10歳になって出生届けを出した人

(2003年11月5日)

私はいも(さつまいも)を食べない。石焼芋なんかを喜んで食べている人の気が知れない。
私は13歳まで長崎県の中でももっと田舎に住んでいた。我が家はず〜っと貧しかった。貧乏を自慢するのは嫌だから詳しくは書かないけれど、信じられないくらい貧しかった。
3歳の時我が家には電気が来ていなかった。行灯(あんどん)というものを見た覚えがある。嘘だと思うかもしれないが洗濯は石鹸とたらいを持って川まで行っていた。もちろん水道はなく、井戸水を汲んできて台所のはんどがめに溜めて使っていた。水汲みは兄たちの仕事だった。いもが主食の時もあった。その頃「いもは貧乏の象徴だから二度と食べない。」って心に誓ったものだ。

私が仕事をしていた頃、ちょうど10歳年上の先輩Mさんが私の事をとてもかわいがってくれた。Mさんは飲みによく連れて行ってくれたが飲むと昔の話をした。私が昔の田舎の話をするとMさんはとても喜んで「うちも貧乏だったけどシモちゃん(私の事)ほどじゃなかった。あんた年はいくつね。」と言う。そこで私が「フフッ、実は私、10歳になってから出生届けを出したから本当はMさんと同じ年なんですよ。」と言うと、「やっぱりそうやったね。」と言って大いにウケた。それからは飲むたびのその話になった。麦踏みの話。牛のはみ(えさの事)とりの話。米の脱穀の話。昔の脱穀機の話。そして山学校の話。などなど。
「山学校っていう言葉をシモちゃんの年で知っとるのはおかしか。」と言ってとても喜んでくれた。山学校というのは家を普通に「行ってきます。」と言って出て行って、学校には行かずに山に行って木の上などで一日中過ごす事。
Mさんは山学校を知っていた。実際に山学校をしたかどうかは聞いていない。私にはもちろん山学校をするような度胸はなかった。
そういう訳で「10歳になって出生届けを出した人」というのは私の事。本当は電気もない生活を知っているには10歳くらいさば読んでも足りないはずである。それほど我が家は貧乏で田舎に住んでいたことになる。

さて、余談ですが「10歳になって出生届けを出した人」というフレーズを思いついたのは連城三紀彦の小説『花堕ちる』の中です。

「あの子は、今、本当は十六歳で、私は二十八歳なのよ。あの子の生命がお腹に宿った時、私はまだ十一歳だった。さっき私が藤田を愛していない証拠があるって言ったでしょ。藤田が私を抱いた時、私はまだ子供だったのよ。まだ子供だった私に、男を愛せるはずなどなかったわ」
「四年間ーあの子は心臓が悪かったし、院長を抱きこんでいたので、病院内の誰にも知られずに済んだわ。四年が経って兄はやっと誕生を届け出、それからまだ私が高校を卒業する頃に、知り合いを動かして、私の戸籍の生年月日を四年間早く訂正させたの」(連城三紀彦『花堕ちる』より)

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