まだ私を青春と呼ぶな!
THE KITCHEN OF SADNESS
12/24(木)25(金)SUNFONIX HALL in YOKOHAMA ARENA
2/11(祝)12(金)13(土)SUNFONIX HALL in YOKOHAMA ARENA再演決定
YOKOHAMA KID BROTHERS
ホールの入り口には、正面に恭兵さんの贈花がドーンと置かれている。隣には、長渕剛さんからのお花。
このツーショットは実はすごい。昔の週刊誌を思い出す・・・
全然関係ないことを頭から振り払い、もう一度正面の壁を見ると、「キッチン」のポスターの横に、「メロス」のポスターがもう貼られている。
横浜キッド、やはり本気だな。改めて嬉しさが込み上げる。
これから何十年ぶりに「キッチン」を観るという楽しみに、「キッチン」のあともKID作品が観られるという「将来性」が加わり、幸福感が増す。
スクリーンに、東さんの写真が映る。
開演だ。
たしか調理場に浩兵が入り込んでくるところからスタートだ。ストーリーは覚えている。
「キッチン」の復刻とはいえ、どのくらい当時の「キッチン」と同じであるか不安である。
もちろん、KIDの「キッチン」のイメージと重なれば重なるほど嬉しい。重要なポイントだ。
最初の歌は何だっけ?「Street Kid」だ。トシヒコの
「・・・あるときはコック、あるときは青年実業家・・・その実体は正義の人、飯田トシヒコ。またの名を、ストリートキッドだ!」
のセリフのあと「Street Kid」の速いイントロが入るシーンはまだ覚えている。
しかし、今回は、「Street Kid」は歌われず、BGMとして流れた。
BGMといえば、先ほどから「スティング」のトラックや「鏡の国のアンナ」など、当時KIDが使っていた曲を忠実に流している。
素晴らしい。さすが横浜キッドだ。
ウエイトレスのナオコと映画監督志望の浩兵との出会い。
浩兵「キスしようか」。ナオコ「女の子は名前の知らない人とキスしません」。浩兵「男の子はキスをしてから名前を聞くんだ」
の有名なやりとりのとき、近くの客席からかすかな声が聞こえた。
気に入ったのか、嘲笑していたのか、このセリフは現代ではどう聞こえるのだろう・・・
マモルとキリコは登場しないので、「シャム猫マーカス」はカット。これはしょうがない。
というわけで、最初の歌は「ポルシェ・スパイダー」だった。
浩兵役の小松さんがマイクを持つ。古いパターン・・・昔はマイクを持って歌っていた。
しかし嬉しいではないか。笛吹きの恭兵さん、メロスの恭兵さん、西園寺三太郎の恭兵さん、
みな、ソロを歌うときだけマイクを持っていた。それを再現してくれているのだ。
「なんで今でもマイクが必要なんだろう?」その疑問の答えはこれだ。ファンサービスなのだ。
続いて「ピア・アンジェリ」。坪田さんがシングルカットしたほどの歌を、今、渡辺瞳さんという若い女優さんが歌っている。
そして、浩兵のセリフがカッコイイ私の好きなシーンに入る。
「いいかみんな、人生を楽しく過ごすには、いつも映画に撮られてるって思うことなんだ」
浩兵が監督となり、調理場の全員で、映画のシーン撮りの物真似が始まる。
「生きることは戦いなんだ。自分は誰かに見られている。そう思って行動するんだ。
僕は君を見ている。悲しそうな君を。絶望している君を。毎日の生活に押し流されている君を」
そう言って、調理場の若者たちに、活き活きと動くよう指示する。
「Scrambled Eggs」が入り、前半幕前のシーンに突入だ。
浩兵はちゃんと赤いジャンバーを着ている。実はBGMだけでなく、衣装も当時を忠実に再現している。
それにしても小松さんは恭兵さんに似ているなあ。
だから当時の浩兵を観ているようで、本当にKIDの「キッチン」を観ている感じになり、感情移入もしやすくなる。
やはり当時を知っていて徹底的に仕上げてくれる横浜キッドならではの効果だ。
自転車が出てきて「冬のピクニック」のコーラスだ。いい歌でいつもジーンとくるが、この後のシーンも好きだ。
