天石屋戸に係る「開」と旧辞原文の推理




 緒言

 日本神話の中にあっても、天照大神が天の岩窟(いはや)に身を隠す場面は、記紀を読んだことがない人であっても、どこかで、一度は、目にしたことがあるのではないだろうか。
 その石窟に隠れる場面を古事記(上巻)では、

 (原文)
 開天石屋戸而、刺許母理此三字以音。坐也。
 (訳文)
 (あめ)の石屋戸(いはやと)を開きて刺(さし)許母里(こもり)(ま)しき。

と表現している。(日本古典文学大系本による。括弧書きはルビ。訳文の音注は省略。)
 この「開天石屋戸」の「開」について、本居宣長『古事記伝』(七之巻)は、

 ○閇 舊印本延佳本共に開と作るは誤なり、今は一本に依つ、さて此は多弖々と訓べし、萬葉三【四十五丁】に豐國乃鏡山之石戸立隱爾計良思、この立も闔を云り、今世にも云言なり、

と述べて、「閇」という字に改め、「たてて」と訓んでいる。(引用文中のルビや傍点等は、繁雑を避けるため、適宜、省略した。以下同じ。)
 この点については、西郷信綱『古事記注釈』(第一巻)も、

 さてここを「天の石屋戸を開きて」と大系本も全書本も読んでいるけれど、宣長が一本により「開」を「閇」に改めたのに従いたい。戸を開いてこもるといういいまわしは日本語としておかしい。書紀にも「天石窟に入りまして磐戸を閉して幽り居しぬ」(本文ならびに一書)と あるし、ここは文句なく「閇」または「閉」であるべきところだと思う。もっとも伝来の諸本みな「開」とあるから、それを重んじようとするのは分る。しかし だからといって「開」をとるならば、文献学的誤謬(fallacy)に陥り、文献に忠勤をはげむあまりかえって日本語をないがしろにする結果になりかねな い。次節に「天の石屋戸を細めに開きて、云々」とあるのとこれは対応するのである。ただ「閉」とする場合にも、サシテ、トヂテ両様に訓めるが──日本書紀 私記(乙本)にいう「閉磐戸伊波止乎左志天、又云、以八也止乎止知氐」──、下にサシコモリとあるのでトヂテと訓んでおく。

と論じて、「閇」を支持している。(ただし、「トヂテ」と訓んでいる。)
 これに対して、西宮一民「古事記訓詁二題」は、

 諸本に「開」とあるからといつて、さうみては日本語 の表現にならぬとして「閇(閉)」に改めるといふ趣旨である。しかし、この言説じたいが奇怪であつて、日本語の表現としてをかしいか否かは、上代文献につ いて一通り検した上でのことでなければならぬ。端的に「開」の用例を示さう。
  天地の 初めの時の ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神はかり はかりし時に 天照らす 日女の命(一に云ふ、 「さしあがる 日女の命」) 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき分けて(一に 云ふ、「天雲の 八重雲分けて」) 神下し いませまつりし 高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして 天皇の 敷きます 国と 天の原 石門を開き 神上り 上りいましぬ(一に云ふ、「神登り いましにしかば」)
  (万葉集巻二、一六七、日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首)
 この傍線部「天の原 石門を開き」とあるのがそれである。その下句「神上り 上りいましぬ」とは、天武天皇の崩御をいふ。すなはち、「高天の原の石門を 開いて天武天皇はお隠れになつた」といふ意味である。この表現と古事記の「天の石屋戸を開きて、刺しこもりましき」とあるのと全く同じ表現と言ふべきであ る。すなはち、「天照大御神は天の石屋戸を開いてお隠(こも)りになつた」といふことで、天照大御神といふ貴神の死をこのやうに表現したのである。勿論、地下の墳墓の石室の入口に戸があるといふことをふまへて、天上のこととして述べてゐる神話である。・・・
 現存古事記の諸本はすべて「開天石屋戸」と写してゐる。このことは、人麻呂の挽歌の存在によつて、その書写の正当性が証明されることになるわけである。 従つて、『古事記伝』が「旧印本延佳本共に開と作るは誤なり」として「閇」の字に改めてゐるのは独断である。しかも「今は一本に依つ」と記してゐるが、今 日この「一本」は不明である。よし出現しても「閇」とあることじたい、意義のあることではないのである。更に、西郷信綱『注釈』において、諸本に「開」と あるからといふだけでは「文献学的誤謬」に陥るといふ。この言説は、ここでは通用しないし、高次文献批判を氏は却つてないがしろにしてしまはれたと言へる であらう。


