★池田雅明物語 CHAPTER3 アメリカ篇・その後どうなったのさ★
まいど!インタビュアーのwJ.Mです。お待たせしました、ブレイクしっぱなしのままだった池田雅明物語の
続きでございます。アメリカ篇PART1では『ビザ期限切れ』によりまたもピンチに陥ったまーくんが、その後一体
どうなったのか。気になりますねー。では、池田雅明物語 CHAPTER3 アメリカ篇PART2 Let's go!
wJ.M−さて、ここからは『後編』という事で。『前編』は『ビザ期限切れの危機』にさらされるところで終わってますが、
その窮地はどうやって脱したんですか?
MASA−脱したというか…。色々考えた結果、「そうだ、また学生になればいいんだ!」と思ったんです。そうすれば
またビザもおりるし。アメリカに来てからの私は、これと言って大きな挫折もなく、比較的トントン拍子でステップアップ
していったで、「これならどこに行ったってやっていける!」みたいな、ミョーに自信マンマンだったんですね。その勢い
で、ニューヨークのマンハッタン音楽院の大学院を受験しました。
wJ.M−当然、合格されたんですよね?
MASA−ええ。合格はしたんですけど、今思えば、その時から既に暗雲がたちこめていたみたいで…。
wJ.M−ま、また暗雲ですか。(汗)
MASA−受験日に私は、ジャズ科の受験だしここはニューヨークだし、みたいな勝手な思い込みで、ガラシャツにジーパン
という超ラフな出で立ちで会場に行ったんです。そしたら周りの受験生は全員スーツ!いきなり浮いてました(汗)。受験生
の中には既にプロとして活躍している人も何人かいたりして、かなり緊張感溢れてましたしね。それでも何とか合格したんです。
wJ.M−なるほど。それで、この『マンハッタン音楽院』では何を専攻したんですか?
MASA−受験のときは、『ジャズ・コンポジション科』という「書き」のコースと、『パフォーマンス科』という「演奏」のコースと
併願して、両方合格しました。で、バークリーのときは「書き」だったから、今度は「演奏」の方にしようかな、程度の軽い気持ち
でパフォーマンス科を選びました。
wJ.M−また「とりあえず」な感じが…。(笑)
MASA−そうですね(笑)。でもまた、すぐに自分が甘かったことに気付くんですよ。
wJ.M−は、と言いますと?
MASA−みんなやたらとウマいんです。アンサンブルの授業なども、学内では下の方のクラスに入れられたりして。まあ、冷静に
考えれば当然のことなんですけどね。その頃自信マンマンだった私にとっては屈辱的でした。それに、ボストンからニューヨークに
拠点を移してのチャレンジだったので、演奏の仕事もめっきりなくなってしまいました。
wJ.M−では、学業に専念せざるを得なかった、と。
MASA−まあ、そうとも言えます、かね。(苦笑)
wJ.M−ちなみに、授業などはどのような感じだったんでしょう?
MASA−トロンボーンはSteve Turreに師事しました。彼はその当時、『Saturday Night Live』という有名なテレビ番組に出演
したりしていて超売れっ子でした。しかもトロンボーンだけでなく『ほら貝』を自在に吹きこなすことでも脚光を浴びていましたね。
wJ.M−ほう。では『ほら貝』も習ったんですか?
MASA−いえいえ。他の学生の中には、自分も、と『ほら貝吹き』を志願する人もいましたけど、残念ながら私はあまりそちら方面
には興味なかったもので。私はあくまでも、トロンボーンが…。しかしそのトロンボーンの方も、この学校での私は地味な存在でした。
wJ.Mーううむ、となると、また「辞めたくなってしまった」のでは?
