目が見えるということ

 「看護婦さん。俺、1階の喫煙コーナーで煙草吸っていて、整形で入院している人と話していたんだけどさ。そいつが片足ケガして何かと不自由だって文句ばかり言うから、おれ、言ったのさ。『あんたの片目をくれるのなら、俺の片足をやってもいいぜ』って」
 …そう私に話し掛けてきた彼は30代の働き盛り。右目が難治性の角膜疾患に侵されており、その治療の為入院していた。彼は、左目も数年前の網膜剥離によって著しい視野と視力の障害が残り、今回は大切にしてきた右目の視力を失う危機にさらされていたのだ。
 今まで見えていた世界が見えないこと。ぞれも、よりによって大切にしてきた右目の視力を失うかもしれないということ。様々な不安と葛藤が彼を支配し、看護師と話すときはいつもそのことばかり口にしていた。
 看護師の都合もかまわず延々と話す彼に閉口し、彼のもとへ行くことを敬遠する同僚もいたが、私は彼の気持ちに共感するところがあり、時間が許す限り彼の話に耳を傾けた。
 その時の“不自由な足と交換でもいいから、よく見える目が欲しい”という気持ちも、私には痛いほどわかるような気がして、
 「そうだよね、やっぱり目が1番だよね」
とうなずいていた。

 人間なら誰しも“健康で、体のどこにも不自由な部分がないまま生涯を過ごしたい”というのが本音であろう。
 けれど、例えばの話であるが、病気や事故のため体の機能のどこかに障害が残るとなった時、あなたはどの部分の障害に1番ショックを受けますか?
 “手足が動かなくなる”“耳が聞こえなくなる”“目が見えなくなる”…究極の選択で、この3つの中から1つを選べと言われた時にどれを選びますか?…もちろん、どれも嫌ですし、どれもあって欲しくないことです。(あくまでも、ここでは「例えば」の話をしています)
 手足が動かなくなるのも困る。思うように行きたい所に行けないし、日常生活もままならない。
 耳が聞こえなくなるのも困る。音のない世界は不気味で、外界から遮断された孤独と不安を感じるだろう。
 けれど、目が見えないというのが1番不自由かつ不安で、身体的にも心理・社会的にもダメージを受けると思うのは私だけだろうか?私は目が見えなくなると言うのが1番不安だ。
 人間は外界からの情報の約80パーセントを目から得ていると言われている。目が見えなければ歩行や食事などごく普通の日常生活さえも不自由となり、他人の援助なしには生活するのが困難となる。そして、美しい絵や自然の風景、大切な家族や大好きな人の表情を見ることが出来なければ、なんて味気ない世の中になるだろう。
 視力を失うということは、その人の生活や人生そのものが根底から問い直されるほど深刻な問題であり、当事者の不安と苦悩は想像を絶するものがある。それゆえ、「失明は死につぐ人生の不幸である」と言われるのだろう。
 私がその気持ちをどこまで理解し、近づけるかはわからないが、少なくともその気持ちに寄り添い、前向きに生きていく力を支えられたらいいなぁと思っている。
 もちろん、人生の途中で病気や事故のため体の機能の一部を失ってもなお、その事実を受容した上で、前向きに自信を持って生きている方も大勢知っている。そんな彼らのたくましさ、人間の強さに触れるたびに、障害は不便であってもそれ自体は決して不幸ではないと思うし、そうであって欲しいと願うからだ。

 冒頭の彼は、幸い治療の効果もあって、視力低下の進行は食い止められ、退院することになった。
 退院が決まってから、彼は私にこう言ってくれた。
 「右目もやられて前よりもっと見えなくなり、随分落ち込んだし、妻もだいぶショックを受けていた。でも、目が見えないからこそわかることが見えてきたような気がする。あなたは俺の話をよく聞いてくれて本当に嬉しかったし、元気づけられた。ありがとう。」
 …いえいえ、お礼を言うのは私です。こちらこそ、視力を失うことの恐ろしさ、そして人間にとって目がいかに大切であるかをあらためて教えてもらったのですから。そして、物理的な見え方だけが全てではないということも。
 私は、今日も自分を取り囲む景色や人・生き物たちが見えることに感謝しつつ、『心の目』で色々なことを見つめていきたいと思う。