と述べて、「開」が正しいことを主張しており、日本思想大系本『古事記』も、これに従って「開」を採用している。(同書「訓読補注」参照。)
 さて、こうしてみると、「開」と「閉」とは、どちらを是とすべきか。
 本稿では、この点から検討を始めて、旧辞の原文についても、推理をめぐらせてみることにしたい。

 第1点 石門(いはと)の印象

 上記西宮論文は、万葉集(巻二)167番歌に見える「石門」と古事記(上)の「天の石屋戸」を同じもののように解釈しているが、その点については、なお、検討の余地があるように思われる。
 というのも、日本書紀などには、次のような用例が見られるからである。

 ○「日本書紀」(神代下 第九段 一書第四)
 一書に曰はく、高皇産靈尊、眞床覆衾を以て、天津彦國光彦火瓊瓊杵尊に裹(き)せまつりて、則ち天磐戸を引き開け、天八重雲(あめのやへたなぐも)を排分けて、降し奉る。

 ○「万葉集」(巻二十 4465番歌)
 ひさかたの 天の門開き 高千穂の 岳に天降りし 皇祖の 神の御代より・・・

 ○祝詞(六月の晦の大祓)
 ・・・大中臣・・・天つ祝詞の太祝詞事を宣れ。かく宣らば、天つ神は天の磐門を押し披きて天の八重雲をいつの千別きに千別きて聞しめさむ・・・

 このうち、神代紀(第九段一書第四)と万葉集(4465番歌)は、同じく天孫降臨の場面を語っており、その際、天の岩戸を開いて通過したことが読み取られる。
 これに対し、祝詞(六月の晦の大祓)の場合は、「天つ神」が「大中臣」の唱える祝詞をよく聞くために「天の磐門」を開く様子が語られているように解される。
 いずれの場合も、天の岩戸は、天地の境界にある関門の扉、もう少し正確に言えば、八重雲の浮かぶ虚空と高天原を隔てる岩戸であるように見える。→補注
 少なくとも、石窟・石室を塞ぐ岩戸のイメージではあるまい。
 この点、西宮論文が引用した万葉集(167番歌)の場合も、

 天雲の 八重かき分けて 神下し いませまつりし

という句と、

 天の原 石門を開き 神上り 上りいましぬ

という句が対応しており、「石門」は、「八重雲」と共に天地の境界にある通過点のごとくである。
 このように、万葉集(167番歌)の「石門」の印象が古事記の「天の石屋戸」のイメージと、必ずしも一致しないものであったとすれば、「開」か「閉」かの問題は、振り出しに戻ったかのように見える。

 第2点 記紀の比較

 古事記の文章を検討するうえで、欠かせないのは、日本書紀との比較であろう。
 両者の異同を観察することによって、その原形に迫ることができるかも知れない。
 周知のとおり、記紀成立以前に、帝記・旧辞などと称される一連の成書が存在していたであろうことは、間違いのないところであって、おそらく、神話は、旧辞の方に掲載されていたものと考えられる。(この点については、以前、「皇祖等之騰極次第の注釈的研究」という小稿の中でも触れてみたことがある。)
 その旧辞と総称される書物は多様で、いくつもの異本が発生していたのであろうが、とにかく、記紀の文章を比較検討することによって、それぞれの形に分岐する以前の原初的な文章を復元できる可能性がある。
 そこで、日本書紀の該当する部分を抜き出してみると、次のとおりである。

 ○神代上 第七段本文
 (原文)
 乃入于天石窟、閉磐戸而幽居焉。
 (訳文)
 乃ち天石窟(あまのいはや)に入りまして、磐戸(いはと)を閉(さ)して幽(こも)り居(ま)しぬ。

 ○神代上 第七段一書(第一)
 (原文)
 乃入于天石窟、而閉著磐戸焉。
 (訳文)
 乃ち天石窟に入りまして、磐戸を閉著(さ)しつ。

 ○神代上 第七段一書(第二)
 (原文)
 廼居于天石窟、閉其磐戸。
 (訳文)
 廼ち天石窟に居しまして、其の磐戸を閉しぬ。

 ○神代上 第七段一書(第三)
 (原文)
 至於日神、閉居于天石窟也、
 (訳文)
 日神の、天石窟に閉(こも)り居すに至りて、

 ちなみに、古語拾遺の該当部分も掲出しておくと、

 (原文)
 入于天石窟閉磐戸而幽居焉
 (訳文)
 天石窟に入りまし、磐戸を閉し、而て幽居したまへり。

といった具合である。
 この古語拾遺の文章は、神代紀第七段本文と、ほぼ一致しており、それを参照したであろうことが容易に想像されるところである。
 さて、記紀に戻って、原文を対照させてみると、次のようになる。

