明治維新の功労者
山岡鉄舟の
危機を救った藤屋・望嶽亭
若杉 昌敬
私は、山岡鉄舟大居士を師と仰ぐ一ファンです。
由比町の『望嶽亭(ぼうがくてい)』にお邪魔していたある日、そこに住み、守って居られる松永さだよ夫人から「私の説明を聞いて下さったお客様から”何か書いたものは有りませんか?”と、尋ねられるんですよ・・・」と伺いましたので、以前、埼玉県小川町の「鉄舟会」の会報に載せて頂きましたものに、若干手を加え、拙文を綴らせて頂きました。
(これらは全て、宝蔵氏の巻物と、さだよさんから聞いたことの記録です。)
『望嶽亭』と『鉄舟先生』を身近なものに感じていただける一助となりますれば幸せです。
平成十六年十二月十八日
若杉 昌敬
(静岡・山岡鉄舟会々員・静岡市清水在住)
明治維新前夜の日本は、鎖国か開国か、尊王か佐幕か・・・。置かれた立場や境遇、損得なども重なり、武士も町人も心は千々に乱れ混沌とした世相の中にあった。
二六〇年の間、安泰を続けてきた徳川政権が今揺らいでいる。
永年の平和になれてきている人々の心中は、恭順か抗戦かで揺れる徳川政権の行く末や諸外国に侵略されるのではないかなどの不安や緊張で、気の休まる暇がない状況であった。
このような、日に日に状況の変わる不安な世情の中にあって、まさに「快刀乱麻を断つ」が如く明快に、公正無私に、徳川政権終焉の処置に命を賭して尽力し、そののちは旧幕臣の生活を守るために奔走を続け、更に、明治新政府誕生後には、西郷隆盛ほかの推薦により明治天皇の侍従・教育掛りを見事に勤めた真の代表的日本人である。このことは、山岡が、行政手腕についても卓越した能力を発揮したことの証であり、佐藤寛氏の「山岡鉄舟 幕末・維新の仕事人」には、この観点からの山岡が詳述されているが、そこでも述べられている最大の功績は、駿府伝馬町・桐油屋松崎源兵衛方における官軍の参謀西郷隆盛との会談において、徳川政権の終焉の形を主張すべきところは主張して成功裡に導いたと言うことである。
その結果、江戸城は”無血開城”され、先の支配者、将軍慶喜の命も奪われぬ、いわゆる「無血革命・明治維新」が成ったのである。
山岡のこのような行動は、剣・禅・書の三道を極め、武士道を体現してきた真の大丈夫(だいじょうぶ・大人物)であるから出来たことで、経営コンサルタントで作家の岬隆一郎氏も、その著「新渡戸稲造 美しき日本人」の中で次のように述べている。
(・・・本当のサムライたる者は蛮勇などふるわない。いざという「大義」のときのみに勇気を発揮する。
そのような真の「勇者」にかなう人物は歴史上数多く存在するが、ただ一人をあげろといわれれば、私は、あえて幕末の偉人・山岡鉄舟の名をあげたい。)と。
慶応四年(1868)三月七日~三月八日(九月八日明治と改元) |
山岡は、この日本の将来を左右する重要会談のために、慶応四年(1868年)
三月五日 勝海舟に会った後帰宅。
六日 早朝、益満休之助と共に江戸を発ち、静岡に向けて西進。小田原迄は記述有り。
七日 ?・・・
八日 ?・・・
九日 駿府で西郷隆盛と会談し、
十日には、江戸に戻って徳川慶喜と海舟に次第を報告している。
右の四日間の山岡の動静は、記録に有るのだが、七日、八日の動静を記した公の記録はない。人は言う。
「たとえ空白の二日間の動静が判ったところで、歴史上の事実が変わるものではない」と。
全くその通りである。
しかし、鉄舟先生を師と仰ぐ一人のファンとしては、どうしても知りたいところである。今までに色々探したり読んだりしたが今のところ信ずるに足る記録は見つかっていない。
