不改常典および氏上についての覚え書き
緒言
一般に「不改常典」と呼び習わされている「法」については、その内容が明示されていないことから、研究者の間でも議論百出の状態にあることは、周知のとおりである。
そもそも、六国史に見える呼び名を書き出してみても、
○続日本紀 慶雲四年七月(十七日)条 【元明即位詔】
関母威岐近江大津宮御宇大倭根子天皇乃、与天地共長与日月共遠不改常典止立賜比敷賜覇留法
○続日本紀 神亀元年二月(四日)条 【聖武即位詔】
挂畏淡海大津宮御宇倭根子天皇乃、万世尓不改常典止、立賜敷賜閉魯(随)法
※ (随)は、返読文字となっていて、この位置にある。
○続日本紀 天平勝宝元年七月(二日)条 【聖武譲位詔】
挂畏近江大津乃宮尓御宇之天皇乃不改自常典等初賜比定賜部流法
○続日本紀 天応元年四月(十五日)条 【桓武即位詔】
掛畏近江大津乃宮尓御宇之天皇乃勅賜比定賜部流法
※ 淳和天皇については、淳和天皇御即位記に、「掛畏岐近江乃大津乃宮爾御宇之天皇乃。初賜比定賜部流法」という呼称が見える。
○続日本後紀 天長十年三月(六日)条 【仁明即位詔】
掛畏支近江大津乃宮尓御宇之天皇乃初賜比定賜部留法
○三代実録 天安二年十一月七日条 【清和即位詔】
掛畏近江大津乃宮尓御宇之天皇乃初賜比定賜倍留法
○三代実録 元慶元年正月三日条【陽成即位詔】
掛畏岐近江大津乃宮尓御宇之天皇乃。初賜比定賜倍留法
○三代実録 元慶八年二月廿三日条【光孝即位詔】
掛畏近江大津宮尓御宇「世」之天皇乃初賜比定賜倍留法
※ 「世」は、国史大系本の頭注に「世、當衍」とある。
といった状況であり、当初から定まった名称が存在していたわけではない。
根幹は、近江大津宮御宇天皇(天智天皇)が制定した「法」というところにあり、【元明即位詔】にあった「与天地共長与日月共遠不改常典」という部分が、次第に簡略化され、【桓武即位詔】以降は、すべて省略されて、定型化している。
いずれの形にせよ、名称というよりは、説明文とした方が、しっくり来る形である。
その“説明”の中で、「立賜ひ敷賜へる」、あるいは、「初賜ひ定賜へる」などとあることからすれば、この「法」は、制定され、施行されたもののようであり、おそらくは、成文法であったと推測されてくる。
この点、岩橋小彌太「天智天皇の立て給ひし常の典」は、
単なる御遺誡といふだけのものではなく、不磨の法典として、天地と共に長く伝へ、日月と共に遠く及ぼすだけの立派な堂々たる形式を具備した、令などゝ並行する、或はそれよりも重く取扱はれた特別の規定であつたと考へなければならない。
と述べている。
そこまで「堂々たる」ものであったか否かは、ともかく、成文法であろうことは、十分に推測されるところである。
また、この「法」が、例外なく、即位詔・譲位詔の中に出現していることからすれば、皇位継承と密接な係わりがあったことも、容易に想定されるところであろう。
先ほどの岩橋論文も、【元明即位詔】の詔詞を仔細に検討する中で、
・・・天智天皇の立て給うた改るまじき常の典といふのは、皇位継承の事に関するものゝやうに思はれる。
と述べている。
それゆえ、天智紀の中に皇位継承に係る「法」を制定したという記事があれば、それが「不改常典」ということになるのであるが、残念ながら、明確に、それと分かる「法」を見出すことはできない。
研究者の間で議論百出の状態となっているのも無理からぬところであろう。
ただ、皇位継承という点について、少しばかり概念を広げて、地位の継承と捉え直して考えてみると、若干、気になる記事が出てくる。
それが、いわゆる“甲子の宣”の中で語られている氏上の規定である。
○日本書紀 天智天皇三年二月(九日)条
天皇、大皇弟に命して、冠位の階名を增し換ふること、及び氏上・民部・家部等の事を宣ふ。・・・其の大氏の氏上には大刀を賜ふ。小氏の氏上には小刀を賜ふ。其の伴造等の氏上には干楯・弓矢を賜ふ。・・・
この記事においては、氏上について、簡単に触れているだけであるが、その背後では、ある程度、詳細な法規も制定されていたことが推測されるのである。
ここで、あらかじめ、結論めいたことを述べておけば、
・氏上について定めた「法」の中には、その地位の承継に関する規定も含まれていた。
・その規定において、氏上の選出は、氏族の内部で行うということが述べられていた。
・その後、皇族も氏族のうちであり、皇族の氏上が天皇であるという解釈がなされた。
・氏上の選出方法を皇位にも適用したものが“天智天皇の定めた法”の実体である。
というのが筆者の推理である。
この想定が正しければ、「不改常典」とは、天皇を皇族の内部で選出するという内容を含む「法」であったことになる。
以下では、上記推論に係るあれこれを、もう少し詳しく書き留めておくことにしたい。
第1節 氏上について定めた「法」の存在
日本書紀に掲載された記事が簡単なものであったとしても、その背後には、詳細な法規が存在したであろうことが想定される場合がある。
例えば、天智紀九年二月条には、
戸籍を造る。盗賊と浮浪とを斷む。
という簡単な記事がある。
ここに見える戸籍とは、庚午年籍のことであり、この年、実際に造籍が行われたようである。
全国的に造籍を行うためには、戸令のような法令から帳簿の書式に至るまで、各種規定が必要とされたはずである。
日本書紀の中に、それら法規に言及した記述は見当たらないが、天智九年二月よりも以前の段階で制定されていたであろうことは間違いがない。
これと同様に、氏上の場合も、“甲子の宣”の背後では、詳細な法規が制定されていた可能性が大きいように思われる。
その規定の中では、氏上の選出方法についても記述があったとする方が自然であろう。
やや時代は降るが、天武紀十年九月(八日)条には、
詔して曰はく、「凡そ諸氏の氏上未だ定まらざること有らば、各氏上を定めて、理官に申べ送れ」とのたまふ。
とあり、同十一年十二月(三日)条には、
詔して曰はく、「諸氏の人等、各氏上に可き者を定めて申し送れ。亦其の眷族多に在らむ者をば、分けて各氏上を定めよ。並に官司に申せ。然して後に其狀を斟酌りて處分へ。因りて官判を承けよ。唯し少き故に因りて、己が族に非ざらむ者をば、輙く附くること莫れ」とのたまふ。
ともある。
いずれの詔も、氏族の内部で氏上を定めるように求めており、特に、十年九月の詔においては、「未だ定まらざること有らば」とあって、それ以前から、氏上を定めるよう求められていたことを窺わせる内容となっている。
なお、上記以外にも、天武紀五年六月条には、
物部雄君連、忽に病發りて卒ぬ。天皇、聞しめして大きに驚きたまふ。其の壬申の年に、從車駕て東國に入りて、大き功有るを以て、恩を降して内大紫位を贈ふ。因りて氏上賜ふ。
という記事がある。
