2度目の正直 (2004年6月〜2004年7月まで)


2度目の受験を決意して(2004年5月〜6月)
5月20日、結局何もないまま登録期間を終えた時、自分の気持ちは整理がついていた。
過去のことにいつまでもこだわってもしょうがない、終わってしまったことは忘れ、次のチャンス(春募集)に全力を注ごう…と。けれど、自分の年齢やその他色々を考えて、この春募集で合格しなかったら、協力隊の夢はすっぱりあきらめることも決めていた。
そうと決めると心が軽くなり、それまで鬱々とした気分で待っていた日々が嘘のように、前向きに毎日を過ごせるようになったから、人間って考え方一つで明るくも生きれるし、暗くにもなってしまうんだな〜と、しみじみ思う。
ありがたいことに仕事も、一緒に働いていた保健師さん達に「夢が叶うまで一緒に仕事しましょう」と言っていただき、それまでの仕事を続けることになった。

5月25日、春募集受験用の健康診断を受けに行く。病院は前回と同じで、今回も待ち時間が長くて途中で居眠りしてしまった。検査項目は前回と同じだが、かかった費用は15850円也。…え?前回より約3000円も安いじゃん!なぜ〜〜?(前回分は『初診料』が含まれていたのだろうか?謎)
その2日後には、結果が出たから取りに来て下さいという電話がある。(早い!)結果は今回も健康優良児、体しかとりえがないというか…。
6月1日、一次選考の受験票や応募者調書などの書類が届く。2度目なので、書くのも早い早い…。ただ、志望動機については前回と一緒の書き方では芸がないなと思い、もう少しポイントを絞って書き直した。
ところで応募者調書の中に、前回の秋募集の時にはなかった『派遣希望国・地域』を書く欄が出来ていた。私は、自分の経験を活かせる場所ならどこでも良いという気持ちは変わりなかったし、アフリカもいいけどアンデスやパタゴニア、インカ文明のある南米も魅力的だな〜と思って、「どこでもいい」と書こうかと思った。けれど、“それじゃ主体性がないと見られるかな?”と思い、迷った末、協力隊を志すきっかけとなったケニアを思い出して「アフリカ」と書いた。けれど、気持ちは「無理かもしれないけどベリーズがいいなぁ」と思っていた。(秋募集で眼科経験のある看護師を募集していたベリーズの要請は、マッチする看護師がいなかったようで、今回も引き続き募集が出ていたのだ)

一次選考(2004年6月6日)
今回も第1日曜日が試験日で、前回試験会場に滑り込みセーフした私はドキドキしたが、会場が変わっていてホッとする。同じ山口市内だが、前回の県教育会館からちょっと離れたパルトピア山口で、フリーマーケットの影響がない場所だった。
けれど、何があるかわからないので余裕を持って出かけ、20分前に試験会場に着く。(…って、それが当たり前ですよね)
今回、この試験会場で受験したのは、全部で23、4人といったところか。直前で受験を断念したのか、かなり空席が多かった。
試験の形式・流れは前回と同じ。午前中に技術問題、午後から語学問題と適性テストが行われる。

技術問題は、前回と同じく大きく4つに分かれていて、1番目が〇×問題が5問、2番目が4つの項目が挙げられ、それぞれについて説明せよという問題、3番目が事例問題(尿路感染症が疑われる2歳男児の入院時のケアプランと看護について要点を述べよという問題)までは、前回と変わりなかった。ところが、1番最後の4番目は、前回は事例問題だったが、今回はプライマリヘルスケアの概念とその特徴(原則)、基本活動項目など知っていることを述べよ、という問題だったのだ。…( ̄□ ̄;)
実は試験の4日位前に、プライマリヘルスケアも含めて書かれた『国際保健』という本を読んでいた。…が、おぼろげながらプライマリヘルスケアの記述を思い出せるものの、具体的に書き出せないのだ。(いい加減に読んでいたのですね…)これまで得ていた知識とあわせながら多少は書いたものの、ハッキリ言って『ボロボロ…』。今回、他の問題はバッチリと胸を張って言えるが、最後が壊滅状態だったので、技術問題に関しては「手ごたえ今いち」だった。
語学テストも、今回も出題形式は前回と一緒だった。時間配分に気をつけて人造語問題から取り組み、全ての問題に挑めたが、出来は「まあまあ」というところだろうか。いずれにしても、55分間で解くには問題量が多いような気がして、あっぷあっぷだった。(周りでも「時間足りない〜」「全部出来なかった」という声が聞こえてきた)
適性テストは前回と同じものだったので変わらないでしょう。

