鉄剣銘についての覚え書き




 緒言

 鉄剣銘と言うだけで、誰もが埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文を思い浮かべるのではないだろうか。(現在、“鉄剣”という呼び方が一般的になっているが、銘文中には「此百練利刀」とある。このような点からすれば、田中卓「稲荷山古墳出土の刀銘について」などの言うように“鉄刀”と呼ぶのが本来のあり方かも知れない。)
 この銘文が発見されて以来、多くの論考が発表されて来たことは、周知のとおりである。
 筆者も、これまでに、いくつかの論考を読む機会があった。
 その際、銘文の作者や読みなど、いささか思いつくところがなかったわけではない。
 頭の片隅に浮かんでは消える断片的なものが少しばかり溜まっていた。
 取りとめのない推論ではあるが、忘れないうちに書き留めておく次第である。
 なお、出発点となる原文についてであるが、埼玉県教育委員会編『稲荷山古墳出土鉄剣金象嵌銘概報』に見える

 (表)
 辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
 (裏)
 其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

という解読を基本として考えてみることにしたい。
 上記『概報』では、この百十五文字を

 辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。
 其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

と訓読しているが、これが断案というわけではない。
 例えば、宮崎市定『謎の七支刀』は、「左治」の上の「吾」を「為」と読むなどして、

 辛亥の年の七月中、記ノ乎獲居の臣。上祖は名は意富比垝。其の児の名は加利足尼。其の児の名は弖巳加利獲居。其の児の名は多加披次獲居。其の児の名は多沙鬼獲居。其の児の名は半弖比。(以上表面)
 其の児の名は加差披。余は其の児にして名は乎獲居臣。世々杖刀人の首と為り、奉事し来りて、今の獲加多支鹵大王に至る。侍して斯鬼の宮に在りし時、天下を治むるを佐けんが為に、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記せしむる也。(以上裏面)

と訓読している。
 その他、「臣」を「直」と判読する説など異説は少なくないが、文章全体の流れを見た場合、両者の訓読が代表的なものであり、他の訓読も、おおむね、この両者の振れ幅の中に納まっているように思われる。(一方で、この両説から大きく逸脱した訓読は、奇抜なものと評さざるを得ないであろう。)
 どの訓読を採用すべきか。
 筆者も定見を得るまでには至っておらず、取りあえずは、『概報』の読みに従っておきたいと思う。
 ※ 本稿で取り上げた史料等は、文末の参考文献に一括して掲げておいた。なお、引用にあたっては、字体を再現できず、別の字体に置き換えるなどしたものがある。



 推論 1 銘文の作者

 第1節

 銘文の原案を作成したのは、乎獲居臣本人と考えて間違いあるまい。(特に、八代に渉る系譜の記録を思い立ったのは、乎獲居臣自身であろう。)
 乎獲居臣は、生来、日本語を話していたと思われ、原案も日本語で構想されたはずである。
 その原案を漢文に転換して、今見る形に仕上げた人物は誰であったのか。
 常識的には、漢文の専門家が別にいて、乎獲居臣の依頼を受けて作文したようにも思えるのだが、もしかすると、乎獲居臣本人が作成したのではないかというのが筆者の思いつきである。
 このことは、鉄剣銘の読みとして、取りあえず『概報』の読みに従ったこととも微妙に関連している。
 『概報』の読みの問題点は、漢文としては、“拙い”文章になるというところであった。
 具体的には、重複する語の存在である。

 ・「記」の重複 = 「辛亥の年七月中、す。・・・吾が奉事の根原をす也。」

 ・「吾」の重複 = 「、天下を左治し、・・・が奉事の根原を記す也。」

 上記『謎の七支刀』を見ると、

 もし、この文章が純粋の漢文の語法で書かれたものならば、同一文字の重複はきわめて拙いことになる・・・漢文では無用の重複を嫌い、文章を一字でも短く書こうと努力する・・・

などと述べて、短い文章の中で語が重複するのは修辞的に拙いことであると指摘している。
 この点、『謎の七支刀』では、「記ノ乎獲居の臣」と訓んだり、「左治」の上の「吾」を「為」と判読するなどして、重複を回避しているわけであるが、このような訓読・判読の是非は、いずれとも判断しかねるところである。
 そこで、取りあえず『概報』の読みに従ってみたのであるが、しからば、“拙い”漢文は、どのように説明するのか。
 その疑問に、“銘文の作者が「乎獲居臣」本人であったから”と答えてみたいのである。
 この場合、乎獲居臣は、漢文の読み書きができたものの、その習熟度は、今一歩であったことになる。
 実際に、このような想定が可能な状況にあったのかどうか。
 雄略朝の頃に漢字がどの程度普及していたのかを考えた場合、すぐに思い浮かぶのは、宋書倭国伝の