著名な作家や研究者も著作の中で、ここの二日間は創作で書くか飛ばしており、真相はどうだったかと益々知りたくなっていた。
そんな時に、ここ由比町の松永さだよ夫人宅・望嶽亭を訪ねたところ、松永家に代々伝えられてきている重要な真実(と私は思っている)を聞かせて頂いたのである。即ち、
七日は、望嶽亭にて生死のかかった危機を脱し、
八日は、侠客・清水次郎長の家に隠れ、身支度をして
九日に、駿府の西郷氏のもとに向ったのである。
(海音寺潮五郎氏は、「江戸開城」で八日ではなかったかと思う。と曖昧に書いている)
幸いにして画才にも長けた松永家二十三代・故宝蔵氏が残した巻物にその時の出来事が書かれているので、それも参考にして小冊子にまとめてみた。
現在の、静岡県庵原郡由比町西倉沢八十四-一
松永さだよ夫人宅である。さだよ夫人は、松永家の二十三代当主、故松永宝蔵氏の夫人であるが、平成十二年に亡くなられた宝蔵氏の遺志を継ぎ、日本の歴史を動かした「望嶽亭」を当時の姿のまま後世に残そうとそこに住み、守り続けて居られます。(尚、さだよ夫人は、旧清水市興津の十九代続いている旧家の生まれです。)
「望嶽亭」は、室町時代末期、すでに名所図会にもその名を残していると言われていますが特に江戸時代に入り東海道五十三次の「由比(ゆい)」と「興津(おきつ)」との間宿(あいのしゅく)で脇本陣・お立場(たてば)・茶亭・網元の「藤屋(ふじや)」として有名になり、その座敷から眺める富士山の眺めが絶景であったために「望嶽亭」と名付けられたと伝わっています。そのため、古くから旅する多くの文人墨客が定宿(じょうやど)としており、国師・白隠禅師(はくいんぜんじ)の扁額(へんがく)、寛政の歌人大伴大江丸、雪中庵完来の柱掛け、山梨稲川(とうせん)、蜀山人(しょくさんじん)、安藤広重の作品などが、蔵座敷にさりげなく並べてあります。
この機会に望嶽亭所蔵の主な陳列品を書いてみます。読者の中には、夫々の道の研究者も多く居られますので何かの参考になれば幸です。
一、『蔵座敷』そのもの
慶応年間に建てられたと伝わるこの土蔵の外観は、他所でも見られるごくふつうの土蔵に見えますが、中は十五畳の畳の他に二畳分ほどの廊下が付いた客間になっています。そこに入ると、すぐ左隅の半畳には「置床(おきどこ)」が置かれ、その下は木の引き戸になっていて、その引き戸を開くと、なんと、そこには地下につながる秘密の階段が伸びています。
この階段こそが、明治維新の功労者山岡鉄太郎(鉄舟)を官軍の手から匿って逃がし、歴史に残る西郷氏との会談へ導いた由緒有る階段であります。
又、その部屋の厚い漆喰壁の間に作られた窓は、西洋の教会や城の窓のように縦に長い蒲鉾(かまぼこ)型をしており、建てた当時の主人のセンスが並で無かったことをうかがわせるものであります。
又、蔵座敷の入口には、厚さ二十センチ程の漆喰で固められた頑丈な両開きの扉がついており、それを閉めれば外観はまったくの土蔵であるので、まさかその中に立派な日本間が有り、秘密の隠し階段まで付いていようとは誰も想像が出来ません。
二、昭和天皇・皇后両陛下がおやすみになられた寝具一式と真紅の敷物
昭和三十二年十月、静岡国体が開催され、天皇・皇后両陛下が静岡県にお見えになりました。その折の二十五日と二十六日の両日、旧清水市興津本町(おきつほんちょう)の「一碧楼・水口屋(みなぐちや)」にお泊りなりました。その時にご使用になられた寝具と水口屋の玄関からお部屋(御幸の間・みゆきのま)まで敷かれた真紅(しんく)の敷物が陳列してあります。