氏上の地位は、没後に追贈される場合もあったようである。
この賜与されるという点では、持統紀八年正月(二日)条にも、
正廣肆を以て、直大壹布勢朝臣御主人と大伴宿禰御行とに授けたまふ。封増すこと人ごとに二百戸。前に通せば五百戸。並に氏上とす。
という記事が見える。
こちらの記事では、氏族側からの申請があったか否かは、はっきりとしないが、とにかく、氏上に任命している。
この点、継嗣令(養老令)にも、
其れ氏宗は、勅聴け。
という規定がある。(令集解では、「古記云。但氏上者聽勅。」とあって、「謂諸氏上者。必勅定給。・・・」と説明されている。)
上記天武十一年十二月の詔では、「官判を承けよ。」とあったが、その後、さらに勅が下されるということであろうか。
いずれにせよ、氏族が氏上を定めて朝廷に申請すると、審査のうえ、承認されるという一連の手続きがあったように読み取れる。
第2節 大化前代の皇位継承
大化前代の皇位は、終身の地位であったように見える。
その継承は、どのように行われていたのか。
記紀を見る限りでは、先帝の遺志が尊重されながらも、“群臣会議”において決定されていたようである。
このことは、日本古典文学大系本『日本書紀』の推古即位前紀の頭注にも、
天皇擁立は古くから群臣の衆議によったらしいが・・・
と説明されている。
その様子が、最も詳細に描かれているのは、舒明即位前紀の、
九月に葬禮畢りぬ。嗣位未だ定らず。是の時に當り
て、蘇我蝦夷臣、大臣たり。獨り嗣位を定めむと欲へり。顧みて群臣の從はざらむことを畏る。則ち阿倍麻呂臣と議りて、群臣を聚へて、大臣の家に饗す。
食訖りて散れむとするに、大臣、阿倍臣に令して、群臣に語らしめて曰はく、「今、天皇既に崩りまして嗣无し。若し急に計らずは、畏るらくは亂有らむか。今
詎の王を以て嗣とすべき。
天皇の臥病したまひし日に、田村皇子に詔して曰ひしく、『天下は大任なり。本より輙く言ふものに非ず。爾田村皇子、慎みて察にせよ。緩らむこと不可』との
たまひき。
次に山背大兄王に詔して曰ひしく、『汝、獨り莫誼讙きそ。必す群の言に從ひて、慎みて違ふな』とのたまひき。則ち是天皇の遺言なり。今、誰をか天皇とすべ
き」といふ。時に、群臣嘿せり。答ふること無し。亦問ふ。答へ非ず。強ひて且問ふ。
是に、大伴鯨連進みて曰はく、「既に天皇の遺命の從ならまくのみ。更に群の言を待つべからず」といふ。阿倍臣、則ち問ひて曰はく、「何と謂ふことぞ。其の
意を開け」といふ。對へて曰はく、「天皇曷に思しけばか、田村皇子に詔して、『天下は大任なり。緩らむこと不可』と曰ひけむ。
此に因りて言へば、皇位は既に定りぬ。誰人か異言せむ」といふ。時に釆女臣摩禮志・高向臣宇摩・中臣連彌氣・難波吉士身刺、四の臣の曰はく、「大伴連の言
の隨に、更に異なること無し」といふ。
許勢臣大麻呂・佐伯連東人・紀臣鹽手、三人進みて曰はく、「山背大兄王、是天皇とましますべし」といふ。唯蘇我倉摩呂更の名は雄當。臣のみ獨り曰はく、「臣は當時、便く言すこと得じ。更に思ひて後に啓さむ」といふ。
爰に大臣、群臣の和はずして、事を成すこと能はざることを知りて、退りぬ。
という記事である。
この後、蘇我蝦夷は、山背大兄王を推す境部臣摩理勢を殺害して、舒明天皇の即位を実現させたわけであるが、以上の顛末を簡単にまとめておくと、
・先帝の葬儀終了後、“群臣会議”が開かれて新帝の人選が行われる。
・会議においては、先帝の遺志が判断材料とされる。
・会議が不調に終わった場合は、最終的に、武力によって決着が図られる。
ということになろう。
この流れは、舒明天皇即位の時に限ったことではなく、大化前代に行われていた慣行であるように読み取れる。
例えば、崇神紀四十八年正月(十日)条に、
天皇、豐城命・活目尊に勅して曰はく、「汝等二の子、慈愛共に齊し。知らず、曷をか嗣とせむ。各夢みるべし。朕夢を以て占へむ」とのたまふ。二の皇子、是に命を被りて、淨沐して祈みて寐たり。各夢を得つ。
會明に、兄豐城命、夢の辭を以て天皇に奏して曰さく、「自ら御諸山に登りて東に向きて、八廻弄槍し、八廻擊刀す」とまうす。弟活目尊、夢の辭を以て奏して言さく、「自ら御諸山の嶺に登りて、繩を四方に絚へて、粟を食む雀を逐る」とまうす。
則ち天皇相夢して、二の子に謂りて曰はく、「兄は一片に東に向けり。當に東國を治らむ。弟は是悉く四方に臨めり。朕が位に繼げ」とのたまふ。
とあり、古事記 応神天皇段に、
是に天皇、大山守命と大雀命とに問ひて詔りたまひしく、「汝等は、兄の子と弟の子と孰れか愛しき。」とのりたまひき。天皇是の問を發したまひし所以は、宇遲能和紀郎子に天の下治らさしめむ心有りつればなり。
爾に大山守命は、「兄の子ぞ愛しき。」と白したまひき。次に大雀命は、天皇の問ひ賜ひし大御情を知らして白したまひしく、「兄の子は既に人と成りて、是れ悒きこと無きを、弟の子は未だ人と成らねば、是れぞ愛しき。」とまをしたまひき。
爾に天皇詔りたまひしく、「佐邪岐、阿藝の言ぞ、佐より藝までの五字は音を以ゐよ。我が思ふが如くなる。」とのりたまひて、即ち詔り別けたまひしく、「大山守命は山海の政を爲よ。大雀命は食國の政を執りて白し賜へ。宇遲能和紀郎子は天津日繼を知らしめせ。」とのりわけたまひき。
とあるのは、先帝の意志表明が、ごく普通にあったことを物語るものであろう。
なお、ついでながら、安閑即位前紀に、
男大迹天皇、大兄を立てて天皇としたまふ。即日に男大迹天皇崩りましぬ。
とあるのは、書紀編者の舌足らずな表現とでも言うべきものであろうか。
先帝が当日に崩御するという状況の中で、即位の儀式が執り行われたとは考え難い。(当時、剣璽渡御に相当する儀式が存在したようにも思えない。)
※ 剣璽渡御の初見は、日本後紀大同元年三月(十七日)条の「有頃天皇崩於正寢。春秋七十。皇太子哀號擗踊。迷而不起。
參議從三位近衞中將坂上大宿祢田村麻呂。春宮大夫從三位藤原朝臣葛野麻呂固請扶下殿。而遷於東廂。
次璽并劔樻奉東宮。」(文中の「天皇」は桓武、「皇太子」は平城。)という記事であろう。
例えば、井上光貞『日本古代の王権と祭祀』(81頁)は、「日本後紀中の、平城「即位」(広義)にあたり先帝(桓武)崩御のその日に剣璽渡御がおこなわれた、
との記事は、以前からあったそういう制度を日本後紀の編者が特に記したと考えるより、かかる制度がこのころになってはじめて制度化され、このときにはじめて実施されたもの、とみた方が自然であると考えられる。」と述べている。
あくまでも、後継者についての意思表示がなされただけというのが実際の状況であったように思われる。
一方、允恭即位前紀には、
瑞齒別天皇崩りましぬ。爰に群卿、議りて曰はく、「方に今、大鷦鷯天皇の子は、雄朝津間稚子宿禰皇子と、大草香皇子とまします。然るに雄朝津間稚子宿禰皇子、長にして仁孝まします」といふ。即ち吉日を選びて、跪きて天皇の璽を上る。・・・