 ・古事記「     開   天石屋戸而      刺許母理坐 也」
 ・紀本文「乃    入  于天石窟  閉  磐戸而 幽  居 焉」
 ・一書1「乃    入  于天石窟 而閉著 磐戸       焉」
 ・一書2「廼    居  于天石窟  閉 其磐戸        」
 ・一書3「至於日神 閉居 于天石窟              也」

 紀本文と古語拾遺のような分かり易い一致は見られない。
 比較的近いのは、紀本文と一書1であり、その次が一書2といったところであろうか。
 一書は、いずれも、紀本文を省略した文章のように見える。
 古事記も同様に省略しているように見えるが、その省略の仕方が独特なものとなっている。
 おそらく、旧辞の原形に、最も近い文章は、この場合、紀本文ということになるのであろう。
 しかも、古事記のような省略が行われた原因を考えてみると、紀本文の文章も、原形そのままではなく、若干の改変が行われていたことが想定される。
 ここで、推定される原文を例示してみると、次のとおりである。

 ・復元案 「開天石窟、閉磐戸而幽居焉」

 この文章の「開」と「閉」は、いわば、“戸を開けて、戸を閉めた”と言っているように受け取られ、必要のない過剰な表現とされたもののようである。
 その過剰を是正するために、古事記の場合は、「天石窟」と「磐戸」を統合して「天石屋戸」とし、一方の紀本文の場合は、「開」を「入」に変えて、「開・閉」の対応を消したものと思われる。
 もし、そうだとすれば、「天石屋戸」に縮約した古事記は、「開」と「閉」のどちらを残したのか。
 仮に、「刺許母理」の「刺」に、「閉(さ)す」という意味をも込めていたのだとすれば、その前段では「開」を選択していた可能性が考えられる。

 第3点 開の意味

 それにしても、復元案のとおりであったとすれば、旧辞原形の作者は、「開天石窟、閉磐戸而」という文章に違和感を感じなかったのであろうか。
 当然、そのような疑問が湧いてこよう。
 確かに、“戸を開けて、戸を閉めて”という文章は、拙文と言わざるを得ない。
 ただ、「開」という漢字は、開始・開闢の「開」でもあり、「はじめる」といった意味も合わせ持っている。
 この場合の「開」も、「はじめる」という意味を持っていた可能性は、考えておく必要があろう。
 もし、そのような意味で使われていたとすれば、これまでの解釈とは、別のイメージも浮かび上がってくる。
 すなわち、既に存在した石窟の磐戸を開けたのではなく、新規に石窟そのものを開鑿・生成したという想定も成り立つわけである。(その際、磐戸も同時に生成されたのであろう。)
 この石窟を生成するイメージで注目されるのは、石拆神という神の名前である。
 古事記(上巻)では、

 是に伊邪那岐命、御佩(はか)せる十拳劒を拔きて、其の子迦具土神の頸を斬りたまひき。爾に其の御刀の前に著ける血、湯津石村(ゆついはむら)に走り就きて、成れる神の名は、石拆(いはさくの)神。次に根拆神。次に石筒之男神。三神・・・

とあり、日本古典文学大系本の頭注では、

 岩石を裂くほどの威力のある神(雷神)

という説明がなされている。(なお、同神を日本書紀では、「磐裂神」と表記している。)
 一撃で岩を割り裂くイメージであろうか。
 これと同様に、天照大神の場合も、一瞬のうちに、石窟を開鑿・生成したのだという想定がなされたに違いない。
 石窟に隠れる遠因を作った天安河の誓約の段では、

 故爾に各天安河を中に置きて宇氣布(うけふ)時に、天照大御神、先づ建速須佐之男命の佩ける十拳劒を乞ひ度(わた)して、三段に打ち折りて、奴那登母母由良邇(ぬなとももゆらに)天の眞名井に振り滌(すす)ぎて、佐賀美邇迦美(さがみにかみ)て、吹き棄つる氣吹の狹霧に成れる神の御名は、多紀理毘賣命。・・・

とあって、天照大神が剣を咀嚼して、霧状に吹き出す様子が語られている。
 この超自然的な力の延長線上に、石窟を生成する力も発想されたのだとして、何ら不都合は生じまい。
 旧辞原形の作者も、そのような意味合いを「開天石窟」に込めたものと思われる。
 従って、訓読の際は、「天石窟を開きなし」などとしておけば、誤解も生じなかったことであろう。
 ところが、実際には、素直に「開き」と訓んだようである。
 その訓のみが伝えられ、意味が忘れ去られた結果、“扉を開く”という解釈に至ったものと思われる。

 第4点 桶を伏せた場所

 古事記が「天石窟」と「磐戸」を合成して「天石屋戸」とした原因は、後文でも「天石窟戸」という言葉が使用されていたところに求められるであろう。
 それは、天宇受賣命が桶を伏せて踊る場面で、古事記では、