三、鉄舟先生が残していったフランス製十連発ピストル
1850~1860年にフランス(パリ又はセントエチーヌ)のフェファッシュー社又はシェヌー社で作られたもので製作当時の価格は、2000フランと静岡県立大学の先生は言っています。現時点で、歴史的な価値も加えるとどれ程の鑑定価格が出るのでしょう・・・。
四、国師・白隠禅師(1685~1768)書「望嶽」の扁額(へんがく)
若い時に病気治療(「鬱-うつ」だろうと言われている)のために望嶽亭に逗留(とうりゅう)し全快しました。そのお礼として書き残したものです。
五、安藤広重が描いた隷書版・「由比(藤屋望嶽亭)」
隷書版とは、標題が隷書体で書かれているので「隷書東海道」と呼ばれています。この絵の中に「くらさわ(倉沢)」名物「さざいの壷焼き」と書いてあり、望嶽亭の二階でくつろいでいる二人の男は「弥次郎兵衛と喜多八である」と言われています。
六、雪中庵完来(かんらい・俳人)の柱掛
「凪(なぎ)わたる 海や余月(よつき)の 鏡ふじ」
七、大伴大江丸(江戸後期の俳人)の柱掛
「百富士(ももふじ)や そも元日の あしたよ梨(り)」
八、山梨稲川(とうせん)(江戸後期の漢学者・音韻学者)
「駿豆蒼茫(すんずそうぼう)たり」で始まる漢詩。
九、明治九年頃の望嶽亭の写真(英文には、倉沢からの富士山と書いてあります)
秋田書店発行の『歴史と旅』1998年11月号に掲載されている写真には、明治五年九月に設置された電信柱や当時の藤屋・望嶽亭、浜には伝馬船も写っています。
十、明治以降、元勲や政治家が「水口屋(みなぐちや・旧清水市興津本町の旅館)」での重要会議のときに使ったテーブル(座卓)
坐魚荘(ざぎょそう)に居る西園寺公望(さいおんじきんもち)公爵(1849~1940)を訪ねる時に政府の要人達が宿泊し、国政上の重要要項を検討する会議の時に使ったものです。
十一、琉球皿
朝鮮通信使がお礼に置いていった「CHINA」銘の入ったお皿です。
十二、官軍が侵入してきた時に付けたと思われる槍或いは鉄砲傷のある杉の一枚戸
昭和二十年代後半までは、刀や槍の突き傷の付いた畳も有りましたが、畳屋さんに「畳博物館に飾りたい」と言われ、さだよ夫人があげてしまって残念ながら今は有りません。
十三、松永宝蔵著「東海道は日本晴(五拾三次道中記)」「塩の道(甲州街道旅日記)」と、
右の著作に載せた挿絵の原画多数。
十四、その他解読できていない古文書類多数
解読できれば、鉄舟先生の危機を救った当時の関連事項や、侠客清水の次郎長が由比に預けられていた当時のいきさつや状況などが解るかも知れません。
その他にも探せば歴史的価値のあるものも多く見つかるかも知れませんのでどなたか読み解いて頂けませんか・・・。
山岡は、慶応四年三月五日、勝海舟を訪ねた後に自宅に帰り茶漬け(酒漬け?)を掻っ込んで、六日早朝、益満休之助(ますみつきゅうのすけ)と共に駿府に向けて駆け出した。
品川、川崎、小田原と官軍の陣中を走破し箱根に着いた。薩摩の益満が居たので捕らえられること無く無事にここまで来たが、益満が体調を崩したため山岡は、ここで別れ、駿府での再会を約して単身西郷のいる駿府に向けて出発した。(ここは、諸説の分れるところであるが、ここでは松永宝蔵氏が書き遺した『巻物・山岡鉄舟 拳銃の由来書』に従った)
三島、沼津、原、吉原、蒲原と智力と胆力で無事通り抜けて
三月七日の深夜となった・・・。
