My Musical History Vol.1  概ね1981〜1986

順次、コメントを増やしていきたいと思います。

MADS

1981年結成。主にYMOのコピーバンド。当時は主にキーボードを担当。遊びでドラムを少々。ドラム主担当は、将来「射夢」のキーボーディストとしてご一緒する、SENBA師匠。メンバーみな担当楽器は確定はしておらず、持ち回りだった。後期は自分とSENBA師匠の2人ユニットとなり、RANDOMSと改名。1983年夏、自分の東京転居により消滅。

SENBA師匠は現在、酒井若菜等の市販DVDのサントラや、K1等のステージBG、NHKのテレビ番組の挿入歌等を制作しているほか、TV出演も精力的にこなすなどの活躍をされている。

1983年、地元のラジオ・南海放送にて、MADS名義で応募したデモテープが採用され、放送された。

1982.2.14 松山・すし天2F

生まれて初めてのLIVE。当時は、楽器を持っていないとバンドには加入出来ない(逆に言うと楽器を持っていればバンドには加入出来た・・とも言えるかも)にもかかわらず、楽器ナシで加入。

YMOの人民服ファッションにならい、赤を基調とした衣装を持ち寄ってのステージ。

当時のアマチュアミュージシャンはみなそうだったと思うが、YMOのコンピューターシーケンスを手弾きして腕を競ったものです。お陰で鍛えられました。

 

 

1982.5.17 松山・すし天2F

この他にも、1982.8.2〜8.4に開催された「Summer Tour Live」等があるが、音源のみで写真は残っていない。

主力楽器はRolandのSH-2やSH-101といったモノフォニックシンセサイザー。SENBA師匠の叩くスネアに装着された、当時の高橋幸宏と同じBIASのBS-2(パーカッションシンセサイザー)がわずかながら見える。

足りない音はLLカセットレコーダーを使い、右チャンネルにクリック、左チャンネルに演奏を録音して、ステージでは右をヘッドホンで聴きながら左の音のみをスピーカーで流すという、先進的な方法で補っていた。

 

 

1982.12.24 松山・立花公民館

子供達を前に、クリスマスパーティーの余興として出演。見よう見まねでドラムも叩いている。まだ手をクロスすることなどせず、左手でハイハット、右手でスネアを叩いていた。フィルインなんて勿論叩けないし、シンバルでさえ初めて叩くのはまだあと3年後位だったと思う。

LIPSTICK

1983年結成、1984年解散。キーボードからベースに転向、上京後に加入したPUNKBAND。辛い思い出のあるバンドです(写真なし)。

 

KISS BAND

1984年夏に結成。ベースから一転、高校入学を機にドラムに転向。ドラマーとして最初に加入したのはひとつ下のフレームで紹介している「CAMOUFLAGE」というバンドだが、ステージ経験はこの「KISS BAND」の方が早かった。

学園祭専用バンドであり、学園祭終了後解散したが、パーマネントであった「CAMOUFLAGE」よりもこの時限バンド「KISS BAND」の各メンバーの方が、この後の縁は深かった。

 

1984.10 学園祭(都立S高校音楽室)

音楽性の決まっていなかった自分は、ドラマーとしてこの「KISS BAND」の他にもDURAN DURANやSpandau balletのコピーバンド等、4バンドくらい出演した。なにせ当時、ドラマー人口が少なかった。

あと、チェッカーズのコピーバンドでキーボードを担当した記憶があるが、はっきりしない。

CAMOUFLAGE

1984年春の結成。Drums担当。1985年、音楽性の違いにより脱退。ボーカリストが流動的なバンドだった。

写真なし

1984.12 西荻窪・Watts

「CAMOUFLAGE」は、ボーカリストの人選に手間取り、また初代ベースが学園祭直前に脱退したため、1984.10の学園祭には出演出来ず。

よって、最初のLIVEはこの西荻窪・Wattsでのステージだが、音源は残っているものの写真はない。

 

1985.3.24 高円寺・JIROKICHI

1985.12のステージを経て、いよいよ2回目のLIVE。

メンバーは前回と同じ。このボーカリスト、Mr.SakuraはこのLIVE限りで脱退。但し、のちに一緒に「HONEY DIP」を結成することになる。

 

 

1985.7.24 西荻窪・Watts

新しいボーカリストを迎えた第三期。但し、僕自身がこのLIVE限りで脱退。その後バンドは自然消滅(たぶん)。

COUNTER FORCE

1985年、「CAMOUFLAGE」に少し遅れて、同じ同級生仲間で結成されたバンド。キーボードを担当。

1985.3.24 高円寺・JIROKICHI

「CAMOUFLAGE」と同期バンドのような間柄であったため、LIVEも共同で開催していた。なので、同じ日のLIVEで「CAMOUFLAGE」でドラムを、「COUNTER FORCE」でキーボードを弾くという状況だった。

 

1985.7.24 西荻窪・Watts

この時も「CAMOUFLAGE」と共同開催。確かこの「COUNTER FORCE」もこの時限りで脱退したような、脱退させられたような・・(但しのちに「G-JANS」としてバンドが生まれ変わった際に、今度はドラマーとして復帰)。

 

AIR RAID(イクラちゃんとそよ風たち)

1985年、「CAMOUFLAGE」を脱退し、「KISS BAND」で一緒だったKawai-chan(B)とともに結成。Drums担当。

1985.6 西荻窪区民センター

よりハードな音楽を求めて・・。

 