 封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處、東征毛人、五十五國、西服衆夷、六十六國、渡平海北、九十五國、王道融泰、廓土遐畿、・・・

という国書である。
 これは、中国正史にも特筆されるだけの名文と言って良いのであろう。
 雄略朝の頃には、このような漢文を書くことのできる人材が日本国内にも存在していたことが想定できる。(ただし、上記国書のような漢文を書けるのは、いわゆる帰化人と呼ばれるような一部の人々に限られていたに違いない。)
 そもそも、漢書地理志に、

 樂浪海中有倭人、分為百餘國、以歳時來獻見云。

と記された頃から中国との接触は始まっていたのであり、時間の経過とともに、識字層が次第に増加していったと考える方が自然であろう。
 五世紀の後半ともなれば、初歩的な知識を持った人々が広範に存在していたとしても、さほど不思議なことではあるまい。
 例えば、日本書紀応神天皇十六年二月条には、

 王仁來り。則ち太子菟道稚郎子、師としたまふ。諸の典籍を王仁に習ひたまふ。通り達らずといふこと莫し。所謂王仁は、是書首等の始祖なり。

とあり、古事記応神天皇段にも、ほぼ同じことを述べた、

 又百濟國に、「若し賢しき人有らば貢上れ。」と科せ賜ひき。故、命を受けて貢上れる人和邇吉師。即ち論語十巻、千字文一巻、并せて十一巻を是の人に付けて即ち貢進りき。此の和邇吉師は文首等の祖。

という一文がある。
 さらに、藤氏家伝(上)にも、

 甞群公子咸集于旻法師之堂、講周易焉、

といった記述があるように、知識人の来朝とそれに師事して学ぶ皇族・豪族の子弟の様子が、しばしば描かれている。
 これらの記事の真偽は、別途考えてみる必要があるにしても、おそらく、これらと同様のことが実際に生起したであろうことが推測されるのである。
 こうしてみると、獲加多支鹵大王に近侍していた乎獲居臣が、ある程度、漢字の読み書きに通じていたという想定は、成立する余地があるように思われる。
 むしろ、読み書きができたがゆえに、佩刀に銘文を刻むことを思い立ったのであろう。

 第2節

 ところで、銘文の作者を考えるうえで無視できないのは、江田船山古墳出土大刀銘に見える「書者張安」である。
 この銘文の判読についても、諸説があることは、周知のとおりであるが、ここでは、ひとまず、東京国立博物館編『江田船山古墳出土国宝銀象嵌銘大刀』に見える、

 (治)天下獲□□□鹵大王世,奉事典曹人名无□(利カ)弖,八月中,用大鐵釜,并四尺廷刀,八十練,□(九カ)十振,三寸上好□(利カ)刀,服此刀者,長壽,子孫洋々,得□恩也,不失其所統,作刀者名伊太□(和カ),書者張安也 ※原文( )内の文字はルビ。

という釈文に従っておくこととする。
 さて、この銘文に見える「書者」とは、いったい何者であったのか。
 銘文を作成した人物ということであれば、やはり、その道の専門家がいて作文をしていたことになろうが、そうではなく、刀身に文字を刻み付けた人物(あるいは、その下書きを墨書した人物)とすれば、銘文の作者は、別に存在した可能性が出てくる。
 いずれを是とすべきか。
 ここで、あらためて銘文を見てみると、「八十練」という文言が注目される。
 例えば、上記『謎の七支刀』にも、

 他の金文にはしばしば百練という言葉が出てくるが、それを減らして八十練というのは、いかにも日本的な表現である。

という指摘がなされている。
 稲荷山鉄剣銘にも「百練」とある中で、わざわざ「八十練」という表現を採用したのは、八という数字に大数の意を込めた日本風の表現と解するべきであろう。
 仮に、銘文の作者が張安であったとしてみよう。
 この時、自ら「張安」と名乗った人物が「八十練」という表現を採用するであろうか。
 漢文の専門家であれば、当然、「百練」と書くべきところであるに違いない。
 やはり、銘文の作者は、日本で生まれ育った人物のように思えてくる。
 その点で、江田船山古墳出土大刀銘の作者も、无利弖本人である可能性が考えられる。
 また、こちらの銘文中には、「典曹人」という言葉が見える。
 例えば、直木孝次郎「古代ヤマト政権と鉄剣銘」が、