山岡は、「由比」倉沢の薩た峠(さったとうげ)に差し掛かった。
ここは、五十三次の中でも難所中の難所と言われ、海岸沿いの道は、波にさらわれないで渡りきる潮時が難しく「親知らず子知らず」と呼ばれていた。もう一方の山道は切り立った崖に沿って曲がりくねった細い峠越えの道が通っている。普段は真っ暗闇であるが、この時は、官軍のかがり火が煌々と焚かれ怪しいものは虫一匹通さない警戒ぶりである。
しかし、山岡は峠越えの道を選び急ぎ足で急坂を上って行った。晴夜の六日月に照らされた海辺の道は、いまだ潮が引ききらず通れなかったのである。
道半ばまで上ったその時である。官軍の先兵から
「止まれ!誰か?」
と誰何(すいか)された。益満が居れば何とか通れたかもしれないが、如何に山岡と言えども一人では官軍の中を突破できない。山岡は急ぎもと来た道を走って引き返した。官軍の兵は、怪しいと見てしきりに鉄砲を撃ってきた。しかし、真っ暗闇であり山岡の足が速いため弾はいずれも命中しなかった。ここで犬死するわけにはいかない。山岡は拳銃を打ち返しては必死で逃げる。官軍は追う。とうとう峠の上り口の望嶽亭の前迄追い返されてしまった。
「もうここは望嶽亭に逃げ込むしかない。南無八幡!」
万に一つの望みを託し玄関の表戸を静かに叩いて、官軍に悟られぬよう押し殺した小さな声で叫び続けて助けを求めた。
(攻める時には攻め、引く時には引く、”臨機応変は胸中にあり”の実践である)
「たのむ!たのむ!」
「・・・・・・」
「たのむ!たのむ!」
「・・・・・・」
望嶽亭の二十代当主、松永七郎平(しちろへえ)の女房かくは玄関の木戸の側まで行ったが、不穏な情勢の時であり夜中でもあるので戸を開けない。暫く様子を見ていたが、戸も叩かず声も途絶えたので、怪しい者はあきらめて去ったものと思い、安堵と怖いもの見たさも手伝って、そーっと戸を開けた。
と、その瞬間である。かくを押しのけて一人の巨漢が侵入して来るや、いきなり玄関の土間にひざまづき名前は名乗らずに事の次第のみを七郎平に訴えた。
「私は、将軍徳川慶喜(よしのぶ)の名代として駿府の大総督府を訪ねるために江戸から来た者です。今、峠の中ほどに差し掛かったところ官軍の兵に追われて困っています。大事を成し遂げるためには、ここで敵の弾に当って犬死するわけには参りません。是非とも匿って逃がして下さい。お願いします」と。
主人の七郎平も大物だ。多くの人物を見てきているだけに「これは只事ではない。深い訳の有るお方だ」
と咄嗟に判断し怪しむ家人を押さえて鋭く叫んだ。
「蔵座敷だ!蔵座敷だ!」
主人の命とは言え今まで蔵座敷には大事なお客様しか通していない。ましてや真夜中に暗闇の中からいきなり飛び込んできた正体不明の者を通して良いものか家人は一瞬迷った。そこへ再び七郎平が押しかぶせるように命じた。
「蔵座敷だ。蔵座敷だ。早くお通ししろ!」
山岡を中に通すと家人は厚く重い漆喰作りの扉を閉めた。そこは、母屋とは切り離された十五畳の客間である。
そこで七郎平は改めて山岡と対面し名乗りを受け、話を聴き終えると力強く答えた。
「事の次第は良くわかりました。この七郎平、命に代えてもお匿いしお逃がし致します。」
と言うと同時に七郎平は一策を思いついた。
「陸路は危ない。海路を舟で逃がすしかない」と
冷静に判断すると、直ちに女房のかくに命じて漁師の着物と履物を持って来させ山岡に急いで着替えるように促した。山岡は着物を脱ぎ、持ち物、刀、慶喜から直(じか)に渡されたであろう拳銃の全てをそこに置き、薄汚れた手拭いで頬被りをした。すると、女房かくは、素早い動きで着替えたものの一切を隠してしまった。これで立派な漁師が出来あがった。