MASA−当たりです。(笑)入学して1年というところで、とりあえず『半年』ということで休学届けを出して、ニューヨークにある
人材派遣会社の契約社員としてまたもやビジネスマン生活を始めました。
wJ.M−何か、そう言えば過去にもそういう事があったような…。(デジャビュか?←心の声)
MASA−そうですねぇ。ま、私の場合は、挫折感を感じたときは、そこにしがみつかずに思いきって離れてみよう、と思うみたい
ですね。色々推測してあれはだめだ、これもだめだ、と思い悩むというよりは、やってみなきゃ分からない、というタイプ。
wJ.M−はあ。それで、何か変化があったんですか?
MASA−ええ。ビジネスマン生活を始めて間もなく、「ドライバーをやらないか」という話が来たんです。日本のテレビ番組の制作会社
がアメリカロケをするときのワゴン車の運転手。まあ、音楽の仕事ではないけれど、現地の土地勘を活かした車の運転もできるし、
日本語と英語の通訳もできるし、面白そうだったので迷わずやることにしました。給料もそこそこ良くて、お陰で生活苦からも脱出
できました。
wJ.M−なんと言うか、そのぉ、『前向き』ですね。
MASA−いや、そしたら、思い出したようにまた『ラテンバンド』の仕事のお誘いが来たんですよ。一つ来ると、そこからまた芋蔓式
に色々なバンドから誘われるようになって。その頃に、バークリー時代の友人でアレンジャーのGuillarmo Kleinがニューヨークで
活動を始めていて、私も彼のバンドに入る事になり、そのバンドでジャズ・クラブ『スモールズ』のマンデーナイト・オーケストラの
レギュラーを勤めることになりました。
wJ.M−それは、どんなバンドだったんですか?
MASA−Guillarmo Kleinはアルゼンチン人ですが、その他にヨーロッパ人、中国系アメリカ人など色々な国の優秀なミュージシャン
が集まって、タンゴの要素を取り入れたオリジナル曲や、エフェクター類を使った前衛的なジャズなど新しいことに挑戦して
いく感じのバンドでしたね。
wJ.M−へーえ。あのぅ、ところで、ビジネスマンの方は…?
MASA−ああ、あれは半年くらいで他の仕事が忙しくなってしまって自然消滅しました。しかも大学院も半年休学のはずが、気が付くと
既に1年経過…。
wJ.M−もしや、また辞めてしまったんですか?
MASA−いやぁ、辞めようと思ったのですが、そこでまた『我が両親』登場。で、またどこかで聞いた事のあるあのせりふ、
「とりあえず卒業だけはしなさい。」…と。
wJ.M−あっははは!
MASA−それに、またビザが切れそうになっていたので、ビザ欲しさもあって復学することにしました。しかし、学校側から「約束は
半年だったのに1年経っている。なので、もう一度受験して下さい。」と言われたので、試験を受けて復学しました。
wJ.M−今度は辞めたくならなかったんですか?
MASA−だいじょうぶでした。(笑)周りは変わらずウマい人たちばかりでしたが、今度は自分も仕事をしていたし、ウマい人たちを
素直に認めて、自分は自分らしくいればいいのだ、と割り切ることができたのでしょうね。淡々と単位を修得して卒業しました。卒業後
も引き続き仕事をして、着々とニューヨークでの地固めをしていましたが、色々な事をやり過ぎていたせいか、結局、特定のスポンサー
がつかず、卒業後1年でまたビザの期限切れのため、泣く泣く帰国した、という訳なんですよ。
wJ.M−なるほど〜。では、これにて『アメリカ編』終了、という事でしょうか?
MASA−はい。日本に帰ってきてからは、まあ、皆さん御存知の通り、という感じで(笑)。
wJ.M−では最後に、アメリカでの経験から何か皆さんにメッセージはありますか?
MASA−う〜ん、そうですねぇ…「人生、切り替えが大事。」ってことでしょうかね。
wJ.M−ははは。そのままですけど、なんだか説得力がありますよ。(笑)
MASA−新天地を恐れていては始まらない、新しい人生は「撃沈」から始まる!
wJ.M−分かりました。池田さんらしいメッセージ、どうもありがとうございました。