 典曹人の職掌は何であろうか。典には「ふみ」または「つかさど る」の意がある。前者とすれば、典曹人は「ふみの役所の人」、後者とすれば、「役所をつかさどる人」と解される。どちらにしても、典曹人はヤマト政権に文 官として仕えたものであろう。杖刀人がのちの舎人(ただし令制前)の前身であるなら、典曹人は文人ふひと=史の前身であるかもしれない。※原文“ふひと”はルビ。

と述べているように、「典曹人」が“文官”を意味する言葉であったとすると、无利弖も、また、漢文の知識を持っていたと考えた方が自然である。
 乎獲居臣の場合と同様に、銘文を作成した可能性は否定できないであろう。
 もし、そうだとすれば、「書者」は、文字を刻みつけた(あるいは墨書した)人物ということになる。
 文中に並記されている「作刀者」が刀身を鍛造した職人と見られるのと同様に、「書者」も、また、文字を物理的に書き付ける職人であったのだろう。
 おそらく、伊太和や張安は、当時、一流の職人であり、彼らの名前を掲出することによって、この大刀が一級品であることを強調したかったのだと考えておきたい。



 推論 2 銘文の読み

 第1節

 銘文の作者自身は、この銘文をどのように読んでいたのであろうか。
 文章があくまでも漢文であるということからすると、すべて音読したようにも考えられるが、個々の文言を考えてみると、本当にそうであったのかどうか、疑問なしとしない。
 例えば、「斯鬼宮」は、何と読んだのか。
 漢文としては、シキクウなどと読むことになろう。
 このうち、「斯鬼」は、シキという音読以外に考えられないが、問題は、「宮」である。
 銘文の原案、あるいは作文の際、作者の脳裡には、シキノミヤという日本語が最初にあって、これに「斯鬼宮」という漢字を当てるという作業が行われたはずである。
 してみると、この場合の「宮」は、あくまでもクウなどと読んだのか、それとも、本来の日本語に引きずられてミヤと読んだのか、微妙なところではないだろうか。
 直前にシキという日本語がある以上、それに続く「宮」もミヤと訓みたくなるのが人情である。
 もう少し、一般的な言い方をすると、日本語の固有名詞に続く漢語の一般名詞は、早くから訓読される場合があったのではないだろうか。
 類例としては、「乎獲居臣」や「獲加多支鹵大王」があげられる。
 これらの場合も、「臣」や「大王」は、直前の人名に引きずられて、オミやオホキミと読まれたのではなかろうか。
 やや時代が降って、六世紀前半に作成されたと考えられる岡田山1号墳出土の大刀には、「各田卩臣」(額田部臣)と判読可能な文字があり、ヌカタベノオミと訓読するのが人々の一致した見方である。(『国史大辞典』など参照。)
 この頃になると、ヌカタという固有名詞部分にも「額田」という訓読文字が用いられている。
 稲荷山鉄剣の場合、未だ、このような固有名詞に係る訓読を見ることはできないが、その前段階として、「宮」などの一般名詞を訓読する風習が始まっていたとしても不思議ではあるまい。

 第2節

 「臣」という文字については、これを音読していたと解する説が少なくない。
 例えば、沖森卓也『日本語の誕生』を見ると、

 この銘文は漢文体そのものであって、固有名すなわち日本語だけを音仮名で表記したものと考えられる。それは、訓が未成立の段階であったことを示すものであろう。

という見通しが述べられていて、「臣」は、臣下を意味する漢語として捉えられている。
 ただ、その場合、問題となるのは、「臣」という文字の位置関係である。
 上記『日本語の誕生』にも、

 ただし、このような「臣」は一般的に上表文などでは「臣安万侶言」(『古事記』序)のように名の上に「臣」があるべきものであるから、これは変則的な位置にあることは事実であるが、・・・

とあるように、漢文であれば、「臣乎獲居」と書くべきところである。
 そこで、銘文の構想の段階に遡って、日本語の原案を想像してみることにしたい。
 作者の脳裡にヲワケ・シンという変則的な和漢混交の言葉が存在したであろうか。
 日本語としては、ヲワケノオミとあった方が、はるかに自然である。
 先ほどの「各田卩臣」の場合も、明らかにオミである。
 若干、時代を遡る五世紀後半に、すでに、オミという言葉があったとしても、何ら支障はあるまい。
 やはり、「臣」は、オミと訓まれて、個人名に添えられた身分呼称(称号・カバネの類)であったのではないだろうか。
 ついでながら、銘文の系譜部分に見える「比垝」、「足尼」、「獲居」は、それぞれ音読されて、ヒコ、スクネ、ワケと読まれている。
 これらは、漢文の中で音読されているという点において、固有名詞(人名)に含まれるものと考えた方が良さそうである。(特に「乎獲居」のワケについては、吉田晶「稲荷山古墳出土鉄剣銘に関する一考察」などでも、「ヲワケのばあいは人名そのものであって称号の意味を認めがたい。」という指摘がなされている。)
 訓読が想定される「臣」とは、一線を画していると言えよう。
 すなわち、「比垝」、「足尼」、「獲居」は、身分呼称と言うよりは、個人名を構成する要素(美称)と見た方が自然である。
 そう考えた時、系譜における