 

1985.10 学園祭(都立S高校社会科室)

学園祭では学校外のメンバーの出演が認められていなかったため、学校内のメンバーにて調整。前年「KISS BAND」で一緒だったMr.Matsuzaki(G)、新入生のRYU(G、Vo)=写真中央の赤いレザーパンツ。故人=と出演。

MUMMY

1985年、新入生RYU(G)とともに結成。Drums担当。

1985.10 学園祭(都立S高校格技場)

記念すべき最初のステージなのに、演奏中のバンドの写真がありません。これは、リハの合間に撮ってもらったもの。

マイドラムセットを、先生の車で学校まで運んでもらい、初めて人前にお披露目。

 

1985.12 阿佐ケ谷区民センター

 

 

1986.9.10 阿佐ケ谷区民センター

ボーカルのHirameが脱退、Akikoが加入。同時に、ツインギターの曲を演るために一時的に自分がサイドギターにコンバート。ドラマーにはRYUの旧友であるうっちゃんがサポート加入。

この後、バンドの発起人であった自分とRYUが、下のフレームで紹介している「HONEY DIP」での活動が主となってきたため、惜しまれながらも解散。

 

HONEY DIP

1985年、「KISS BAND」で一緒だったHoichi(G)を誘って結成。Drums担当。その後「MUMMY」のRYUをベースに迎えた。なお、ボーカルは、「CAMOUFLAGE」の初代ボーカリストだったMr.Sakura。

主要メンバーの高校卒業により、1987年3月解散。

1985.12 阿佐ケ谷区民センター

 

1986.3 阿佐ケ谷区民センター

ベースのMr.Oishiが脱退し、「MUMMY」のRYUが加入。自分とRYUは「MUMMY」の平行運営を考えたが、あまりにも活動指針が同一であり「MUMMY」の存在意義が薄れてしまったため、惜しまれながらも「MUMMY」の方を解散。

1986.7 阿佐ケ谷区民センター

女性ボーカル、Mioを迎えた派生バンド「INFINITE」(4枚目の写真)もお披露目。この「INFINITE」では、「HONEY DIP」初代べーシストのMr.Oishiが復活。

なお「HONEY DIP」からは、この日で看板ボーカルだったMr.Sakuraが脱退。

1986.10 定時制学園祭(都立S高校音楽室)

定時制の方々にお誘いを頂き、ヘルプのヴォーカリストを迎え、今まで無かった我々全日制との交流のために参加。

ところがこの定時制学園祭が全日制の修学旅行と日程が重なってしまい RYU(B)が出演出来ないため、急遽自分がベースにコンバート、新入生だったNoRiMeRがドラムでサポート参加。

 

1987.3.21 高井戸区民センター

NoRiMeRのバンド「DAAH!」の超絶テクのキーボーディストのもっさんを、声が良いことを理由に強制的にボーカルとして加入させ、卒業解散LIVEを決行。この日もっさんはキーボードも担当。

 

BARKIRI

後輩NoRiMeRのメインバンドであった「DAAH!」の派生バンド。キーボードで参加。

 

1986.12.19 阿佐ケ谷区民センター

もちろんドラムはNoRiMeR。

G-JANS

「COUNTER FORCE 」の発展後継バンド。ドラムのMr.Ichikawaが脱退し、自分がキーボードからドラムにコンバート。キーボードには新たに女性キーボーディストが加入。

 

1986.12.23 西荻窪・Watts

 

ALOHA / 焼き肉バンド

「AIR RAID(イクラちゃんとそよ風たち)」の発展後継バンド。元々「イクラちゃんとそよ風たち」という文言からもわかるように、kawai-chanと自分は、マジメくさって音楽スタイルとか衣装とかに気を遣うのが大嫌いで、おふざけが大好きだったため、より一層のおふざけを追及するために結成。この頃のふたりの決まり文句は、「下手なヤツほど技術で勝負出来ないぶん、カッコだけは一人前になりたがる。」この時から自分も、ふざけた絵柄のバスドラムのフロントヘッドを使うようになった。

当然、技術的には天下一品で、ドリフの「言い湯だな」あたりからIron Maiden等のヘビーメタル、Casiopea等のフュージョン、ザ・ブルーハーツ等のパンク、シャネルズ等の歌謡曲からビートルズなど、出来ないものはクラシック位で、あとは何でもござれであった。 

1987.9.30  阿佐ケ谷区民センター

曲によってボーカルが変わる変わる・・。上の写真はIrom Maidenの「Killers」を熱唱するRYU。下は、ドラムを叩きながらThe Beatlesの「HELP!」を唄う僕。マイクを持ってくれているのはラーメン頭時代のNoRiMeR。

1987.10.18 新宿・JAM

この頃、キーボードに超人もっさんを迎え、一層のバカテクバンドに。

この時は遊びでボーカルを担当。サポートドラムはNoRiMeR。ブルースとフュージョンとBOOWYを演奏。当時、ジャンルにこだわってばかりいるヤツらが多くてウンザリしていて、そういうヤツらに「悔しかったら演ってみろ」という意思表示で、わざとジャンルを混ぜこぜで出演。

1987.11.1 リーダー、Kawai-chanの大学の学園祭

 

1988.11 リーダー、Kawai-chanの大学の学園祭

 

 

Vol.2に続く・・

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