当時の藤屋は網元でもあり多くの漁師を抱えていたので漁師の着物位は何時でも間に合わせられたのだ。
次に七郎平は、筆と紙を持って来させ、清水の侠客次郎長に手紙を書いた。そこには、
「このお方は大事なお方だから過ちの無いように良くお守りして駿府まで無事に届けてもらいたい」
と書いてあった。
次郎長は、少年時代の九歳(八歳とも十歳とも言う)から十五歳まで由比に有る義母の実家や縁続きの家々に、たらい回しのようにして預けられていた。その時に、松永家の十九代当主嘉七は次郎長の面倒をよくみていたのだった。
七郎平は、書き終えた手紙を山岡に渡しながら静かに言った。
「山岡さん、ゆっくりはして居られません。いつ官軍が踏み込んでくるか分かりませんから。貴方が居らっしゃる時にここへ完軍に踏み込まれたらここは修羅場になってしまいます。そうなれば貴方も困るでしょうし、私も宿の主人として大変な荷物を背負うことになります。委細はこの手紙に書いてありますからこれを持って早く逃げてください」
そう言っているうちに玄関の方から店の若い衆が
「官軍じゃ!」
と声と合図を送ってきた。七郎平は、蔵座敷の左隅に有る半畳の置床を外すとその下の隠し階段の引き戸を開いて
「山岡様、私が舟までご案内致します」
と言うが早いか地下に通ずる階段を先に駆け降りた。山岡も急いでそれに続いた。外に出た二人は足音を忍ばせて繫いである櫓舟にたどり着いた。そこには腕利きのかかえ漁師、栄兵衛(えいべえ)がいつでも漕ぎ出せる支度をして待っていた。
「山岡さん、それではお気をつけてご無事を祈っております。栄さんしっかり頼んだぞ!」
と七郎平は一声掛けて艫(とも)を沖へ向けて押し出した。それを合図に栄兵衛も満身の力をこめて水棹(みさお)を突いた。舟は引き潮に乗り沖に向けて消えて行った。
一息ついた七郎平が表の間に戻ってくると再び表戸をドンドンと叩く者が居る。
「誰だ!」
と七郎平は訊ねた。すると
「官軍じゃ!ここの戸を開けろ!」
と大声で叫び返してくる。
七郎平は、この場に自分が居てはまずいと判断し、女房のかくに「後は、頼んだぞ」と目配せをして、再び離れの蔵座敷の隠し階段から浜に下りて姿を消した。
普段、階段の入口には半畳の置床(おきどこ)が置かれ茶掛け(茶室掛の略)が掛けてある。
初めての者には、その下に秘密の隠し階段があろうとは想像もつかない。
「何をしているか、早くここを開けろ!」
官軍の兵は表戸を破れんばかりに叩き続ける。
かくは、階段の入り口が元の姿に戻されたことを見届けると表戸を開けた。
開けると同時に抜刀した十人ほどの兵達が飛び込んで来て
「主人は居るか!おかみは居るか!」と
大声で叫んだ。
「主人は、商用で他所に行っていて留守です」
かくは落ち着いて答えた。
すると官軍は
「嘘を言うと為にならぬぞ。『誰だ?』といったのは誰だ!」と
厳しく問いただしてくる。
「倅の嘉平でございます」と
かくが答える。
「よし、それならば嘉平とやらと一緒に使用人全員をこの部屋に集めろ!」
かくは女中に命じて全員を蔵座敷に集めた。
「この家に武士が一人逃げ込んだであろう」
「いいえ、一人も来ておりません」
「来ただろう!隠すと為にならんぞ。隠したとあればお前達全員の首をはねてこの家屋敷に火を放つぞ!」
と、
かくの頬に刀の鎬地(しのぎぢ)をヒタヒタと当てて厳しく尋問する。