ナオコが打ったボールが海に飛んでいって消える。賑やかだったのが一転、しばし黙って海を見つめる全員。
ナオコ「私たち、何にもできないのよ」。浩兵「バカヤロー!」
このせつない青春シーン、みんな共感しただろうかと客席が気になりながら、
前半幕。
ポスター(PDF)
後半は、シェフと川崎のギャグシーン(峰さんと康友さんのコンビだった)から始まるはずなのだが、
今回はシェフ役がなく、チーフ支配人の川崎役だけを飯原さんが演じているので、このシーンはない。
代わりにアレンジされたのが、恭一だ。
昭和54年当時、浩兵の言動に反目がなかったことを脚色し、今回、浩兵に反抗する役として新たに位置づけられた。
つまり、ウェイトレスやコックたちに生き方を問う浩兵に「ウザイ」と突き返し、フラリと生きているその行動に対しても「フリーター」と呼び付ける。
「キッチン」は恭兵さんと三浦さんのダブルキャストだったので、元々「対決シーン」はなかったが、
今回は恭一との対決シーンのため、「二月のサーカス」のときの「闘牛士と革命家」のアレンジ曲である「Ole!」をここで挿入している。
これもKIDファンにとってはサービスではないか!こういったことも横浜キッドしかできないだろう。
「したいことをする。やりたいことをやる。それが幸せなんだ」という浩兵のセリフを合図に、「胸に響く言葉」のデュエットが始まる。
いつ聴いてもいい歌だ。しかし劇場でこのデュエットを聴く感動の違いをどう表現したらいいだろう。
綺麗なカクテル光線。「冬のピクニック」のときもそうだったが、私はこのカクテル光線に弱い。感動が強まる要因の一つだ。
「FILM」が歌われる。当時は川船さんが歌い、他の女性陣が傘を持ちながら並んでいるというシーンだ。今回も見事に再現されている。
浩兵が映画の話を断られるシーン。電話ボックスのイメージが強いが、ここは再現できない。携帯電話だ。
ここで聞き捨てならないセリフがあった。電話に向かって、「こんばんは、ぼく、柴浦浩兵ですけど」
柴浦?・・・「浩兵」は恭兵さんと三浦さんから作った重要な名前で、「オリーブ」や「サーカス」でも使われる。
名字は、柴浦だったのか!?・・・というか、名字あったのか!?
まさか「オリーブ」あたりで使われていて、それを今まで知らなかった!?
浩兵は携帯を折り曲げ、地面に叩きつけてから叫ぶ。新しい表現だ。「俺のことを誰もまだ青春とは呼ぶな!」
そろそろクライマックスだ。このあたりから涙腺が緩んでくる。
街を去ろうとする浩兵に追いすがるナオコ。
「たった1万円(当時は3千円)でどこに行くの」というナオコに対して、「どこにでも行けるさ」と言った後、
「『田舎に泊まろう』みたいに」とギャグを付け加える浩兵いや小松さん。
続いて調理場の若者たちが浩兵に向かって言う。恭一の思いは杞憂であった。
「あんたがいなくなったら、俺たち、どうやって生きていったらいいかわからない!」
「私たち、また明日からいつものように働き続けるのね・・・」
雪が降ってくる。これが次の歌の合図だ。「LIKE A HARD DAY'S NIGHT」
♪一日の仕事が終わると聞こえてくるよ A HARD DAY'S NIGHT キッチンのドアを開いて歩き出すんだ
何のために夜通し犬のように働くんだろう 哀しみだけを友達にして年老いていきそうな気がする
つらい夜を蹴飛ばして 死んだように眠りこけている街を起こしたい 死んだように眠りこけている自分自身に火をつけたい
まばゆいカクテル光線。雪が舞う。観客にせまってくるコーラス。手を差し延べ、涙を流し、鼻水を流し、つばを飛ばしながら歌う。
今回の横浜キッドの人たちもそれに劣らない。私はここで右の頬に涙が一筋流れた。
働き押し流されていた人へのメッセージソングだからだ。
社会人になって初めて観る「哀しみのキッチン」
だけど私は、前回59年(再演)のときと同様に、同じように同じ場面で感動できた。
単純に、夢と現実生活との葛藤。
30年経っても、東さんの作品は感動するではないか!
