菩提寺である月照寺も明治の廃仏毀釈により本堂は取り壊されてはいるものの御位牌堂や墓所は完全に残り、今に藩主菩提寺として相応しい雰囲気を漂わせている。
各藩主の墓塔前には個別に表門が残されており、個々の建築に藩主の好みなどを折り込んだ彫刻を施すなど遊び心をくすぐる演出である。
初代・直政の墓所は堀で囲まれた壮大なもので戦国の気風を残しているかのようである。
写真解説  @初代・松平直政公の墓所。墓所中で最大規模で周囲を堀で囲む。
        A松江に茶道文化の華を咲かせた7代・治郷公の墓所入り口に建つ唐門。
        B

松平家 広瀬藩 30000石
城安寺(島根県広瀬町)
広瀬藩は松江藩松平家の支藩として江戸時代初期に成立した小藩である。藩の成立直後に城下の中心を流れる広瀬川の氾濫等に見舞われ、飢饉で苦しむ波乱の船出となった。
広瀬町を訪れると、藩政時代の松平氏よりも戦国時代の尼子氏を前面に出して売り込んでいることが如実に感じられる。尼子氏の居城であった月山富田城を中心とした城下形成の歴史があるためである。
菩提寺・城安寺は、その富田城の北側にある新宮谷の入り口近くに所在している。山の斜面に石垣を築き、境内地は広くは無いが、藩主菩提寺としての威風ある面構えである。
山門と対峙する位置に取り残されたかのように小高い山があり、この山の頂に9代藩主・松平直諒の墓所が一基のみある。たまたま帰藩していた時に亡くなったため、ここに葬られたとのことだ。
他の藩主は全て江戸に葬られたということで、少し寂しい。
写真解説  @城安寺山門。本堂などは明治に入ってからの再建であるが、当門だけは江戸時代のもの。
        A山門と対峙する小高い山上に墓所はある。
        B9代・松平直諒公の墓塔。歴代藩主のうち唯一地元に墓所が所在する。

亀井家 津和野藩 43468石
永明寺(島根県津和野町)
津和野は中国地方の城下町としては萩と並ぶ観光地であるが、ここ亀井家の墓所を訪れる人は僅かである。菩提寺・永明寺は今時珍しく茅葺の大屋根を維持しており、大変美しいものであるが、こことて訪れる人は多くは無い。
墓所は永明寺の塔頭である永大院の本堂の右手奥から山手に上った見晴らしの良い場所にある。一つ一つの墓塔がそれなりの規模のもので、広い敷地に林立する様は非常に美しい。
藩主の墓塔は、それぞれ形の異なるものではあるが、どれもセンスがよく、目を楽しませてくれる。
写真解説  @永明寺本堂。谷間にひっそりと佇む。建築物も結構昔のまま維持されている。
        A4代茲親公墓塔。笠石の形が非常に美しい塔である。
        B6代茲延公墓塔。位牌形の墓塔でこれだけ大型のものは珍しいのではないか。

鳥取県
池田家 鳥取藩 320000石
清源寺・池田家墓所(鳥取県岩美郡国府町奥谷)


荒尾家 米子藩 15000石
了春寺(鳥取県米子市博労町)
荒尾家は正式には大名ではない。鳥取・池田家の筆頭家老職で米子城を預かり、「自分手」支配といい、米子周辺地域を私領として支配した。こうした現象は江戸時代初期の頃には、各大名家の家臣が自分の領地を持ち支配する形態をとっていたため(地方知行という)一般に見られたことであるが、時代が下がるにつれて知行を俸禄米として支給する制度に移行していったため、家臣団は城下に集住して、領地を持たずにサラリーマン化していくのであった。
しかし大身の家臣は従来どおりの形態を維持するケースもあり、米子の場合は典型的な例として挙げられる。菩提寺・了春寺は本堂等の主要な建築物は近代的なものに建替えられており昔日の風情はまったく無い。墓所は境内から北に少し離れた場所に所在し、山際に一段高くなった壇上に、墓塔群が西を向いて一列に並んでいる。もはや小藩の大名として遜色の無い墓地である。

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