総合的に見て、“う〜ん…。出来たようにもあるし、出来なかったようにもある”で、今回も一次選考突破に向けて、自信がないまま発表の日を待つことになった。

一次選考合格発表(2004年6月30日〜7月1日)
さて、今回の春募集から一次選考の合格発表は、当日正午頃にJICAホームページ上で合格者が発表され、合格者には当日発送の速達で、不合格者には普通郵便で、それぞれ通知を送られることになった。(レタックスによる合格通知は廃止)
ところが、私は3月にパソコンが天寿を全うされ、その後の精神的にごたごたした日々の中、新しいパソコンを買う余裕がなく、自宅でインターネットが出来ない状態になっていたため、6月30日の合格発表当日に結果を知ることが出来なかった。その気になれば、隣の山口市まで行けばネットカフェもあったし、友人に確認してもらうことも出来たのだが、もし不合格だった時にパソコン前で自分がフリーズするのがイヤで、郵便で通知が来るのを待つことにした。

7月1日夕方、仕事から帰ると、台所のテーブルの上に1通の私宛の封筒が置いてあった。封筒には『速達』の赤い文字とJICAの文字が…!
やった〜!ひとまず一次選考突破だ!
急いで封を開け、合格通知と二次選考関連書類が入っていることを確認し、ホッと胸をなでおろす。とりあえず次につながったというだけで嬉しかった。

アクシデント発生!〜おたふくかぜになっちゃった(2004年7月)
二次選考(7月23日)まであと1週間余りとなった7月15日の夜のこと。夕食を食べ終え1時間余り経った頃に、突然、空腹でもないのに生唾がわいて、“何かヘンだな〜”と思った。それから1時間ほどで生唾はわかなくなったが、左の顎、左耳の下辺りに違和感を感じ、押さえると痛みがある。
“まさか、ムンプス?”と嫌な予感が胸を過ぎる。私は子供の頃から今まで、おたふくかぜ(流行性耳下腺炎=ムンプス)に罹ったことがなかったのだ。けれど、その時点では腫れていなかったし、軽度の圧痛のみだったので、“顎関節症も考えられるかな?”とも思っていた。2〜3週間前の内に、おたふくかぜに罹っている子供などと接触した記憶もない。
ところが、布団に入る頃から痛みは増し、押さえなくても常時痛むようになり、寝ることも出来なくなった。手持ちのロキソニン(鎮痛剤)を飲むが、痛みは改善しない。“やばいな、やっぱりこれは…ムンプス?!”という考えが濃厚となっていく。
小児看護で習ったムンプスの知識を思い出す。潜伏期間は2〜3週間で、感染経路は飛沫感染・接触感染。症状は耳下腺部の腫れと痛み・発熱で、腫れは7〜10日持続。腫れている間は感染力がある…。
…?!ということは、もしムンプスだったら、来週23日にある二次選考までに治るの〜?!
やばい、もし二次選考までに治らなかったらマズイでしょう。腫れたまま上京するということは、ムンプスウイルスの感染力を持ったまま大都会の人混みの中に出るということになる。それは医療従事者としてのモラルが疑われ、マイナスポイントになりかねない。
かといって、治らないから上京出来ない…では納得いかない。二次選考は指定された受験日にしか受けられない一発勝負だ。やばい、やばいですよ…。

結局、痛みでほとんど眠れないまま朝を迎える。鏡で長いこと自分の顔を眺め、“やっぱり腫れてる…”そう、この頃になると左耳下腺付近が少し腫れてきていた。
大人になってからはしかやおたふくかぜなどになったケースを知っていたが、まさか自分もなるとは俄かに信じがたくて、半信半疑で出勤する。そして、保健師のNさんに昨夜からの状態を話し、「私のほっぺ、腫れてます?」と聞くと、「うん、腫れてるよ。やっぱりそうじゃない?」と言われる。ひぇぇぇ〜。二次選考を控えていることを知っていたNさんは、すぐに病院に行った方がいいと言う。結局、その日は仕事を休んで、真っ直ぐ病院に向かった。
ところで、“大人のムンプスって内科で診てもらうの?それとも耳鼻科?”と迷い、どちらもある病院に行って、受付で聞いてみる。すると、耳下腺だから耳鼻科と言われ、耳鼻科に回された。
病院に着いたのが10時過ぎだったが、そこは外来予約制で、飛び込みの私は後回しにされ、診察に呼ばれたのは12時近くになっていた。待っている間に左の耳下腺はさらに腫れ、右の耳下腺も痛み出し、体が熱くなっていくのを感じる。そうなると、これは間違いなくおたふくかぜでしょう…。
やっと診察に呼ばれた頃には、両耳下腺共に腫れていた。担当医に「どうされました?」と聞かれ、「おたふくかぜみたいなんです」と答えると、「あぁ、これはそうでしょうね」と言われる。…ガクッ。「確認のための採血(ムンプスウイルスの抗体量を調べる)をして、薬を出します。1週間後にまた来て下さい」と言われるが、1週間後は二次選考当日だよ〜(T-T)
慌てて、「来週の今日は大事な面接があるから来れません。それより、来週の今日までに治りますか?」と言う。きっと私、熱のせいで涙目の必死の形相だったんだろうなぁ…。先生、一瞬ぎょっとしたような顔になったが、すぐに「1週間後なら大丈夫でしょう。じゃあ、次は再来週の28日に来て下さい」と笑顔で言われる。(後日、再受診した時に採血結果を聞くと、ムンプスウイルスの抗体量が通常の10倍まではね上がっていて、「間違いなくおたふくかぜでした」と言われた)
家に帰って熱を測ると、38.5℃だった。遅めの昼食を摂ろうとしたが、口を動かすと激痛で、涙をこらえて食べることになった。