とあり、継体紀にも、
○継体即位前紀
大伴金村大連議りて曰はく、「方に今絶えて継嗣無し。天下、何の所にか心を繫けむ。古より今に迄るまでに、禍斯に由りて起る。
今足仲彦天皇の五世の孫倭彦王、丹波國桑田郡に在す。請ふ、試に兵仗を設けて、乗輿を夾み衞りて、就きて迎へ奉りて、立てて人主としまつらむ」といふ。
大臣・大連等、一に皆隨ひて、迎へ奉ること計の如し。是に、倭彦王、遥に迎へたてまつる兵を望りて、懼然りて色失りぬ。仍りて山壑に遁りて、詣せむ所を知らず。
○継体紀元年正月(四日)条
大伴金村大連、更籌議りて曰はく、「男大迹王、性慈仁ありて孝順ふ。天緒承へつべし。冀はくは慇懃に勸進りて、帝業を紹隆えしめよ」といふ。物部麁鹿火大連・許勢男人大臣等、僉曰はく、「枝孫を妙しく簡ぶに、賢者は唯し男大迹王ならくのみ」といふ。
という記述が見える。
これらの記事は、“群臣会議”による天皇の選出を物語っている。
さらに、“会議”に直接の言及はないものの、群臣の関与が語られているものとして、次のような記事がある。
○清寧即位前紀
大伴室屋大連、臣・連等を率て、璽を皇太子に奉る。
○顕宗紀元年正月朔条
大臣・大連等、奏して言さく、「皇太子億計、聖德明に茂にして、天下を讓り奉りたまふ。陛下、正統にまします。・・・兄の命を奉けて、大業に承統ぎたまへ」とまうす。
○武烈即位前紀
大伴金村連、賊を平げ
定むること訖りて、政を太子に反したてまつる。尊號を上らむと請して曰さく、「今、億計天皇の子、唯陛下のみ有します。・・・伏して願はくは、陛下、仰ぎ
て靈祗に答したまひて、景きなる命を弘め宣べ、日本に光り宅しませ。誕きに銀郷を受けたまへ」とまうす。
○宣化即位前紀
勾大兄廣國押武金日天皇、崩りまして嗣無し。群臣、奏して劒鏡を武小廣國押盾尊に上りて、即天皇之位さしむ。
○欽明即位前紀
武小廣國押盾天皇崩りましぬ。皇子天國排開廣庭天皇、群臣に令して曰はく、「余、幼年く識淺くして、未だ政事に閑はず。山田皇后、明かに百揆に閑ひたまへり。請ふ、就でて決めよ」とのたまふ。
山田皇后、怖謝りて曰したまはく、「妾、恩寵を蒙ること、山も海も詎か同じからむ。萬機の難きに、婦女安ぞ預らむ。今皇子は、老を敬ひ少を慈び、賢者に禮下ひたまふ。・・・請ふ、諸臣等、早く位に登りて天下に光り臨さしめよ」とまうしたまふ。
○崇峻即位前紀
炊屋姫尊と群臣と、天皇を勸め進りて、即天皇之位さしむ。
○推古即位前紀
群臣、渟中倉太珠敷天皇の皇后額田部皇女に請して、令踐祚らむとす。皇后辭讓びたまふ。百寮、表を上りて勸進る。三に至りて乃ち從ひたまふ。因りて天皇の璽印を奉る。
いずれを見ても、“会議”が開かれたとは書かれていない。
しかし、群臣が一致して次期天皇を推戴するためには、事前に意見の摩り合わせが必要となるように思われる。
つまるところ、“群臣会議”の開催されていたであろうことが推測されるのである。
※ ただし、一口に“群臣会議”と言っても、実態は、一様ではなく、その場で合意形成を図る実質的なものから、既成事実を追認するだけの形式的なものまで、時と場合に応じて、さまざまな形態の会議があったものと考えられる。
これとは別に、安康即位前紀の場合は、先帝(允恭)崩後のこととして、
冬十月に葬禮畢りぬ。是の時に、太子、暴虐行て、婦女に淫けたまふ。國人謗りまつる。群臣從へまつらず。悉に穴穗皇子に隷きぬ。爰に太子、穴穗皇子を襲はむとして、密に兵を設けたまふ。穴穗皇子、復兵を興して戰はむとす。
故、穴穗括箭・軽括箭、始めて此の時に起れり。時に太子、群臣從へまつらず、百姓乖き違へることを知りて、乃ち出でて物部大前宿禰の家に匿れたまふ。穴穗皇子、聞しめして則ち圍む。大前宿禰、門に出でて迎へたてまつる。穴穗皇子、歌して曰はく、・・・
大前宿禰、返歌して曰さく、・・・
乃ち皇子に啓して曰さく、「願はくは、太子をな害したまひそ。臣、議らむ」とまうす。是に由りて、太子、自ら大前宿禰の家に死せましぬ。一に云はく。伊豫國に流しまつるといふ。
※ 文中「太子」は、木梨軽皇子。
という記述がある。
ここでは、先帝の定めた「太子」を退けて、群臣の支持を得た穴穂皇子(安康)が立てられたことを述べている。
群臣の承認を取り付けることが最優先の課題であったことを物語るものであろう。
何しろ、この場合、先帝は、すでに崩御しているわけであるから、群臣の反対を抑えて、その意思を貫徹させることが不可能な状況になっている。
この先帝に“不利”な慣行を是正するために採用された方策が、終身在位の否定であり、譲位ということになるものと思われる。
第3節 皇極天皇の譲位
日本書紀によると、乙巳の変の後、皇極天皇は譲位をして、自らは「皇祖母尊」と呼ばれることとなった。
これは、それまでの皇位が終身のものであったことからすれば、大きな変革である。
なぜ、この時に譲位が敢行されたのか。
そのきっかけは、蘇我氏の紫冠譲渡にあったのではないかというのが筆者のぼんやりとした思い付きである。
皇極紀二年十月(六日)条には、
蘇我大臣蝦夷、病に縁りて朝らず。私に紫冠を子入鹿に授けて、大臣の位に擬ふ。
という記事がある。
ここに見える紫冠については、「間接的に天皇号の始用時期とも係わる推論二話」という小論の中でも、少しばかり取り上げてみたことがある。
その結論だけを言えば、紫冠とは、蘇我氏の族長位の象徴であるという説が有力であるように考えられたのであった。
紫冠譲渡後の蝦夷と入鹿を追ってみると、例えば、皇極紀三年十一月条に、
蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣、家を甘檮岡に雙べ起つ。
とあるように、蝦夷は、依然として大臣のままであったように記されている。
これは、蝦夷の死に至るまで変わっていない。
また、蝦夷以前の二代についても、その動静を見てみると、稲目については、欽明紀三十一年三月朔条に、
蘇我大臣稻目宿禰薨せぬ。
とあり、馬子については、推古紀三十四年五月(二十日)条に、
大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る。大臣は稻目宿禰の子なり。
とある。
いずれも、大臣位を保持したままでの薨去を物語っている。
その頃、蘇我氏の族長位と大臣の地位は、不即不離の関係にあり、共に終身の地位であったのだろう。
その両者を分離して、族長位のみを入鹿に譲渡したのが、皇極二年の記事内容であったと思われる。
※ 当時、蘇我氏の同族には、境部臣摩理勢という実力者が存在していた。病を得た蝦夷は、入鹿への相続に不安を覚えたのではなかろうか。何事もなく入鹿が大臣に任命されるための布石として、氏族の内部で決定可能な族長位だけを先行して譲ったものとも考え得るのである。