 ヒコ → スクネ → ワケ

という出現の順番は、人名の流行という観点から説明し得るであろう。
 ※ 「大王」についても一言触れておくと、これは、ワカタケルダイワウと読んでも、さほど違和感がない。この場合は、現代人である我々がダイオウという読みに慣れているだけであって、銘文作者の脳裡には、やはり、オホキミという日本語が浮かんでいたように思われる。

 第3節

 日本語の原案を想定してみると、「杖刀人」という文言についても、その読み方が気になるところである。
 漢字で「杖刀人」と表記された人々は、同時代の日本人から、ジョウトウジンと呼ばれていたであろうか。
 それよりは、別の日本語で呼ばれていた可能性の方が大きいように思われる。
 銘文の作者も、“別の日本語”を脳裡に浮かべながら、それに「杖刀人」という漢字を当てたものと想定される。
 その日本語についてであるが、『シンポジウム鉄剣の謎と古代日本』の中で井上光貞は、

 これは、ぼくの解釈なんだけど、「杖刀人」というのは、刀を持っ て、そして中央に行って、中央で宮居を守護するのだと、こういうふうに思うのです。だから、大野君が「タチハキ」と読んだのは非常に正確でね、西嶋さん は、杖刀とは「刀をつく」って言われ、実際ぼくも、そうだろうと思うけれど、ただ日本語としては、やっぱり帯刀(たちはき)と考えたほうがいい。第一、授刀舎人というのは「タチハキの舎人」と言うんだよ。※原文( )内の文字はルビ。

という発言をしている。
 大野晋や井上光貞は、タチハキと解していることが分かる。
 一方で、佐伯有清「丈部氏および丈部の研究」は、

 丈部は、大化改新前を溯る古い時代に、大王に近侍して、杖を手に して宮廷の警護にあたり、また内廷での雑使に任じていたのに加えて、大王の命令を地方の豪族に伝達する使者としての任もあったのであろう。・・・杖刀人な る職掌は、おそらく丈部(杖部)の前身であり、また丈部の後身が、令制の駈使丁ではなく、使部であったとするのが、本稿での結論となる。

と述べて、杖刀人と丈部との関連を指摘している。
 この場合、その読みは、ハセツカヒとなるのであろう。
 いずれの読みを是とすべきか。
 乎獲居臣を銘文の作者と考える立場からすると、注目されるのは、「杖刀人」の職掌に使者の役割もあったとするハセツカヒ説である。
 使者が口上を述べる場面を想像してみよう。
 伝達すべき言葉を丸暗記して口述する場合と、何かしらのメモをたよりに口述する場合と、どちらが容易であったのか。
 それは、やはり、後者の方が、はるかに容易であったと考えられる。
 例えば、木簡のようなものに漢字でメモを書くことができれば、使者としては、大いに助かったはずである。
 つまるところ、「杖刀人」に使者の役割があった場合、乎獲居臣には、漢字を習得する動機があったことになる。
 そのような点で、筆者としては、「杖刀人」をハセツカヒと読む説に魅力を感じている。
 なお、使者という点では、「臣」が「使主」と表記される場合があることも注意を引くところである。
 例えば、記紀の中では、

 ・ 圓大臣 (雄略即位前紀)
 ・ 圓大使主 (履中紀二年十月)
 ※ このほか、「都夫良意富美」(安康記、雄略記)、あるいは「都夫良意美」(安康記)と表記される場合もある。

 ・ 根臣 (安康記、雄略即位前紀分注)
 ・ 根使主 (安康紀元年二月、雄略紀十四年四月)

などの例が見える。
 これらは、オミという日本語の意味内容が、「臣」あるいは「使主」という漢字の意味するところと重なり合っていることを物語るものであろう。
 上に例示した根臣も、古事記安康天皇段に、

 天皇、伊呂弟大長谷王子の爲に、坂本臣等の祖、根臣を、大日下王の許に遣はして、詔らしめたまひしく、「汝命の妹、若日下王を、大長谷王子に婚はせむと欲ふ。故、貢るべし。」とのらしめたまひき。