それから2日間ほど38℃台の熱が出たが、その程度の熱には何も思わないぐらいの激しい痛みに悩まされることになった。
そう、両頬はパンパンに腫れあがって人相が変わり、痛いの何の…。自分は結構痛みに対して強い方と思うが、それが身の置き所もない位の痛みを感じた。処方された鎮痛剤を飲んでも2時間しかもたず、氷嚢をあててなんとかこらえる…という状態が3日間続いた。何もしなくてもそんな状態だから、口を動かすとさらに激痛が走り、固形物は全く食べられない。3日間、ジュースやスープ、そしてプリンだけで過ごした。(ヨーグルトは酸味で生唾がわいて痛みを増長させた)

受診してから4日目の19日より、痛みが自制内に落ち着き始め、やっと少しずつ固形物が摂れるようになるが、相変わらず両頬は腫れている。二次選考受験のために上京するのは22日。後3日で腫れが引くのか、不安で仕方なかった。
しかし、日を追う毎に痛みも腫れも引いていき、21日はまだ少し腫れていたが、22日上京する日の朝には、完全に痛みと腫れが消失していた。
「良かった〜!これで安心して二次選考に臨める!」
…それにしても、もしおたふくかぜに罹るのが後2〜3日遅れていたら、どうだったことやら。前回の一次選考の滑り込みセーフといい、今回のおたふくかぜといい、私は直前にスリルを味あわないと試験を受けられないらしい。こんなスリルはもう結構なんですが(-_-;)

二次選考(2004年7月23日)
二次選考は、前回と同じ東京・広尾にある青年海外協力隊広尾訓練研修センターで行われた。選考方法も流れも前回と全く同じだ。
ただ少し違ったのは、前回は真冬の時期でみんなスーツを着ていたのに、今回は猛暑の真夏だったせいか、白いシャツやカジュアルな服装の受験者も大勢いた。(23日の東京は、最高気温が32℃と平年並みだったが、その3日前には39℃を越え、記録的な暑さになっていた)朝、広尾訓練研修センターに向かう途中、ポロシャツにジーンズ、ウエストポーチといういでたちの男性を見かけて、「まさか、受験者?」と思ったが、待合所に入り、彼が看護師として受験していることがわかった時には目が飛び出そうだった。男性看護師そのものは珍しくないが、服装に驚いたのだ。外見で人を判断してはいけないと思うし、選考開始前にもJICA職員の方が「服装で判断することはありませんから、暑ければ上着を脱いで面接を受けて結構です」と言っていたものの、周りがスーツやきちんとしたシャツ姿の中で、ポロシャツ・ジーンズは浮いていた。

待合所で、今回の面接の順番を確認すると、今回もグループ面接がトップバッターの10時開始…。ジンクスを信じるわけではないが、ナーバスになっていた私は前回と同じパターンに落ち込みそうになる。
必死に気持ちを落ち着けて、グループ面接に臨む。
今回も、最初に1分間で志望動機を言って下さいと言われる。一緒のグループになった看護師さん達、若い子が多いな〜とは感じていたが、「協力隊は子供の頃からの夢でした。就職して4年間経験を積み、やっと受験出来るようになったので受けました」と話す、看護師経験年数4〜5年前後の人が多くてびっくり。
協力隊の受験職種の多く(特に教諭職種や医療系職種)は、資格条件に実務経験を求めている場合が多い。看護師の場合は、実務経験3〜5年が求められることが多いようだ。そのため、学校を出て資格を取得してすぐ…というわけにはいかない。でも、子供の頃から協力隊を目指していた人は、必死に数年間働いて受験資格を得て、ようやく念願かなって…という熱意あふれる人が多いようだ。
なんか、それもある意味うらやましい…。夢一筋で頑張ってきた若さと純粋さがいいなぁ〜と思う。それに引き換え、私は看護師になってはや★年目(経験年数を書くと年齢がばれるので書かない・爆・でも10年はとっくに越えました…)、一体今まで何をしてきたんだか…。いやいや、寄り道回り道はしてしまったかもしれないけど、だてに年はくってません。色々な経験を積んできて、どんな大変な場面でも冷静で落ち着いていられる度胸だけは、誰にも負けません…。
最後に「自己アピールをして下さい」と言われ、私は迷わず(?)そのことを言った。
ちなみにグループ面接の『お題』は、前回の秋募集で、他の受験者さんが受けていたものと同じでした。ラッキー?!(爆)