 (原文)
 於天之石屋戸伏汙氣此二字以音。蹈登杼呂許志、此五字以音。
 (訳文)
 天の石屋戸に汙氣(うけ)伏せて蹈み登杼呂許志(とどろこし)

と記述されている。
 同じ場面を日本書紀(第七段本文)では、

 (原文)
 立於天石窟戸之前、巧作俳優。
 (訳文)
 天石窟戸の前に立たして、巧に作俳優(わざおぎ)す。

と記述している。
 日本書紀の場合、「天石窟」とのみ書いた方が首尾一貫していて、十分に意味も通じるものと思われる。
 そこに、敢えて「戸」を加えたのは、旧辞にも「天石窟戸」とあったためであろう。
 とはいえ、単に「立於天石窟戸」と表現するだけでは、扉を開けて戸口に立ったようにも見えてしまう。
 そこで、書紀編者は、さらに「之前」を付け足して正確を期したのではないだろうか。
 この点、古事記の場合は、旧辞の文言に沿った形で「於天之石屋戸」と表記したものと考えられる。
 さて、この場合の「石屋戸」は、日本書紀が「之前」を補ったように“石窟の前”というほどの意味で使われていると見なければなるまい。
 もちろん、「戸」という漢字に“前”の意味はないが、同音の「と(外)」の意味合いが想起されていたのだとすれば、何となく理解が可能となってくる。
 ここで、参考となるのは、「やど」という言葉であろう。
 小学館『日本国語大辞典』の「やど」の項を見てみると、

 (「屋の処(と)」の意か。一説に「屋の戸」「屋の外(と)」の意とする)

という説明があり、「家の戸。家の入口。戸口。」に続く二番目の意味として、

 (2)家の戸口のあたり。家のまわりの庭。庭さき。
 *万葉(8C後)三・四六四「秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑし屋前(やど)のなでしこ咲きにけるかも〈大伴家持〉」
 *万葉(8C後)五・八一八「春さればまづ咲く耶登(ヤド)の梅の花ひとりみつつや春日暮らさむ〈山上憶良〉」
 *万葉(8C後)一〇・二一五九「影草の生ひたる屋外(やど)の夕かげに鳴く蟋蟀は聞けど飽かぬかも〈作者未詳〉」
 *古今(905-914)秋下・二八七「秋はきぬ紅葉はやどにふりしきぬ道ふみわけてとふ人はなし〈よみ人しらず〉」


という解説・用例が掲出されている。
 家の戸口のあたり、すなわち“家の前”を広く「やど」と言う場合があったようである。
 ※ 日本書紀推古元年四月(十日)条にも、聖徳太子の出生伝承が記録されており、「母の皇后を穴穗部間人皇女と曰す。皇后、懷姙開胎さむとする日に、禁中に巡 行して、諸司を監察たまふ。馬官に至りたまひて、乃ち廐の戸に當りて、勞みたまはずして忽に産れませり。」と書かれている。この場合の厩戸も、ピンポイン トで厩の戸口とするよりは、広く、厩の前と解した方が良いのかも知れない。ただし、厩の戸口と考えても、何ら支障は生じない。
 このことは、「いはやど」にも適用可能と思われる。
 万葉集(巻三)309番歌には、

 石屋戸(いはやど)に 立てる松の木 汝(な)を見れば 昔の人を 相見るごとし

とあるが、この場合の「石屋戸」も、洞窟の戸口(出入口)というよりは、“洞窟の前”と解した方が自然である。
 記紀が参照した旧辞にも、このような意味合いで「天石窟戸」という言葉が使われていたのであろう。
 なお、蛇足ながら、「いはやど」には、当然、戸口(出入口)そのものを意味する場合もあった。
 例えば、出雲風土記(出雲郡宇賀郷)を見ると、

 即ち、北の海濱に礒(いそ)あり。腦(なづき)の礒と名づく。高さ一丈ばかりなり。・・・礒より西の方に窟戸(いはやど)あり。高さと廣さと各六尺ばかりなり。窟の内に穴あり。人入ることを得ず。深き淺きを知らざるなり。・・・
 ※ 日本古典文学大系本の頭注によると、「礒」は、海岸の崖・岩壁を指しているようである。