それまでの族長位は、一般に、朝廷の官職に隠れて、明確に意識されることも少なかったものと考えられる。
例えば、安閑紀元年閏十二月是月条には、
武蔵國造笠原直使主と同族小杵と、國造を相爭ひて、使主・小杵、皆名なり。年経るに決め難し。
小杵、性阻くて逆ふこと有り。心高びて順ふこと無し。密に就きて援を上毛野君小熊に求む。而して使主を殺さむと謀る。使主覺りて走げ出づ。京に詣でて状を言す。朝庭臨斷めたまひて、使主を以て國造とす。小杵を誅す。
國造使主、悚憙懐に交ちて、默已あること能はず。謹みて國家の爲に、横渟・橘花・多氷・倉樔、四處の屯倉を置き奉る。
という記事がある。
この場合、同族で争ったのは、族長位であり、その地位を獲得した者が国造に任じられるというのが本来の流れであろう。
しかるに、最初から「國造を相爭ひて」と書かれているのは、この場合、族長が、ほぼ自動的に、国造に任命されていることから、わざわざ、族長位に言及するまでもなかったためであろう。
このように、やや影の薄い族長位を、あらためて、意識させるきっかけとなったのが、紫冠の譲渡であったと思われる。
すなわち、蘇我氏の紫冠譲渡は、
・朝廷の官職に隠れがちであった族長位を再認識させる。
・終身在位の慣行を打破して、生前の譲渡を可能とする。
という二点において、画期的な出来事であったと考えることができる。
前者の族長位の再認識は、天智三年の氏上の規定に繋がるものであろうし、後者の終身在位の打破は、皇極天皇の譲位を誘発させたものであったに違いない。
なお、譲位に関しては、推古天皇の長寿も影響を与えた気がする。
何しろ、七十五歳という長寿のため、聖徳太子の世代が先に薨去し、皇位は、孫の世代へ継承されることとなった。
適切な時期の皇位継承を考えて、譲位を採用するのは、今般(平成三十一年)の譲位にも通じるものがあろう。
もっとも、皇極天皇の場合は、それほどの高齢であったとは考え難い。
おそらく、その時々の事情に応じて、柔軟に譲位が可能となる前例を作りたかったのではないだろうか。
第4節 懐風藻葛野王伝
皇極天皇の譲位以降、奈良朝以前の皇位継承の様子は、日本書紀に、あまり詳しく書かれていない。
非常事態である場合も多く、例えば、壬申の乱の直後など、とても“群臣会議”を開く雰囲気になかったことは確かであろう。
それでも、なお、“群臣会議”が否定されるまでには至っていなかったことを窺わせるのが、懐風藻葛野王伝の、
高市皇子薨りて後に、皇太后王公卿士を禁中に引きて、日嗣を立てむことを謀らす。時に群臣私好を挾みて、衆議紛紜なり。
王子進みて奏して曰はく、「我が國家の法と爲る、神代より以來、子孫相承けて、天位を襲げり。若し兄弟相及ぼさば則ち亂此より興らむ。仰ぎて天心を論らふに、誰か能く敢へて測らむ。然すがに人事を以ちて推さば、聖嗣自然に定まれり。此の外に誰か敢へて間然せむや」という。
弓削皇子座に在り、言ふこと有らまく欲りす。王子叱び、乃ち止みぬ。皇太后其の一言の國を定めしことを嘉みしたまふ。
という記事である。
この場合、群臣が協議したのは、皇太子についてであり、皇位とは直接に関係していないのであるが、持統朝に至っても、このような会議が開催されていたことは特筆されて良い。
大化前代からの“群臣会議”が、そのままの形ではないにせよ、引き継がれていたことを物語るものであろう。→補注1
ところで、この葛野王伝の“群臣会議”が開かれたのは、「後皇子尊」と称された高市皇子の薨後である。
正確な日時は不明であるが、
○持統紀十年七月(十日)条
後皇子尊薨せましぬ。
○持統紀十一年二月(二十八日)条
直廣壹當麻眞人國見を以て、東宮大傅とす。直廣參路眞人跡見をもて春宮大夫とす。直大肆巨勢朝臣粟持をもて亮とす。
○続紀文武即位前紀
高天原広野姫天皇の十一年立ちて皇太子と為りたまふ。
といった記事を総合してみると、持統十年七月十日から同十一年二月二十八日までの間に開催されたもののようである。
その後、持統紀十一年八月朔条には、
天皇、策を禁中に定めて、皇太子に禪天皇位りたまふ。
とあり、皇太子となった軽皇子への譲位が行われている。
この譲位の際に、再度、“群臣会議”が開かれたか否かは微妙なところであろう。
続紀文武即位前紀の【文武即位詔】を見ても、
・・・現御神と大八嶋国知らしめす倭根子天皇命の、授け賜ひ負せ賜ふ貴き高き広き厚き大命を受け賜り恐み坐して、此の食国天下を調へ賜ひ平げ賜ひ、天下の公民を恵び賜ひ撫で賜はむとなも、神ながら思しめさくと詔りたまふ天皇が大命を、諸聞きたまへと詔る。
とあって、持統天皇の「大命」を受けて即位したことのみが語られている。
ほんの何ヶ月か前に、同様の“会議”が開かれていたわけであるから、譲位の際は、省略されたとしても不思議ではない。
ただ、遠藤みどり[持統譲位記事の「定策禁中」について]は、「定策禁中」という言葉が“臣下の関与”を含意していることに注目して、
可能性として考えられるのは、立太子時と即位時の二度にわたり群臣に謀ったとする考え、群臣に謀ったのは立太子時一度で『日本書紀』には立太子の記事がないため、譲位時に「定策禁中」と記したとする考えの二つだろうか。
という両論を併記したうえで、二つの「考え」の「どちらかに断定することはできない」としている。
確かに、譲位の時にも“会議”が開かれた可能性は否定できない。
※ 仮に、“会議”が開かれたとしても、それは、前回の結論を追認するだけの形式的なものに過ぎなかったであろう。
いずれにしても、その後、元明~孝謙の即位をめぐる記事においては、それらしい“会議”の記述を見出すことはできなくなる。
その間、“群臣会議”と入れ代わるようにして出てきたのが「不改常典」である。
このような情況からすれば、「不改常典」の内容が“群臣会議”の否定であったという想定は、十分に成り立つであろう。
この点、倉住靖彦「いわゆる不改常典について」は、
天智法は文武の崩後その遺子聖武への皇位継承を志向して即位した元明が目的達成のために天智に仮託して創出したもので、皇位継承者の決定に関する群臣の関与を排除し、天皇自身の専決を可能にするための法的根拠であった。
と述べている。
その「群臣の関与を排除し」という部分は、おおむね首肯できるが、「天智に仮託して創出した」という点については、いかがであろうか。→補注2
それよりは、実際に、天智天皇の定めた「法」が存在したとする方が自然ではないだろうか。→補注3
上述のとおり、天智天皇の定めた氏上の規定には、氏族内部で氏上を選定すべき旨が書き込まれていたようである。