とあるように、大長谷王子の婚姻に係る使者として派遣されている。
 考えてみれば、使者は、必要に応じて派遣されるものであり、その時々に、伝達すべき内容によって、適任と判断された人物が選ばれたことであろう。
 重要な案件の使者には、それなりの身分の豪族が派遣されたと考えられる。(そうしてみると、有力豪族の間でも漢字を習得しようとする動きは、自然と発生していたように想定される。)
 この点、ハセツカヒの場合は、その語感からして、比較的軽微な内容の伝達に当たっていたように想像されるのである。

 第4節

 ところで、「杖刀人」の訓みがハセツカヒであったとしても、タチハキであったとしても、いずれにせよ、「杖」、「刀」、「人」という個々の漢字の訓みとは、ほとんど一致しないこととなる。(かろうじて「刀」とタチが微妙に対応していると言い得る程度である。)
 古事記の序文には、

 亦姓に於きて日下を玖沙訶と謂ひ、名に於きて帶の字を多羅斯と謂ふ、此くの如き類は、本の随に改めず。

という一節があるが、「杖刀人」も、これらと同様の特殊な訓みということになろう。
 その特殊な訓み、あるいは、元の日本語に変則的な漢字を当てた原因は、どの辺にあったのか。
 ここで、唐突ではあるが、乙巳の変の際の国書朗読の場面を考えてみたい。
 日本書紀皇極天皇四年六月(十二日)条には、

 天皇大極殿に御す。古人大兄侍り。中臣鎌子連、蘇我入鹿臣の人と爲り、疑多くして、晝夜劍持けることを知りて、俳優に教へて、方便りて解かしむ。入鹿臣、咲ひて劍を解く。入りて座に侍り。倉山田麻呂臣、進みて三韓の表文を讀み唱ぐ。・・・

と記述されている。
 この時、倉山田麻呂は、上表文を何語で朗読したのであろうか。
 「三韓の表文」を読み上げたのであるから、当然、漢文を音読したのだという解釈も成り立つであろう。
 ただ、その際、天皇をはじめ、列席していた人々がその音読を聞いて、文意を理解できたであろうか。
 もし、実際に理解できたとすれば、当時の朝廷においては、翻訳なしで漢文が通用していたことになってしまう。
 そうすると、いわゆる帰化人などの活躍する場がなくなってしまうのではないだろうか。
 あるいは、現代の仏事の際の読経のように、意味不明のまま黙って聞いていたのかも知れない。
 しかし、宗教的な功徳が期待できる読経と違って、国書の朗読は、全くの世俗的な行為である。
 こうして考えてみると、国書は、漢文で書かれていたとしても、それを朗読する際には、日本語に翻訳して読み上げられたのではないかと考えられてくる。
 倉山田麻呂は、あらかじめ日本語訳を記憶したうえで、漢文をたよりにしながら、それに対応する日本語訳を思い出し、口述するといった作業を行っていたのではあるまいか。
 もしかすると、漢文の一節と日本語訳を交互に読み上げ・口述していたのかも知れない。
 このような翻訳が行われた場合、逐語訳をする箇所もあれば、意訳を行う箇所もあったに違いない。
 その意訳の際には、個々の字義にとらわれない自由な翻訳も行われたことであろう。
 こういった環境の中で、特殊な訓みも発生したのではないかと推測されるのである。

 第5節

 日本人が漢文の意味を理解するということは、つまるところ、漢文を日本語に翻訳して理解するということであろう。(そもそも、漢文を読めない日本人に対して、その文意を説明しようとすれば、おのずと日本語訳をせざるを得なかったはずである。)
 漢文の受容と同時に、翻訳は始まっていたと考えられる。
 このような翻訳と漢文の訓読とは、紙一重の行為と言ってよかろう。
 漢文の翻訳にあたっては、当初、“ゆれ”が存在したに違いない。
 例えば、「山」という漢字を日本語で表現する場合、ヤマ・タケ・ミネなど、いくつかの候補があったはずである。
 人々が選択を繰り返す中で、ヤマという言葉が選ばれる傾向が強くなると、やがて、ヤマという訓が成立することとなる。
 雄略朝の頃に、どの程度、訓が定まっていたかは不明であるが、すでに翻訳が行われていた以上、特定の漢字と日本語との間に一定の結び付きが発生し始めていたことは確かであろう。
 その一方で、日本語に置き換えることが困難な漢語は、音読して、そのまま理解しようとする動きも見られたに違いない。
 例えば、「辛亥」などの干支紀年は、そのまま、外来語として日本語の中に取り込まれたのではないだろうか。
 カノト・ヰという日本語の読みは、遅れて発生したもののように推測される。