「お侍さん、私達はお咎めを受けるようなことは一切しておりません。もしも、お疑いでしたら屋敷内の隅々までよくお探し下さい」
元は武家の出で、はらの座ったかくは落ち着いて正座をしたまま答えた。
「よし、言ったな。屋敷中をくまなくさがせ!」
兵達は隊長の命を受け藤屋の中のいたる所を探索した。
人が隠れていそうな布団部屋やへこみ部屋(納戸)の前まで来ると、兵達は襖や木戸を最初に銃剣や刀で突き刺してから戸を開けて中に入り、布団や衣類を突いては跳ねのけて探し回った。
しかし、誰一人として出て来なかった。山岡はすでに海の上である。
すると、隊長は急に態度を改めて
「騒がして大変済まなかった」
と一言詫びて小判を二、三枚置いて立ち去った。
兵達は、探し物が見つからぬ腹いせに足元の畳を槍や刀で何回も突き刺し、荒々しい息遣いとけたたましい足音を立てて隊長の後に続いた。
一方、山岡を乗せた漁師の栄兵衛は、無事江尻湊(現清水港)まで漕ぎ着いた。二人は舟を下り周囲に記を配りながら次郎長の家にたどり着いた。
七郎平からの手紙を読み終えた次郎長は
「良く解った。倉沢の坂口(藤屋の屋号)からの頼みとありゃこの次郎長、命を懸けて守ってやらあ、安心してくりょう。俺ゃ若い時分に、親父さんにゃ随分世話になった。良く俺を頼ってくれた。恩返しの積りでやらせてもらうぜ。ご苦労だったな栄兵衛。倉沢の七郎平に宜しく言ってくりょう。」
と栄兵衛に答えて二人を座敷に上げ暖かくもてなしゆっくりと休息させた。
次郎長はその夜、家の周りに一晩中子分達を張り付けて厳重な警戒を怠らなかったと言う。
栄兵衛は、庄屋・望月久兵衛の次男であり、次郎長が倉沢に預けられていた頃の遊び仲間であった。年下の七郎平も二人には可愛がってもらった遊び仲間であったので、大人に成ってからも互いの気心は良く解り合っている仲であった。
三月八日
山岡は、逸(はや)る気持ちを押えて次郎長宅でゆっくり休養した。明日は大総督府に行かなければならない。しかし、武士の着物も履物も腰の物も全て望嶽亭に置いてきてしまっている。
次郎長は、自分はもとより、子分達をも手分けして走らせ武士の支度を整えた。後は大事な明日を待つばかりである。
三月九日
三月七日夜半の峠での出来事もあり、官軍の警戒はどこも厳重を極めていた。
次郎長は、子分と共に自らも護衛役と道案内を買って出た。山岡の前を次郎長が、左右と後を子分達が固め警戒の厳しい東海道を避けて久能(くのう)街道から駿府に入ることとした。
久能街道までは北矢部、村松、宮加三(みやかみ)と私が、子供の頃にはまだ残っていた村々の細い抜け道や牛道(うしみち)を通って行ったのであろう。
久能街道の駒越(こまごえ)に出てからは、海を左に見ながら西に進み増村(ぞうむら)-蛇塚(へびつか)-西平松を経て大谷(おおや)に着いた。ここからは海を背にして有東(うとう)、八幡(やはた)、南安東を過ぎ、ついに、目指す駿府伝馬町の桐油屋(とうゆや)松崎源兵衛方に到着した。
次郎長達は、身分を憚り松崎屋の手前一町(約一〇九米)程の所で山岡と別れ、道端にたたずんでいたと静岡市出身の作家江崎惇氏は書いている。
○
松崎屋における西郷氏との談判の模様に付いては、山岡本人も「慶応戊辰(ぼしん)三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛ト談判筆記」に書いているし多くの方々が自説に基づき書いている。
○
九日に西郷氏との談判を見事に果たし急ぎ江戸に向う途中、山岡は、望嶽亭に立ち寄って一、二声掛けて立ち去ったと伝わっている。