この規定は、本来、氏族の氏上を想定していたものであるが、それを皇族・天皇にも適用して、宣布したものが「不改常典」と呼ばれる「法」の実体であったのだろうと思われる。(元々が氏族向けの法規であったため、奈良朝の官人は、すぐに、その内容を了解することができたものと思われる。続日本紀等で、特段の説明がなされていないのも、それが周知のものであったためであろう。)
第5節 「不改常典」という言葉
さて、【元明即位詔】に初出し、「法」を修飾している「不改常典」という言葉は、それ以降、【聖武即位詔】、【聖武譲位詔】の二詔に採用されているが、その後、消失している。
なぜ、使用されなくなったのか。
この点を考える上で、注目されるのが、続紀天平宝字元年四月(四日)条の、
天皇、群臣を召して問ひて曰はく、「誰の王を立てて皇嗣とすべけむ」とのたまふ。
右大臣藤原朝臣豊成、中務卿藤原朝臣永手ら言して曰はく、「道祖王の兄、塩焼王を立つべし」といふ。
摂津大夫文室真人珎努、左大弁大伴宿禰古麻呂ら言して曰はく、「池田王を立つべし」といふ。
大納言藤原朝臣仲麻呂言して曰はく、「臣を知るは君に若くは莫し。子を知るは父に若くは莫し。唯、天意の択ひたまふ者を奉けたまはらむのみ」といふ。
勅して曰はく、「宗室の中、舍人・新田部の両の親王は、是れ尤も長なり。
茲に因りて、前に道祖王を立てしかども、勅教に順はずして遂に淫なる志を縦にせり。然れば、舎人親王の子の中より択ふべし。
然れども、船王は閨房修まらず。池田王は孝行闕くること有り。塩焼王は太上天皇責めたまふに無礼を以てせり。
唯、大炊王、未だ長壮にあらずと雖も、過悪を聞かず。この王を立てむと欲ふ。諸卿の意に如何」とのたまふ。
是に、右大臣已下、奏して曰はく、「唯、勅命、是れ聴きたてまつらむ」といふ。是より先、大納言仲麻呂、大炊王を招きて田村の第に居らしむ。是の日、内舎人藤原朝臣薩雄と中衛廿人とを遣して、大炊王を迎へて、立てて皇太子としたまふ。
という記事である。
この時の「天皇」は、孝謙天皇であるが、葛野王伝の時と同じような“群臣会議”が復活しているように見える。
なお、これに先立つ同年三月(二十九日)条には、
皇太子道祖王、身は諒闇に居りて、志、淫縦に在り。
教勅を加ふと雖も、曾て改め悔ゆること无し。是に、勅して群臣を召し、先帝の遺詔を示し、因て廃不の事を問ひたまふ。右大臣已下、同じく奏して云さく、
「敢へて顧命の旨に乖き違はじ」とまうす。是の日、皇太子を廃して、王を以て第に帰す。
という記事もある。
ここでは、道祖王の廃太子にあたり、群臣の意見が求められている。
非常のことゆえ、特に“群臣会議”が開催されたということであろうか。
また、続紀宝亀元年八月(四日)条には、
天皇、西宮の寝殿に崩りましぬ。春秋五十三。左大臣
従一位藤原朝臣永手、右大臣正二位吉備朝臣真備、参議兵部卿従三位藤原朝臣宿奈麻呂、参議民部卿従三位藤原朝臣縄麻呂、参議式部卿従三位石上朝臣宅嗣、近
衛大将従三位藤原朝臣蔵下麻呂ら、策を禁中に定めて、諱を立てて皇太子とす。
左大臣従一位藤原朝臣永手、遺宣を受けて曰はく、「今詔りたまはく、事卒然に有るに依りて、諸臣等議りて、白壁王は諸王の中に年歯も長なり。また、先の帝
の功も在る故に、太子と定めて、奏せるまにまに宣り給ふと勅りたまはくと宣る」といふ。
という記述が見える。
こちらの「天皇」は、称徳天皇である。
引用した文章の流れがややこしいが、称徳天皇の病状が急変した際に、群臣が「諱」(白壁王=光仁天皇)を皇太子に推挙し、天皇がそれを認める遺詔を残して崩御したというのが編者の意図したところのようである。
※ 蛇足ながら、日本紀略(前篇十二)に見える百川伝には、「百川與永手良繼定策。僞作宣命語。宣命使立庭令宣制。右大臣眞備巻舌無如何。百川即命諸仗册白壁王爲皇太子。」とある。
この場合、あくまでも、天皇の遺志にもとづく立太子となるのであろうが、その前段階では、「策を禁中に定めて」とも書かれており、“群臣会議”が開かれていたという解釈も成り立つ。
いずれにせよ、孝謙・称徳天皇の頃に、“群臣会議”が、一度、復活していたように見える。
だとすれば、それは、「不改常典」と呼ばれた「法」が一時的に停止されたことを意味し、「常典」とは呼び難い状況に陥っていたことを物語っている。
この“一時停止”が【桓武即位詔】以降の宣命に影響を与え、「不改常典」という言葉が使われなくなる原因となったようにも考えられるのである。
第6節 宇佐八幡神託事件
神護景雲三年、道鏡が皇位を望んで失敗するという事件が起きる。
続紀神護景雲三年九月(二十五日)条によると、
始め大宰主神習宜阿曾麻呂、旨を希ひて道鏡に媚び事ふ。因て八幡神の教と矯りて言はく、「道鏡をして皇位に即かしめば、天下太平ならむ」といふ。
という神託が事の発端であった。
この「道鏡をして皇位に即かしめば」という発想が生まれた直接の原因は、天平宝字八年十月九日に出された、
挂けまくも畏き朕が天の先帝の御命以て朕に勅りたまひしく、天下は朕が子いましに授け給ふ。
事をし云はば、王を奴と成すとも、奴を王と云ふとも、汝の為むまにまに。仮令後に帝と立て在る人い、立ちの後に汝のために无礼して従はず、なめく在らむ人をば帝の位に置くことは得ずあれ。
また君臣の理に従ひて、貞しく浄き心を以て助け奉侍らむし帝と在ることは得むと勅りたまひき。かく在る御命を朕また一二の竪子等と侍りて聞きたまへて在り。・・・
という宣命にあったのだろう。
ここでは、先帝(聖武)の言葉として、「王を奴と成すとも、奴を王と云ふとも、」汝(孝謙)の自由であると述べられている。
その言葉どおり、孝謙上皇は、淳仁天皇を廃して、淡路公に封じたのであった。
宣命の主な目的は、「王を奴と成す」ところにあったわけであるが、対句として用いた「奴を王と云ふ」の部分を援用して出されてきたのが宇佐八幡の上記の神託であったと思われる。
この企ては、結局、和気清麻呂が神に祈って聞いた、
我が国家開闢けて以来、君臣定りぬ。臣を以て君とすることは、未だ有らず。天の日嗣は必ず皇緒を立てよ。无道の人は早に掃ひ除くべし
という託宣によって阻止されてしまうわけであるが、この託宣以外に、道鏡の即位を阻止できる根拠は、なかったもののようである。
例えば、日本書紀 神代下(第九段、一書第一)には、いわゆる天壌無窮の神勅が載せられている。
そこには、天照大神の言葉として、
葦原の千五百秋の瑞穗國は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治せ。行矣。寶祚の隆えまさむこと、當に天壌と窮り無けむ
という指令・予祝が語られている。
皇祖神の神勅は、相当に重い言葉であったはずであるが、これさえも、道鏡の即位を阻止できるものではなかった。
神代紀の本文ではなく、一書に書かれたことで、軽く見られたのであろうか。