 余談 「寺」について

 『概報』の訓読に従った場合、「寺」という文字は、どこか落ち着きが悪いように感じられる。
 先に引用したとおり、『概報』では、この文字の前後を

 世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時

と訓み、注釈の中で、

 「寺」は説文解字に「寺、廷也」とあるように朝廷の意と解され る。「寺」を「侍」の略体と解する説があるが、銘文の文体には和文化が」みとめられず、漢文体の文章と考えられること、銘文のとくに後半は、五字と七字で 切れる句で構成されていることなどから、寺(じ)とよみ、上記の意に解した。

と述べている。
 この注釈では、「寺」をジと音読しているが、銘文に日本語の原案があったとすると、「寺」に相当する言葉も別にあったと考えた方が自然である。
 作者の脳裡には、ツカサドコロなどとあったのであろうか。(上記『シンポジウム鉄剣の謎と古代日本』の西嶋定生の発言の中に、「司所(つかさどころ)」という読みが見える。)
 あるいは、もっと別の言葉が使われていたのかも知れないが、今のところ、これといったものは思い浮かんでこない。
 それはさておき、文章として見た場合、この一文は、「寺」を抜いて「ワカタケルの大王、シキの宮に在る時」とあった方がスッキリするように思われる。(例えば『謎の七支刀』が「なにも事事しく政庁と宮殿と両者を列挙する必要はないはずだ。」と述べているように、「寺」と「宮」の並記には、重複感が残る。)
 この部分については、『謎の七支刀』のように、

 世々杖刀人の首と為り、奉事し来りて、今の獲加多支鹵大王に至る。侍して斯鬼の宮に在りし時

と訓む方が良いのかも知れない。
 ただ、『概報』の「五字と七字で切れる句で構成されている」という指摘にも一理あって、いずれとも決めかねるというのが正直なところである。



 推論 3 作刀の目的

 第1節

 乎獲居臣は、なぜ、このような銘文入りの鉄剣の製作を思い立ったのか。
 上記『謎の七支刀』のように読む場合は、「天下を治むるを佐けんが為に」ということで、銘文の中にその答えが出ているのだか、『概報』のごとくに読んだ場合は、その点が明確ではなくなる。
 もちろん、この場合も、「天下を治むるを佐けんが為に」と解釈して悪くはないのだが、文脈を異にする中で、別の解釈があっても良いように思われる。
 あらためて、銘文の内容を概観してみると、そこには、乎獲居臣の出自と経歴が述べられている。
 現代風に言えば、戸籍と履歴書を併せたような文章である。
 人生において、このような書類が必要とされるのは、どのような場面であろうか。
 ひとつ、思い当たるのは、婚姻である。
 今でも、お見合いをすれば、家柄や職業が問われることになるであろう。
 乎獲居臣にも、同様のことがあったのではないだろうか。
 もし、そうだとすれば、婚姻の様相は、いかなるものであったのか。
 銘文に書かれた内容から想像すると、次のような推理が成り立つように思われる。

 (1) 意富比垝の子孫であることが強調されており、乎獲居臣が中央豪族の一員であったことを示唆しているように見える。(意富比垝とは、阿倍氏等の祖、大彦命のことであろう。)

 (2) 杖刀人首は、中・下級官人であろうと思われ、乎獲居臣は、中央豪族とはいっても、傍系の一族であったと考えるのが自然である。(この点については、「皇祖等之騰極次第の注釈的研究」という拙論の中でも触れたことがある。)