という記事がある。
 この場合の「窟戸」は、「高さと廣さと各六尺ばかり」という説明からして、洞窟の戸口(出入口)を意味していることが明らかである。

 第5点 古事記の用例

 古事記の物語においては、もう一箇所、「天石屋戸」という言葉が使用されているところがある。
 それは、天照大神が扉を少し開けて外の様子を窺う場面で、

 (原文)
 細開天石屋戸而、
 (訳文)
 天の石屋戸を細めに開きて、

という記述がなされている。
 この場合の「天石屋戸」は、明らかに扉を意味している。
 それは、日本書紀が同じ場面で、

 ○神代上 第七段本文
 (原文)
 乃以御手、細開磐戸窺之。
 (訳文)
 乃ち御手を以て、細(ほそめ)に磐戸を開けて窺(みそなは)す。

 ○神代上 第七段一書(第二)
 (原文)
 於是、日神方開磐戸而出焉。
 (訳文)
 是に、日神、方に磐戸を開けて出でます。

 ○神代上 第七段一書(第三)
 (原文)
 乃細開磐戸而窺之。
 (訳文)
 乃ち細に磐戸を開けて窺す。

という具合に、「磐戸」と表現していることからしても間違いがない。
 おそらく、旧辞でも、「磐戸」と表記されていたのであろう。
 古事記の場合は、各所で異なっていた旧辞の表記を「天石屋戸」に統一したものと推測される。
 ここで、古事記の三箇所の表記を子細に見較べておくと、次のとおり、微妙な表記のゆれ(「之」の出入)が見て取れる。

 (1) 天石窟に隠れる場面 =「 開天 石屋戸」
 (2) 天宇受賣が踊る場面 =「於 天之石屋戸」
 (3) 外の様子を窺う場面 =「細開天 石屋戸」

 しかも、三例のうち、(1)と(3)の意味は、“磐戸”であり、(2)の意味は、“石窟の前”である。
 表記のゆれと、意味の違いが、なぜか同期している。
 さりながら、「之」の着脱に、特別の意味を持たせたようにも思えない。
 いわくありげに見えるが、意図せざる偶然の帰結なのであろう。(太安万侶の所為ではなく、写本の際の出入である可能性が大きいと思われる。)

 後記

 ここで、まとめに代えて、古事記、日本書紀(第七段本文)、旧辞復元案の三者を対比させておくと、次のとおりである。

 (1) 天石窟に隠れる場面
 ・古事記 「開天石屋戸而、刺許母理坐也。」
 ・紀本文 「乃入于天石窟、閉磐戸而幽居焉。」
 ・復元案 「開天石窟、閉磐戸而幽居焉。」

 (2) 天宇受賣が踊る場面
 ・古事記 「於天之石屋戸」
 ・紀本文 「於天石窟戸之前」
 ・復元案 「於天石窟戸」

 (3) 外の様子を窺う場面
 ・古事記 「細開天石屋戸而」
 ・紀本文 「細開磐戸」
 ・復元案 「細開磐戸」

 旧辞の復元案においては、「石屋」ではなく「石窟」の方を採用しておいた。
 それは、漢文としては、「石窟」の方が意味が通じやすいと思われたからである。
 稲荷山鉄剣の銘文のように、古い時代の文章ほど漢文で書かれ、日本語化していないのだとすれば、旧辞の場合も「石窟」と書かれていた可能性の方が大きいと考えられる。
 ただし、石窟の前を「石窟戸」と表現していたのだとすれば、この部分は、「いはやど」という日本語を前提としていたことになろう。
 そのような漢文を日本語で訓むことが、稗田阿礼などに課された職務であったと思われる。



 補注 虚空と雲

 日本書紀(神代下)の物語を読んでいると、高天原と地上の間に「虚空(虚天)」という場所が設定されていることに気付かされる。
 例えば、第九段(一書第二)には、

 則ち高皇産靈尊の女、號は萬幡姫を以て、天忍穗耳尊に配せて妃として降しまつらしめたまふ。故、時に虚天に居しまして生める兒を、天津彦火瓊瓊杵尊と號す。

という一文があり、天忍穗耳尊が、一時、「虚天」に滞在したことが語られている。
 また、第十段(一書第一)では、海神の娘(豐玉姫)が火火出見尊を評して、

 若し天より降れらば、天垢(あまのかほ)有るべし。地より來れらば、地垢(つちのかほ)有るべし。實に是妙美(まぐは)し。虚空彦といふ者か

と語る場面がある。
 この表現からすると、「虚空」は、天(高天原)でもなければ、地(葦原中国)でもない、その中間の場所ということになる。
 おそらく、「天磐戸」の外側にあって、「天八重雲」が浮かぶ空間が「虚空」であったのだろう。
 文字どおり、何もない空間のイメージが思い浮かぶが、そこには、天忍穗耳尊が滞在し、萬幡姫は、出産までしている。
 さすがに、何もないと言うわけにもいくまい。
 幸い、そこには、雲が浮かんでいる。
 古代人の脳裡にも、雲の上に乗ったり、雲を加工して、さまざまなものを作り出すという発想が浮かんでいたのではないだろうか。
 これは、単なる憶測に過ぎないが、天孫降臨の場面などに出てくる「天の浮橋」も、その“実体”は、浮雲であったのかも知れない。
 仮に、「天八重雲」の切れ端を加工したものが「天の浮橋」であったとすれば、「浮橋」という言葉は、“浮き端”から来ているとも考え得る。