松永さだよさんが、亡夫宝蔵氏や亡母から聞いた話によると、山岡は早馬で来て立ち寄り、馬から下りないで声を掛けたようである。時が時だけに藤屋に迷惑のかかることを避けたのであろうし、天下を動かす火急の返事を届けなければならない時だけに兎に角、先を急いでいたとの事である。
○
その後(時期は明確でないが)山岡が望嶽亭に寄ったそうである。主人が
「拳銃をお返し致します」
と言ったところ、山岡は
「今はもう平和だから要らない」とさりげなく答えて置いていったそうであるが、本心は、危機を救ってもらった御礼の気持ちを強く込めて置いていったのではないだろうか・・・。
今、望嶽亭に残されている拳銃が、正にその拳銃なのである。
○
なお、作家の江崎惇氏は「侍たちの茶摘み唄」の中で、この拳銃について次のように書いている。
『鉄舟、懐中の奥深くから、フランス好みの慶喜が、皇帝ナポレオン三世から、江戸にいたロッシュ公使を通じて贈呈された十連発の拳銃-それを鉄舟が拝領した-を出し・・・(後略)』と。
今、NHKの総合テレビジョンで「その時、歴史が動いた」という番組をやっている。
日本の歴史を転換させた大事件や国の命運を左右した大問題を専門の解説者の解説と共に紹介し考察を加えているものである。
慶応四年(1868年)三月七日夜半、由比町西倉沢の脇本陣『藤屋・望嶽亭』で起こった事件も、まさに近代日本の歴史を大きく動かす出来事であった。
「歴史に、もしも・・・はない」と言われるが、もしも、この時山岡が『望嶽亭』でかくまって貰えず、荒ぶった官軍の兵達の銃弾や剣槍により絶命していたら・・・、慶喜の謹慎、恭順の心中は、大総督府まで届かず、(官軍側の計画通り)三月十五日の江戸は戦火に包まれ阿鼻叫喚の巷と化していたであろう。
そして、日本人同士が敵と味方に分かれて殺し合い憎しみ合って戦い、戦力の弱まった後の日本は、欧米列強により分割され統治され、過去のドイツや現在の朝鮮半島のような憂き目を見ていたかもしれない。
山岡の成し遂げた仕事の大きさを後世の日本人は、忘れてはならないのである。
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表紙 |
裏表紙 |
1
現在の表の間入口(玄関)
|
2
表の間に飾られている二十三代松永家当主
宝蔵氏の遺影と自筆の原画 |
3 蔵座敷入口 |
4
蔵座敷の窓 |
5
地下に通じる秘密の階段 |
6 山岡が置いていったフランス製十連発拳銃 |
7
山岡鉄舟拳銃の由来書 |
8
巻物の一部 |
9
昭和天皇・皇后両陛下がご使用になられた寝具 |
10
国師・白隠禅師の書になる扁額「望嶽」 |
11
俳人の柱掛 |
12
鉄舟居士の写真と十連発ピストル |
13
奥座敷の地下出口と通路 |
14
蔵座敷の外観 |
15
松永家二十三代当主故松永宝蔵氏夫人 |
16
生前の宝蔵氏と並んで・・・ |
・原書
山岡鉄舟の『危機を救った藤屋・望嶽亭』
2004年3月8日 初版
2004年12月18日 改定版
編集者
若杉 昌敬
発行者
藤屋・望嶽亭 松永さだよ
・望嶽亭松永さだよさん及び若杉昌敬さんから掲載許可を頂いています。
・本版(HTML版)は原書と若干異なります。
・若杉昌敬さんと松永さだよさんは、鉄舟・21・サロン主催の「山岡鉄舟全国フォーラム2004」で平成16(2004)年9月12日に講演されました。
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