 また、鉄剣の出土状況から推理すると、次のようなことも考えられる。

 (3) 乎獲居臣は、稲荷山古墳の被葬者であり、関東地方で一生を終えたと考えるのが自然である。

 以上のような三つの想定を満たす婚姻を考えると、乎獲居臣は、関東の豪族の娘婿になったのではないかと想像されてくる。
 一夫多妻制の時代であっても、男子の跡継ぎに恵まれない場合があることは、聖武天皇における孝謙天皇への譲位などを見れば明らかである。
 関東の豪族においても、同様の事態が生起した可能性は、十分に考えられる。
 ただ、一夫多妻制のもとでは、複数の男子に恵まれるのが普通である。
 その複数の男子が、さらに、世代を累ねて婚姻を繰り返すと、子孫の数は、鼠算式に増えて行くこととなる。
 いかに有力な中央豪族といえども、一族の数が次第に増えて行くと、扶養しきれなくなる親族が出てくるのは、自然の成り行きである。
 乎獲居臣の場合も、若くして「杖刀人首」となったものの、そこから先の展望が開けず、地方に活路を見出すことは、あり得ない話ではない。(平安時代における源氏や平家の地方土着も、同じような背景があったように思われる。)
 地方豪族にしても、中央豪族と姻戚関係を結ぶことは、決して損なことではあるまい。(地域内で抗争があった場合など、中央豪族との結び付きは、有利に働いたはずである。)
 両者の利害が合致して、婚姻が成立した可能性は、否定できないであろう。
 もし、上記のような推測が当たっていた場合、関東への下向にあたって、自らの血統と経歴を誇る銘文を佩刀に刻んだとすれば、作刀の経緯として、いかにも相応しい説明となる。

 第2節

 稲荷山鉄剣に上記のような経緯があったとして、江田船山古墳出土大刀の場合は、いかなる動機があったのであろうか。
 こちらの銘文は、判読不能な文字も多く、訓読も不確実な部分が多いのが現状である。
 とはいえ、その内容については、おおよその見当をつけることができる。
 それは、他の金石文にもよく見られる吉祥句を主体としたものと言えよう。
 確かに、冒頭には、「治天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无利弖」と読める部分があり、无利弖の経歴が述べられている。
 しかし、それは、稲荷山鉄剣銘と比較すると、あっさりしたものであり、その後に続く鍛造の様子や吉祥句の方に多くの文言が費やされている。
 おそらく、この大刀の製作にあたっては、招福や厄除けの願いが込められていたであろう。
 ただ、簡単な経歴が記されていることからすると、記念品としての意味合いもあったかも知れない。
 ここで、无利弖に係る内容を再度確認すると次のようになる。

 (1) 无利弖は、典曹人(フヒト?)として雄略天皇の朝廷に出仕していたと読み取れる。

 また、大刀の出土状況からすると、次のようなことも考えられる。

 (2) 无利弖は、江田船山古墳の被葬者であり、九州地方で一生を終えたと考えるのが自然である。

 以上のような二点を合理的に説明しようとすると、多くの人が言うように次のような想定にならざるを得ない。

 ・无利弖は、九州地方の豪族の子弟であり、若い頃に典曹人として雄略天皇の朝廷に出仕した。

 ・その後、おそらく族長位を継ぐために故郷へ帰還した。

 无利弖が、帰郷に際して、記念にこの大刀を製作したのだとすれば、非常に分かり易い説明となる。
 地方豪族が中央へ出仕していた類例としては、筑紫国造磐井のことなどが思い浮かぶであろう。
 日本書紀継体天皇二十一年六月条には、筑紫国造磐井が近江毛野臣に対して、

 今こそ使者たれ、昔は吾が伴として、肩摩り肘觸りつつ共器にして同食ひき。・・・

と揚言したことが記されている。
 この言葉からも、国造の子弟が若い頃に中央へ出仕していたことが窺われるのである。
 また、時代は降るが、正倉院文書「他田日奉部神護解」にも、

 神護仕奉状、故兵部卿從三位藤原卿位分資人、始養老二年至神亀五年十一年、中宮舎人、始天平元年至今廿年、合卅一歳、是以祖父父兄良我仕奉祁留在故、海上郡大領司仕奉申、

という文章があって、中央に(三十一年間)出仕していた地方豪族の子弟が故郷の郡大領への補任を申請したことが読み取れる。
 その後の動静は不明であるが、おそらく申請のままに認められ、帰郷したのであろう。

 付記 傍系の人々

 即位前の継体天皇は、近江、または、越前(三国)に居住していたように伝えられている。
 古事記武烈天皇段には、

 品太天皇の五世の孫、袁本杼命を近淡海國より上り坐さしめて、手白髪命に合せて、天の下を授け奉りき。

とあり、日本書紀継体天皇元年正月条には、

 大伴金村大連、更籌議りて曰はく、「男大迹王、性慈仁ありて孝順 ふ。天緒承へつべし。冀はくは慇懃に勸進りて、帝業を紹隆えしめよ」といふ。物部麁鹿火大連・巨勢男人大臣等、僉曰はく、「枝孫を妙しく簡ぶに、賢者は唯 し男大迹王ならくのみ」といふ。丙寅に、臣連等を遣して、節を持ちて法駕を備へて、三國に迎へ奉る。