 補注の追記 天の浮橋についての試論

 天孫降臨の場面では、「天の浮橋」と「うきじまり」という言葉を含む定形句が古くから存在し、しかも、記紀編纂の頃には、その原義が不明となっていたようである。

 ○日本書紀 第九段 本文
 (原文)
 于時、高皇産靈尊、以眞床追衾、覆於皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊使降之。皇孫乃離天磐座、天磐座、此云阿麻能以簸矩羅。且排分天八重雲、稜威之道別道別而、天降於日向襲之高千穗峯矣。既而皇孫遊行之状也者、則自槵日二上天浮橋、立於浮渚在平處立於浮渚在平處、此云羽企爾磨梨陀毘邏而陀陀志。而膂宍之空國、自頓丘覓國行去、頓丘、此云毘陀烏。覓國、此云矩貳磨儀。行去、此云騰褒屡。到於吾田長屋笠狹之碕矣。
 (訳文)
 時に、高皇産靈尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座(あまのいはくら)を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて、日向の襲の高千穗峯に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、槵日(くしひ)の二上(ふたがみ)の天浮橋より、浮渚在平處(うきじまりたひら)に立たして、膂宍(そしし)の空(むな)國を、頓丘(ひたを)から國覓(ま)ぎ行去(とほ)りて、吾田の長屋の笠狹碕(かささのみさき)に到ります。

 ○日本書紀 第九段 一書第四
 (原文)
 一 書曰。高皇産靈尊、以眞床覆衾、裹天津彦國光彦火瓊瓊杵尊、則引開天磐戸、排分天八重雲、以奉降之。于時、大伴連遠祖天忍日命、帥來目部遠祖天槵津大來 目、背負天磐靫、臂著稜威高鞆、手捉天梔弓・天羽羽矢、及副持八目鳴鏑、又帶頭槌劒、而立天孫之前。遊行降來、到於日向襲之高千穗槵日二上峯天浮橋、而立 於浮渚在之平地、膂宍空國、自頓丘覓國行去、到於吾田長屋笠狹之御碕。
 (訳文)
 一書に曰はく、高皇産靈尊、眞床覆衾を以て、天津彦國光彦火瓊瓊杵尊に裹(き)せまつりて、則ち天磐戸を引き開け、天八重雲を排分けて、降し奉る。時に、大伴連の遠祖天忍日命、來目部の遠祖天槵津大來目を帥(ひき)ゐて、背には天磐靫を負ひ、臂には稜威の高鞆を著(は)き、手には天梔弓(あまのはじゆみ)・天羽羽矢を捉(と)り、八目鳴鏑を副持(とりそ)へ、又頭槌劒を帶(は)きて、天孫の前に立ちて、遊行き降來りて、日向の襲の高千穗の槵日の二上峯の天浮橋に到りて、浮渚在之平地(うきじまりたひら)に立たして、膂宍の空國を、頓丘から國覓ぎ行去りて、吾田の長屋の笠狹の御碕に到ります。

 ○古事記 上巻
 (原文)
 故爾詔天津日子番能邇邇藝命而、離天之石位、押分天之八重多那此二字以音。雲而、伊都能知和岐知和岐弖、自 伊以下十字以音。於天浮橋、宇岐士摩 理、蘇理多多斯弖、自宇以下十一字亦以音。天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣。自久以下六字以音。故爾天忍日命、天津久米命、二人、取負天之石靫、取佩頭椎之大刀、取持天之波士弓、手挾天之眞鹿兒矢、立御前而仕奉。
 (訳文)
 故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那(やへたな)雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて)、天の浮橋に宇岐士摩理(うきじまり)、蘇理多多斯弖(そりたたして)、竺紫の日向の高千穗の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。

 文字面を追った感覚として、日本書紀(本文、一書第四)の場合は、「天の浮橋」から「うきじま」へ移動し、そこの「平」に立ったように見える。
 一方、古事記の場合は、「天の浮橋」において、「うきじまり、そりたたし」たようであり、この場合の「うきじまり」と「そりたたし」は、いずれも何らかの動作を表しているように見える。
 各文ともに、共通する要素がいくつもあり、同じ文章から分岐して、三者三様になったものと思われる。
 にも拘らず、受ける印象が一致しないのは、元々の意味が忘れ去られた結果であろう。
 ※ 記紀ともに一字一音の表記や訓注が多く見られることからすると、この部分の旧辞の原形は、歌謡と同様に、一字一音で表記されていたのかも知れない。
 特に、「うきじまり、そりたたして」の部分は難解で、本居宣長『古事記伝』(十五之巻)が、