もしかすると、道鏡の母方の祖先が皇別の氏族であったのかも知れないが、詳細は不明とするほかない。
この点、「不改常典」とされた「法」も、道鏡の即位を止められるものではなかったようである。(上述のとおり、その頃は、ちょうど「不改常典」が“一時停止”されていた時期ではある。)
氏族の内部で氏上を決めるという取り決めは、一見、血縁者の中から氏上を選ぶということを含意しているようにも見える。
しかし、そのことを明確に記した文章は、存在しなかったのであろう。
おそらく、当たり前のことであったため、明文化しようとする発想自体が起らなかったものと思われる。
上掲、天武紀十一年十二月(三日)条には、「唯し少き故に因りて、己が族に非ざらむ者をば、輙く附くること莫れ」という文言がある。
これは、天智天皇の定めた「法」の足らざる部分を補ったものであろうが、よく見ると、「少き故に因り」という条件が付けられている。
従って、逆に“大きな故”があった場合は、「己が族に非ざらむ者」を氏上に選定することを許容しているようにも読むことができる。
もちろん、そのような意図で書かれたものではあるまいが、結果的に、多様な解釈を可能とする文章になってしまっている。
習宜阿曾麻呂による最初の神託は、そのような、言わば、灰色となっていた部分をうまく突いてきたものと考えられるのである。
第7節 食国法との関連など
慶雲四年七月十七日の【元明即位詔】においては、
関母威岐近江大津宮御宇大倭根子天皇乃、与天地共長与日月共遠不改常典止立賜比敷賜覇留法
と呼ばれる「法」と、
天地之共長遠不改常典止立賜覇留食国法
と呼ばれる「食国法」の二種類の法が語られている。
両者ともに、「不改常典」と修飾されていることから、「法」と「食国法」の異同をめぐり、さまざまな見解が出されていることも、周知のとおりである。
この点、「法」を氏上の規定と考える立場からすると、それを「食国法」と言い換えるには、無理があるように思われる。
やはり、両者は、別のものであるように思われ、「食国法」は、多くの人が指摘するとおり、律令などの統治法を意味する言葉と考えられる。
例えば、田中卓「天智天皇の不改常典」は、
この「食国法」を大宝律令と考へる私見の最大の拠り所は、前述の如く、養老三年の元正天皇の詔に、大宝律令を以て「為恒法」とあり、この「恒法」が“不改常典として立て賜へる食国法”に相当すると思へる点である。
と述べている。
傾聴すべき見解であろう。
ただし、長山泰孝「不改常典の再検討」のように、
しかし、この「為恒法」は大宝律令を指しているのではないのではなかろうか。・・・直接には恒法とは近江令を指すと思われるが、近江令という法典自体を指すというより、開闢以来国家統治の底流をなし、近江令で形を整えられた「法令」を指していると解すべきであろう。
という解釈も存在している。
ここで問題となっている続紀養老三年十月(十七日)条の詔文は、
開闢(くにひら)けしより已来、法令尚(ひさ)し。君臣位を定めて運属(つ)くる所有り。中古に洎(およ)びて由(したが)ひ行ふと雖も、綱目を彰(あらわ)さず。
降りて近江の世に至りて、弛張悉く備る。藤原朝に迄(いた)りて、頗る増損有れども由(したが)ひ行ひて改むること無し。以て恒法とす。是に由りて遠祖の正典を稽(かむが)へ、列代の皇綱を考ふるに、洪緒を承け纂(つ)ぐは、此れ皇太子なり。
※ 文中( )内の文字はルビ。
というものである。
難渋な文章であるが、「恒法」とは、近江朝に整備され、藤原朝に増減があったものの、開闢以来、変わっていない法令ということであり、それは、君臣の地位を定めたものであるということになるのではないだろうか。
※ 律令の概要は、例えば、職員令・後宮職員令・東宮職員令などによって、“臣”が規定されると同時に、その奉仕対象である天皇・皇后・皇太子が“君”の側にあるものとして浮かび上がる構図となっているように思われる。
(なお、家令職員令においては、三位以上の職事官も奉仕対象となっているが、その職事官は、職員令で規定されている。)
すると、「恒法」とは、大宝律令の根幹部分とでも言うべきものであって、
恒法 ≒ 大宝律令
という図式が成り立つように思われる。
なお、話は変わるが、元慶八年二月廿三日【光孝即位詔】の、
掛畏岐平安宮尓御宇之倭根子天皇我天日嗣高座乃業波。掛畏近江大津宮尓御宇「世」之天皇乃初賜比定賜倍留法奈利。
※ 「世」は、国史大系本の頭注に「世、當衍」とある。
という詔詞も、意味の掴みづらい言葉である。
どう読んでも、“皇位は天智天皇が初めて定めた法である”といった意味にならざるを得ない。
確かに、地位そのものは、即物的なものではなく、人々の共通認識としてある立場であり、概念である。
しかし、それを“法”と呼ぶことがあるだろうか。
しかも、それは、天智天皇が初めて定めたものであるという。
あるいは、そのようなことではなく、星野良作[壬申の乱原因論と「不改常典」法の解釈]が、
単純な「書き誤り」と把握すべきであろう。
と述べているように、誤字・脱字等があって、こうなっているのかも知れない。
三代実録(巻四十四)元慶八年二月四日条の【陽成譲位詔】には、
又皇位波一日母不可曠。一品行式部卿親王波。諸親王中尓貫首尓毛御坐。又前代尓無太子時尓波。如此老德乎立奉之例在。
加以御齡母長給比。御心母正直久慈厚久愼深御坐天。四朝尓佐仕給天政道乎母熟給利。百官人天下公民末天尓謳歌所歸咸無異望。
故是以 天皇璽綬乎奉天。天日繼位尓定奉良久乎。親王等王等臣等百官人天下公民衆聞給部止宣。
※ 文中「一品行式部卿親王」は、光孝天皇。
という譲位の意向が語られているので、これに対応した形の文言になっていた可能性は、十分に考えられる。→補注4
とはいえ、本来の文章は、かくあるべきという具体的な文案が見えているわけでもない。
つまるところ、よく分からないというのが正直なところである。
後記
いわゆる「不改常典」をめぐる研究の積み重ねは、年月と共に尋常な量ではなくなっている。
筆者も、すべての論文に目を通しているとは、とても言えない状況にある。
※
特に、複数の著者によって書かれた論文集に掲載されている論文は、図書館への複写依頼もままならず、入手し辛いものが多い。逆に、入手し易いのは、イン
ターネットに公開されている論文である。例えば、村井康彦「王権の継受」、熊谷公男[即位宣命の論理と「不改常典」法]、大町健[天智の定めた「不改常
典」と「法」]などは、筆者も参考にさせていただいている。
ある程度の論文を読んだ時点で、自分の思い付きを書き留めておくのは、致し方のないところであろう。
ただ、それゆえ、先行する論文を見落としている可能性は、常に考えておかねばならない。
本稿は、あくまでも不完全な備忘録の類である。