とある。
 また、継体天皇即位前紀には、倭彦王という別の皇族の動向について述べた、

 今足仲彦天皇の五世の孫倭彦王、丹波国の桑田郡に在す。

という一節も見られる。
 傍系の皇族も、また、地方に活路を見出していたのであろう。
 上記の例からすると、傍系皇族は、地方にあっても、なお、皇族の身分を保持していたように見える。
 この点、傍系の中央豪族と目される乎獲居臣は、いかなる処遇を受けたであろうか。
 乎獲居臣が稲荷山古墳の被葬者であったとすれば、おそらく、族長か、それに準ずる地位にあったことは確かであろう。
 ただし、婿入りをしたということもあって、身分としては、地方豪族の一員とされたのではないだろうか。
 そもそも、稲荷山古墳を含む埼玉古墳群は、武蔵国造=笠原直氏の墳墓と考えられている。(例えば、佐伯有清「武蔵の古代豪族と稲荷山鉄剣銘」を見ると、「いまの笠原の地は、稲荷山古墳から五キロと離れていない。そこで、同古墳をふくむ古墳群は、笠原直氏の墳墓と考えて誤りない。」と述べている。)
 笠原直氏が武蔵国造であったことは、日本書紀安閑天皇元年閏十二月是月条の

 武蔵國造笠原直使主と同族小杵と、國造を相爭ひて、使主・小杵、皆名なり。年経るに決め難し。・・・

という有名な記事によって知ることができる。
 その武蔵国造は、天照大神の子神とされる天菩比命の後裔ということになっている。
 古事記上巻には、

 天菩比命の子、建比良鳥命、此は、出雲國造、无邪志國造、上菟上國造、下菟上國造、伊自牟國造、津島縣直、遠江國造等が祖なり。

とあり、日本書紀神代上第七段一書第三には、

 復右の瓊を囓みて、右の掌に置きて、生す兒を天穗日命。此出雲臣・武蔵國造・土師連等が遠祖なり。

と見える。
 乎獲居臣に子孫があったとすれば、大彦命の後裔を名乗ることも可能であったに違いない。
 しかるに、それをしなかったのは、あくまでも、武蔵国造側が主体となり、乎獲居臣を婿として迎えたからであろうと考えておきたい。
 もっとも、上記「武蔵の古代豪族と稲荷山鉄剣銘」では、武蔵の豪族、“丈部直”や“宍人直”を大彦命の後裔氏族と想定している。
 もし、そのとおりであったとすれば、乎獲居臣の子孫がその血統を主張した可能性も考えられる。
 例えば、武蔵国造の本宗家は、天菩比命の後裔を名乗る一方、傍系の一族が大彦命の後裔を名乗って自立することがあったのかも知れない。



参考文献

 田中卓「稲荷山古墳出土の刀銘について」(同著『邪馬台国と稲荷山刀銘』、国書刊行会、昭和60年、所収。)

 埼玉県教育委員会編『稲荷山古墳出土鉄剣金象嵌銘概報』(県政情報資料室、昭和54年)

 宮崎市定『謎の七支刀:五世紀の東アジアと日本』(中公新書、昭和58年)

 和田清石原道博編訳『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』(岩波文庫、1951年)

 日本古典文学大系『日本書紀 上・下』(岩波書店、1965〜67年)

 日本古典文学大系『古事記・祝詞』(岩波書店、1958年)

 「家傳 上」(竹内理三編『寧楽遺文 下巻』、東京堂出版、昭和56年、訂正六版、所収。)

 東京国立博物館編『江田船山古墳出土国宝銀象嵌銘大刀』(吉川弘文館、平成5年)

 直木孝次郎「古代ヤマト政権と鉄剣銘」(同著『日本古代国家の成立』、社会思想社、1987年、所収。)

 『国史大辞典 第九巻』(吉川弘文館、昭和63年)

 沖森卓也『日本語の誕生:古代の文字と表記』(吉川弘文館、2005年)

 吉田晶「稲荷山古墳出土鉄剣銘に関する一考察」(井上薫教授退官記念会編『日本古代の国家と宗教 下巻』、吉川弘文館、昭和55年、所収。)

 『シンポジウム鉄剣の謎と古代日本』(新潮社、1979年)

 佐伯有清「丈部氏および丈部の研究」(同著『日本古代氏族の研究』、吉川弘文館、昭和60年、所収。)

 「他田日奉部神護解」(竹内理三編『寧楽遺文 下巻』人々啓状、東京堂出版、昭和56年、訂正六版、所収。)

 佐伯有清「武蔵の古代豪族と稲荷山鉄剣銘」(同著『日本古代氏族の研究』、吉川弘文館、昭和60年、所収。)


めんめ じろう 平成28年8月28日公開)


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