 此語甚心得難し、・・・宇岐士摩理は、書紀の浮渚在 と同じければ、・・・浮洲有と聞えたるに、蘇理と云ること、かの平處とさらに似ずして、いかなることとも、解がたし、・・・又多々斯弖の下にも、何とか や、言足ぬこゝちぞする、此わたり、脱も亂れもしたる言やあらむ、・・・なほよく考ふべきことなり。

と述べて以来、さまざまな解釈がなされているものの、未だに定説と言えるような解釈は出現していない。
 さて、しからば、本来の文章は、いかなる形で、どのような意味を持っていたのか。
 ここでは、試みに、「天の浮橋」が浮雲であるという前提に立って、解釈を加えてみることにしたい。
 まず、記紀に共通する降臨の行動に係る記述を抜き出して比較すると、

 (1)
 ・紀本文「離天 磐座」
 ・古事記「離天之石位」

 (2)
 ・紀本文「排分天 八重  雲」
 ・一書4「排分天 八重  雲」
 ・古事記「押分天之八重多那雲」

 (3)
 ・紀本文「稜威之道別 道別 而」
 ・古事記「伊都能知和岐知和岐弖」

 (4)
 ・紀本文「則自       槵日二上 天浮橋、 立於浮渚在 平處」
 ・一書4「到於日向襲之高千穗槵日二上峯天浮橋、而立於浮渚在之平地」
 ・古事記「 於            天浮橋、宇岐士摩理、蘇理多多斯弖」

 (4)の続き
 ・古事記「天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」

という具合になる。
 そこで、(1)~(3)の行為が誰によってなされているのかという点に注目しながら解釈してみると、

 (1)「天の磐座を離れ」は、「皇孫」が高天原にあった御座所を離れたものと解される。

 (2)「天の八重多那雲を押し分けて」も、一見、「皇孫」が押し分けているように見える。しかし、実際には、天忍日命など、多数の随伴神を伴っているわけであるから、先導する神が押し分けていると解すべきであろう。

 (3)「いつのちわきちわきて」も、同様に随伴神が雲を掻き分けて道を開く意と解される。その雲は、幾重にも重なって広がる雲海であったに違いない。その中へ分け入った状況を考えてみると、それは、トンネルを掘っているのに近い状況と思われる。

といったところであろうか。
 なお、(2)と(3)は、両者ともに同じことを述べているように見える。
 敢えて、その違いを考えてみると、(2)の方は、大まかに雲を押し分けて進み、(3)の方は、さらに綺麗に掻き分けて、道を整備したというイメージになるだろうか。
 多数の随伴神がいたのだとすれば、役割を分担していたと考えた方が自然である。
 以上を要するに、「皇孫」と随伴神は、雲海を掻き分けて進み、トンネルを掘るようにして、徐々に降下していったものと考えられる。
 さて、問題の(4)であるが、これは、どのように解釈すべきか。
 文の始めの「自(より)」と「於(に)」については、一書4と古事記に共通する「於」の方が原形に近いように感じられる。
 従って、文意としては“天の浮橋に”ということになる。
 次の「うき」は、やはり「浮き」であろう。
 確証はないが、「天の浮橋」(雲)に乗ることを「浮き」と表現したのではないだろうか。
 そして、「しまり」は、“取り締まり”にも通じる「締まり」であって、管理・監督の意味合いを持っていたものと想定される。
 およそ、浮雲を“風まかせ”にしておけば、あらぬ方向へ流れ去ってしまう。
 それを管理して、目的地に向って移動させる行為を「締まる」と言ったのだろう。
 なお、この「しまり」は、「結り」とも書いて、宣命に、しばしば出現している。
 例えば、本居宣長「続紀歴朝詔詞解」は、続日本紀第一詔(文武元年八月十七日)の「務結而」という言葉に対して、

 ○務結而、結字、諸本に給に誤れるを、今例に依て改めつ、志麻理と訓べし、第三詔に、淨明心以而、彌務彌結云々、卅二詔に、常與利毛勤結奉侍など見え、類聚國史、弘仁十四年十一月詔に、日夜忘事無志麻理、伊佐乎志久奉仕流爾、文德實録三に、日夜無怠事、務結、勤之久仕奉、三代實録卅二に、務志萬利、伊佐乎之久など有、同書三にも此語あるを、それもこゝの如く、結を給に誤れり、さて志麻理は、志婆理と同くて、劒の手上とりしばりなどいふ如く、堅くすきまなく執持て、弛緩べぬ意也、・・・