内容としても、日本書紀、あるいは、続日本紀等に書かれている文章・言葉の意味を考えてみたものであり、それ以上のものではない。
補注1 「群臣推挙」のその後をめぐる諸説
皇極天皇譲位以降の「群臣推挙」については、廃絶説と存続説があって、見方が分かれている。
例えば、吉村武彦「古代の王位継承と群臣」は、
新帝の即位には本来の手続きとして群臣の推挙のプロ
セスが必要であった。たとえ大兄ないし太子が決定していたにせよ、そうした手続きが踏まえられたと想定される。そして、誕生した新帝によって、あらたに群
臣が任命されるというシステムが存在した。このような王位選定のシステムは、皇極天皇が譲位する大化の改新によって改定される。
と述べて、それ以降は、
王権側の意思によって王位の継承が行なわれていることが『書紀』の記述から判明する。
としている。
この点、熊谷公男『大王から天皇へ』(256頁)も、
いったん譲位が行われると、群臣が新大王を推戴するということは、絶えて行われなくなる。乙巳のクーデターによって、王位継承における王権の主体性は確実につよまったのである。
と述べている。
一方、義江明子「古代女帝論の過去と現在」は、
皇位継承をめぐっては、先帝遺詔と群臣推戴の並存が奈良時代の支配層の共通合意であったらしい。
と述べて、「群臣推戴」が存続したことを説いている。
また、遠藤みどり「七、八世紀皇位継承における譲位の意義」は、
従来、皇極の譲位以降は群臣推挙のシステムはなくなると言われていたが、斉明・天智・天武・の即位に際しても即位儀における群臣からのレガリアの奉上があったと考えるべきである。
とした上で、奈良朝の皇太子擁立の記事を取り上げて、
このような皇太子擁立に際して臣下の同意を得るという行為は、大化前代の群臣推戴の様子とよく似ており、推戴の対象が大王から皇太子へと変化した点にこの時期の群臣関与の特徴が現われている。つまり、八世紀の群臣関与は皇太子選出に際して発現されていたのである。
とも述べている。
さらに、付け加えると、佐藤長門[「不改常典」と群臣推戴]は、
ただそのように考える場合、問題となるのはすべての立太子時に合議が開かれているわけではないということである。
つまり首皇子や某王・阿倍内親王などの立太子時には合議が開かれた形跡はなく、また他戸親王廃太子後の山部親王や早良親王廃太子後の安殿親王などの立太子時にも開催されていない。
この問題の解決策としては、立太子議で討論されたのは次の皇太子を承認することだけでなく、その皇太子が属する王統をも承認すること、つまり今後は皇太子の子孫に王位が継承されていくこともふくまれていたと考えればよいのではないかと思われる。
という見解を示し、別の箇所では、
持統から文武への継承、すなわち「不改常典」にもとづく王位継承の前提には、群臣合議によって文武の立太子が決定された事実があったということである。
そしてこのことは、「不改常典」が王位継承から群臣の関与を排除して、それを天皇の専決行為としたとする見解に対して疑問を呈する一方、皇太子が即位することを定めた規定とみる私見などを傍証するものとなっている。・・・
その後、このような皇嗣を決定するための合議は、大炊王立太子議や白壁王立太子議など王統が途絶えるたびごとに開かれ、しかもそれは平安期にいたっても続いていた。
とも述べて、“王統”が交替する際に、一度、群臣が承認をすると、その“王統”が続く限り、一代ごとの承認は省略されたとする考え方を提示している。
ここで、筆者の感想を少しだけ述べておくと、この佐藤説については、やはり、懐疑的にならざるを得ない。
例えば、白壁王の立太子については、あくまでも称徳天皇の遺詔によって行われたことになっているわけであるから、“王統”が交替する場合であっても、群臣の合議が必須とされていたわけではないように思うのである。
補注2 皇位の継承から群臣の関与を排除するという点について
これは、補注1の佐藤長門[「不改常典」と群臣推戴]の指摘とも関連するのであるが、【元明即位詔】の
関くも威き藤原宮に御宇しし倭根子天皇、丁酉の八月に、此の食国天下の業を、日並所知皇太子の嫡子、今御宇しつる天皇に授け賜ひて、並び坐して此の天下を治め賜ひ諧へ賜ひき。
是は関くも威き近江大津宮に御宇しし大倭根子天皇の、天地と共に長く日月と共に遠く改るましじき常の典と立て賜ひ敷き賜へる法を、受け賜り坐して行ひ賜ふ事と衆受け賜りて、恐み仕へ奉りつらくと詔りたまふ命を衆聞きたまへと宣る。
という文章は、持統から文武への皇位継承は、「不改常典」によって行われたものであると言っているように解される。
その持統から文武への継承に際して、少なくとも懐風藻葛野王伝に見えるような“会議”が開かれたことは確かであろう。
従って、「不改常典」は、群臣の関与を排除していないとする解釈も成り立たないわけではない。
とはいえ、文武への譲位は、群臣の一致した意見と言うよりは、むしろ、持統天皇の切なる願望であって、その意向が反映されたものであった。
ここでは、間違いなく、皇族内部の意思が尊重されており、群臣関与が排除される一歩手前の状態と解することも可能であろう。
そのような転換期に当っていたため、【文武即位詔】の段階では、未だに「不改常典」への言及がなく、条件が整った【元明即位詔】に至って、初めて明言されることになったのだという解釈も可能であろうと思われる。
補注3 仮託説の問題点と天智紀の中に「不改常典」を見出そうとする説
仮託説の問題点については、田中卓「天智天皇の不改常典」が、
最も注意すべき点は、この即位詔に見える「不改常典」が極めて抽象的で、具体的な内容をもたない事実である。・・・若しこれが新しく仮託されたものであれば、慶雲四年当時においても、その具体的意味が判らず、重臣の間において必ずや議論が百出したであらう。
逆に言へば、この天智天皇の「不改常典」が、元明天皇の即位詔の中で重要な意味をもち、期待されるやうな影響をもたらすためには、当時の重臣たちにとつて、既にその内容が周知されてをり、共通の理解が得られてをるところの、明白な天智天皇の御遺訓でなければならない。
そしてそのことを前提としてのみ、初めてこの抽象的な「不改常典」の一句が生きてくるのである。
という指摘をしている。
「不改常典」の内容が「御遺訓」であったか否かは、ともかく、重臣たちに周知のものでなければならないというのは、その通りであろう。
さらには、天智天皇が実際に制定したものとして、天智紀の記事の中に「不改常典」を見出そうとする論考も見られる。
例えば、北山茂夫「壬申の乱」(正確には、その論文に附属する「若干の追記」)は、天智紀十年十一月(二十三日)条の大友皇子以下五大官が「六人心を同じくして、天皇の詔を奉る。若し違ふこと有らば、必ず天罰を被らむ・・・」と誓約した記事を取り上げて、