身をもって確信したのだ。
「いい顔だ。泣いてはだめだ!そのまま別れるんだ。振り向かず去っていくんだ!」
浩兵の演出どおり遠くへ去っていくナオコ。最後まで夢で生きることにした浩兵。
ひとりぼっちになる。
暗転し、
静かに「哀しみのキッチン」のイントロが流れる・・・
(了)
YOKOHAMA KID BROTHERS
横浜キッドブラザースとの出会いは、1982年、KIDの「ペルーの野球」のちらしの裏でした。
見てください。「ペルー」をご覧になっていた方もお忘れだったかもしれません。たった一文ですが、横浜キッドの存在を語っていました。
横浜キッドは、東さんの命を受け、こうして誕生しました。-東由多加から小松伸に充てた手紙の原文-
当時、東さんは、横浜キッドを始め、劇団ノニー、劇団キホーテ(ノニーと同じ)、大学の演劇部などに、KID作品を気前よく貸していて、
ぴあ誌上でチェックすれば、KIDの再演でなくても、意外と簡単にKIDのバックナンバーを観ることができました(千葉や大宮まで行ったこともありましたが・・)
次世代の若者にメッセージを広めようという、東さんの気概に違いありません。
ただ、横浜キッドに関しては、「キッドブラザース」の名前を貸すほどで、一線を画して、KIDの弟分と目していた節がありました。
案の定、横浜キッドは、当時できたばかりのWORKSHOPを中心に、「シンガポール」、「キッチン」、「藍の色」、「オリーブ」と次々に上演していきました。
当時のチケットに載っている小松伸さんが主役の恭兵さんの役どころで、現在は、役者では小松伸さんと飯原正巳さんの二人が残って、奇跡の復活を果たしました。
そして、再び、横浜キッドは、東さんのメッセージを乗せて、船を出したのです。
「哀しみのキッチン」が終わった後の、横浜キッドの次回作は・・・
小松さんも飯原さんももう決めています。もちろん・・・KID作品に決まってるじゃないですか!
「哀しみのキッチン」は、東京キッドブラザースの10周年記念作品として、1979年に上演されました。
全国的には最も観客を動員させた作品であり、1984年に再演されました。
ENDLESS KIDBROS.の「KID好きな芝居アンケート」(2001〜2004年;回答数200名)でも、1位になりました。
ちなみに、同時に行った好きな歌部門でも、「哀しみのキッチン」の曲がベストテンに4曲入っています。
今回、横浜キッドが「キッチン」を上演するにあたって、初演から奇しくもちょうど30周年になることに気づき、
私はこの偶然にまずは感動を覚えています。
東さんが亡くなり、東京キッドブラザースの公演がなくなってしまってから、また数年。
その間、ENDLESS KIDBROSを立ち上げながら、東さんのメッセージが風化しないことを祈ってきました。
また実際に、関係者による周忌イベント、文献の整理、レコードのCD化、ファンの集いなどの活動も行いました。
三浦さんは2006年、飯山さんは2005年、「東由多加に捧げる」と題して、それぞれ芝居を上演しました。
そして、今・・・ついに、KID作品そのものが上演されようとしています。
たしかに東京キッドブラザースの公演ではありません。
しかし、「哀しみのキッチン」が観られるという事実。東さんの作品に触れて感動が甦るという事実。
これが、何より嬉しく、いちばん大事なことなのではないでしょうか。
文責 イリちゃん(ENDLESS KIDBROS.)
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ENDLESS KIDBROS.
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