と解説し、六国史の宣命に見える用例を挙げている。
 用字に変化はあるものの、「務め結り」という表現は一貫しており、管理・監督の意味合いで「結り」を使っている様子が見て取れる。
 要するに、「天の浮橋にうきじまり」は、浮雲に乗って、その動きを制御するイメージとなろう。
 それに続く「そりたたして」は、「剃り立たして」であると思われる。
 凸凹した浮雲の上面を剃り削り、平坦にならして、そこに立ったのだとすれば、十分に意味も通じるはずである。
 また、削平したがゆえに、書紀の「たひらに立たして」という表現も可能となったのであろう。
 つまるところ、天孫降臨の行程は、「天の八重多那雲」(雲海)の中にいるうちは、雲を掻き分けて進み、雲海の下に出た後は、「天の浮橋」(浮雲)に乗って空中を移動したもののようである。
 その浮雲は、船や筏のように漕ぐものでもなく、帆もなく、雲自体が、神意を受けて、ゆっくりと進むものであったと想定される。
 それゆえに、「しまり」(管理→制御)という、やや抽象的な言葉が使われたのだと考えておきたい。
 ※ 日本書紀において、「浮渚在」という文字が当てられたのは、この原義が忘れ去られた後の、ひとつの解釈であったのだろう。西郷信綱『古事記注釈』(第二 巻)も、[紀が「浮渚在平処に立たして」、つまり浮島があり平らな所に立ってとしたのは、ウキジマリソリタタシテに一つの新たな解釈を施したもので、この 句が高千穂以後にまわされた国覓ぎのこととされたのも、こうした解釈にもとづくところがあるのではないかと思う。]と述べている。
 ところで、松本信広『日本の神話』(第二章)は、

 もう一つ問題になるのは、イザナギ、イザナミの命が 天より降られる場合に乗つたと云われておる天ノ浮橋である。西村真次氏は、これを「イカダ」と解されておるが、こういう伝承が、筆録された時代は、極めて 後代であるから「浮橋」というような字句は、案外にシナの「梁」(船橋)などという言葉からヒントを得ておるかも知れない。・・・
 天の浮橋と云うのは、宇宙創成の説話の中に出てくるのであるから、虹のような天象を指しておるのではないかと云う疑いが出てくる。しかし古代日本人は虹を浮橋と考えるよりは、寧ろ船筏の類を念頭において、後世の船橋の如きものを連想していたのではあるまいか?・・・
 神が現世に降臨する時にどういう乗物にのつてくるかと云うことはそういう神観念の生れた時代の人間の他界に対して抱いていた信仰の跡を止めるものと見る べきであろう。神が舟に乗つて此世に来ると云うことは、或時代の日本人は、海の彼方に神々の住する世界があると考え、渺茫果て知らぬ海洋のあなたから聖な る神の訪れることを信じていたことを証拠立てるものである。しかもその海の果ての世界は、後に空の彼方にある聖域と相混融して考えられ、その神の乗舟は、 或場合には鳥船とも思惟せられ、空を飛翔すると云う風にとられてきたものであろう。


という考えを述べている。
 確かに、鳥船や磐船など、空を飛ぶ船の観念ついては、水平的他界観の影響を受けていると考えた方が自然であろう。
 ただ、「天の浮橋」に限っては、浮雲であったように思われ、水に浮く船とは関係なしに、垂直的他界観の中で形成された概念のように思われるのである。



 参考文献

 日本古典文学大系『古事記・祝詞』(岩波書店、1958年)

 『本居宣長全集 第九巻・第十巻、古事記傳 一・二』(筑摩書房、昭和43年)

 西郷信綱『古事記注釈 第一巻・第二巻』(平凡社、1975~76年)

 西宮一民「古事記訓詁二題」(関西大学国文学会『國文學』52、昭和50年)

 日本思想大系『古事記』(岩波書店、1982年)

 日本古典文学大系『日本書紀 上・下』(岩波書店、1965~67年)

 佐竹昭広 木下正俊 小島憲之『萬葉集 訳文編』(塙書房、昭和47年)

 新撰日本古典文庫『古語拾遺・高橋氏文』(現代思潮社、1976年)

 日本古典文学大系『風土記』(岩波書店、1958年)

 本居宣長「續紀歴朝詔詞解」(『本居宣長全集 第七巻』、筑摩書房、昭和46年、所収。)

 松本信広『日本の神話』(至文堂、昭和31年)


めんめ じろう 令和3年1月31日公開)


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