大友皇子と五大官が誓盟を交わしているのは、「天皇の詔」を遵奉するためである。天皇の詔の内容については何も書かれていない。しかし、問題はその點にあるように、わたくしには思われてならない。
端的にいえば、この「天皇の詔」こそ皇位継承の事を規定したものではなかったであろうか。そして、そのなかで、天皇は皇位の継承は嫡系によるべきことを主張していたのではなかったか。
という推論を展開している。
これとは別に、寺西貞弘「古代皇位継承論再説」は、
天智朝にその根拠をもとめるならば、天智十年十月十七日庚辰条に、臨終の天智天皇が天武天皇を引き入れて、「詔曰、朕疾甚、以後事属汝」と述べた記事が非常に重要なものとなるであろう。
と述べて、
私は「不改常典」を天智十年十月十七日庚辰条に根拠をもつ禅譲・受禅の契約であったと考える。
と結論付けている。
いずれの説も、成文法ではなく、天智天皇の口宣の内容をもって「不改常典」に当てている。
補注4 【陽成譲位詔】の全文と解釈
本文では、該当する部分のみを掲出しておいたが、全文は、次のとおりである。
現神止大八洲御宇日本根子天皇加御命良万止宣御命乎。親王等王等臣等百官人天下公民衆聞給止宣。
食國乃政乎永遠聞食倍喜乎。御病時々發己止有天。万機滞己止久成奴。天神地祇之祭乎毛闕怠己止有奈牟加止。
危美畏利念保之天。天皇位乎讓遜給天。別宮尓遷御坐奴止宣御命乎。親王等大臣等聞給部。
承給天。恐美畏母國典尓准天。太上天皇之尊號乎進留。又皇位波一日母不可曠。一品行式部卿親王波。諸親王中尓貫首尓毛御坐。
又前代尓無太子時尓波。如此老德乎立奉之例在。加以御齡母長給比。御心母正直久慈厚久愼深御坐天。四朝尓佐仕給天政道乎母熟給利。
百官人天下公民末天尓謳歌所歸咸無異望。故是以 天皇璽綬乎奉天。天日繼位尓定奉良久乎。親王等王等臣等百官人天下公民衆聞給部止宣。
途中で主語が転換するなど、難解な文章であるが、「又皇位波」以下の文章は、素直に読む限り、陽成天皇が譲位の意思を表明しているように見える。
ただし、この天皇については、自ら譲位したのではなく、退位させられたのだとする説が有力であり、例えば、河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』(第六章)は、上記詔文を詳細に検討したうえで、
次の天皇に光孝を指名した、この行為の主体は誰なのであろうか。・・・行為の主体は「親王等大臣等」であるとみなすことが最も妥当であろう。
と解している。
確かに、実態としては、そのとおりであったのかも知れないが、正史の文章としては、あくまでも、陽成天皇の譲位を物語っているように思われる。
それゆえ、【光孝即位詔】の文言も、表面的には、受禅を前提とした文章になっていたはずである。
現在、見ることのできる詔文は、
明神止大八洲國所知須天皇我詔旨良万止宣不勅乎。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食止宣。
掛畏岐平安宮尓御宇之倭根子天皇我天日嗣高座乃業波。掛畏近江大津宮尓御宇「世」之天皇乃初賜比定賜倍留法奈利。
朕以薄德天忝久百辟卿士乃樂推之請尓當天恐美懼利。進母不知尓退母不知尓恐美坐久止宣 天皇勅乎衆聞食止宣。
※ 「世」は、国史大系本の頭注に「世、當衍」とある。
とあって、「百辟卿士乃樂推之請」が目に付く文章となっているが、本来は、その前段で、皇位は天智天皇の定めた「法」によって継承されるものであるといった趣旨の文言が語られていたのではないだろうか。
なお、この即位詔は、三代実録(巻四十五)元慶八年二月四日条の
太上天皇遷御二條院。遜皇帝位焉。
于時 天皇在東二條宮。親王公卿奉天子璽綬神鏡寶剱等。 天皇再三辭讓。曾不肯受。二品行兵部卿本康親王起座跪奏言。
暦數攸在。謳歌是歸。昔者漢文三讓雖高。猶當大横之繇。遂應代邸之迎。伏願 陛下在此樂推。幸聽於群臣矣。是夜。親王公卿侍宿於行在所。
※ 蛇足ながら、本康親王の奏言に見える「漢文」とは、漢の文帝のことである。(奏言では、文帝即位の際の故事が引かれている。)
という記事と照応しているように思われる。
それは、「樂推」(喜んで支持する)という言葉が共通して使われていることからしても明らかであろう。
両者ともに、譲位のことと群臣推戴のことを内容とする二本立ての構成になっているように見える。
敢えて言えば、表向きの譲位と実際の群臣推戴を併記したということになろうか。
参考文献
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井上光貞『日本古代の王権と祭祀』(東京大学出版会、1984年)
日本古典文学大系『懐風藻・文華秀麗集・本朝文粹』(岩波書店、昭和39年)
遠藤みどり[持統譲位記事の「定策禁中」について](『日本古代の女帝と譲位』、塙書房、2015年、所収。)
倉住靖彦「いわゆる不改常典について」(『九州歴史資料館研究論集』1集、1975年)
新訂増補國史大系『日本紀略 前篇』(吉川弘文館、2007年、オンデマンド版)
田中卓「天智天皇の不改常典」(同著『律令制の諸問題』、国書刊行会、昭和61年、所収。)
長山泰孝「不改常典の再検討」(同著『古代国家と王権』、吉川弘文館、平成4年、所収。)
星野良作[壬申の乱原因論と「不改常典」法の解釈](同著『壬申の乱研究の展開』、吉川弘文館、平成9年、所収。)
村井康彦「王権の継受:不改常典をめぐって」(『日本研究:国際日本文化研究センター紀要』1、1989年、Web版)
熊谷公男[即位宣命の論理と「不改常典」法](『東北学院大学論集・歴史と文化』45、2010年、Web版)
大町健[天智の定めた「不改常典」と「法」](『成蹊大学経済学部論集』47巻2号、2016年、Web版)
吉村武彦「古代の王位継承と群臣」(同著『日本古代の社会と国家』、岩波書店、1996年、所収。)
熊谷公男『日本の歴史03 大王から天皇へ』(講談社、2001年)
義江明子「古代女帝論の過去と現在」(同著『日本古代女帝論』、塙書房、2017年、所収。)
遠藤みどり「七、八世紀皇位継承における譲位の意義」(『日本古代の女帝と譲位』、塙書房、2015年、所収。)
佐藤長門[「不改常典」と群臣推戴](同著『日本古代王権の構造と展開』、吉川弘文館、2009年、所収。)
北山茂夫「壬申の乱」(同著『日本古代政治史の研究』、岩波書店、昭和34年、所収。)
寺西貞弘「古代皇位継承論再説」(同著『古代天皇制史論:皇位継承と天武朝の皇室』、創元社、1988年、所収。)
河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、昭和61年)