グループ面接の後は、採寸、そして歯科検診・健康診断にまわる。
歯科検診は、虫歯治療が完了しているので大丈夫と思って臨んだのに、今度は「貴方、親知らずがありますね。一応抜いていた方がいいかもしれませんね〜」と言われる。…え〜〜っ?!(o_ _)oドテッ ちなみに、前回の歯科検診では『虫歯』と指摘された歯は、結局治療しなかったのだが、今回は親知らずのみで、虫歯の指摘は1本もなかった。(歯科設備が整っていない途上国に派遣されるので、通常より厳しくチェックされるとはいうものの、ん〜、つまり診る歯科医師の見解によって診断が随分変わるということ?まあ、歯科検診は視診のみなので、合格したら、検診結果を持ってあらためて歯医者できちんとした検査・診察を受けて治療するようになっているけど…)
健康診断は、“ひょっとしたらムンプスの腫れが残っていて、それを見抜かれて何か言われないかしら…?”とドキドキしながら受けるが、何も言われなくってホッとする。

技術面接は、今回は14:30からだった。面接官は、前回と同じでJICA職員風の男性と看護の専門家女性のペア。
男性の面接官から、前回と同じく派遣に関する確認及び調査書を基に、派遣希望国・地域、派遣希望隊次などを聞かれる。そこで「派遣先はどこでもいい」と答えた私に、「アフリカが希望じゃないんですか?」と突っ込みを入れられた。“え?”と思うが、彼の手に応募者調書のコピーがあるのを見て、応募者調書の派遣希望国・地域欄には「アフリカ」と書いたのを思い出す。「いえ、協力隊を志望したきっかけが去年ケニアを旅行したことだったので、調書を書いた時にはなんとなくアフリカがいいかなと思って書きましたが、基本的には自分の経験が活かせる所ならアジアでも中南米でもどこでもいいです」と答えると、男性面接官は、また志望動機に目を通されていたようで、「昔は看護師もケニアへ派遣されていたんですが、最近は要請がないんですよ。残念ですね」と、好意的な口調で言ってくださる。(“う〜ん、ケニアは好きだけど、別にそこまでこだわってないんだよ〜”…とは、私の心の声)
続いて、女性専門家から経験・技術についての詳しい質問を受ける。
ここでも前回と同じく、脳外科・眼科の混合病棟での、特に眼科経験について聞かれる。それで、今回は自分からベリーズの要請について自分はどうか?前回の秋募集でも眼科経験を聞かれたのだが…と、自分から売り込んで(?)みる。すると、女性専門家の方が少しびっくりしたように私を見て、「あら、じゃあ、前回も技術面接の担当は私だった?」と言われた。(看護師の技術面接は2部屋に分かれて行われていて、前回もその方が片方の部屋で面接されていたそうだが、私は別の部屋だった)前回の試験の時にニアミスしていた…という、たわいない話だったが、それを境に気さくに話しかけてくださったような気がする。
前回は、今の仕事の経験はほとんど聞かれなかったけど、今回は色々聞いてくださり、「貴方は巡回指導型の要請でも対応できそうですね」と言われ、好感触を得る。「巡回型は歩いたりすることが多くてきついですよ?」と男性面接官からも言われるが、今の仕事も結構歩く機会が多いし、昔から山歩きなどをしてきて歩くのは苦ではないと答える。さらに、女性専門家に「外科系病棟の経験が長いですね。貴方は内科系より外科系がいい?」と言われたりと、前回の面接より前向きで具体的な言葉が多く、ちょっとばかり期待感がふくらむ。

いい感じで技術面接を終えられ、最後に身分措置聴取に臨む。これも、もし合格して派遣が決まったら、派遣前訓練開始前に今の仕事を辞めるという職場の承諾は取っていたので、何の問題もなく終了する。

今回も16時前には終了した者から解散の指示が出て、帰れることになる。
後は8月12日の発表を待つのみ。でも、やるだけのことはやった。2度もここまでチャンスを与えられているのだから、これで合格しなかったら、自分には縁がなかったのだとあきらめられるだろう…。なぜか今回は、さばさばした気分で東京を後にし、発表までの日々を待つことが出来た。