応募するまで (〜2003年10月まで)

青年海外協力隊を知る
『青年海外協力隊』を知ったのは、小学校高学年頃だったと思う。
その当時から看護師になりたいという目標を持つと同時に、読んだ本の影響で“開発途上国で貧困や病気に苦しむ人を助けてあげたい”という夢を持っていた。
どうやって協力隊のことを知ったのか忘れてしまったが、多分そんな夢を持っていたから、そういう情報に関心が向いていて知ったのだと思う。
けれど、その後中学・高校と進むにつれ、私は一つの壁にぶち当たり、“私には実現不可能な夢”と思うようになっていった。
その壁とは『英語』。そう、私は中学・高校時代、5教科の中では英語を最も苦手としていたのである。成績が悪ければ英語も嫌いになり、学習意欲を失う…という悪循環をたどり、“英語が出来なければ開発途上国で活動する夢なんて無理無理”と思い込むようになった。
そして看護学校に進学、就職後は、老人看護や緩和ケア、そして訪問看護に興味を持つようになり、日々の忙しさに追われ、いつしか夢を思い描くことはなくなっていた。
たまに新聞広告や看護系雑誌で、『協力隊募集』の案内を見ても、“自分には遠い世界だ…”と思っていた。

きっかけはケニア旅行(2003年1月〜3月)
色々な想い・考えがあって、それまで10年以上働いた某総合病院を退職したのが2002年12月末。それをきっかけに、その病院で働いていたら出来ない長期の旅行をしてみたいと考え、行きたい場所の1つであったケニアを訪れたのが2003年1月である。
その旅行記は『さまよう風』に加えているが、それを書いた当時、自分の胸の中で消化しきれず、とうとう旅行記に書けなかったことがある。
それは、ケニア旅行中、行く先々で子供、時には大人達に物やお金を求められた(ねだられた)ことについてである。「アナのロバ事件」や「ナマンガの土産物屋の兄ちゃん」など、いくつかの『事実』については旅行記にも少し書いたが、それに対して自分が何を感じ、何を考えたか…。それらについては自分の胸の中を漠然とさまよっていたが、モヤモヤとしたまま、自分の中で明確な想い・考えにまとめることが出来なかった。
胸に抱いたモヤモヤ感は、忘れるどころか次第にふくらみ、いつしか自分の心の中に大きく占めるようになった。何度もケニアで出会った人々のこと・拙い英語で彼らと話したことを思い出し、自分の想いを反芻していくうちに、ある疑問にたどり着いた。
物やお金をねだる子供に大人、そして仕事がなく、ただ何もせず1日を過ごす大人達…。その事実を思い出す度、“彼らが求めるまま簡単にお金や物を与えていいのだろうか?お金や物を与えれば一時的に満たされるかもしれないが、本当の幸せや自立につながるのだろうか?”という疑問が湧いてきた。同時に、自分が抱いた疑問は先進国で物に恵まれて豊かな生活を送る者としての驕り、一種の差別感ではないのだろうか?とも悩んだ。
けれど、お金や物がどうとか言う以前に、私はケニアで出会った人々が好きだった。確かに、“リッチカントリーから来た旅行者なんだからお金・物を持っていて、自分達にくれるのは当然”という態度丸出しで金品を要求してくる人に腹の立つことはあったけど、根は素朴でおおらかな彼らの素顔に魅了されていた。
ケニアを旅している時から、もっともっと開発途上国で暮らす人々の生活を知りたい、そこで人々は何を考え、何を求めながら生活しているのかを知りたい、そして本当の豊かさって何だろう…?と考えるようになっていた。
これまでにもメディア等を通じて、貧困や内戦等に苦しむ人達がいることについては知っていたつもりだったし、ユニセフ募金等も行ってきた。それはそれで良いことだとは思うが、ケニア旅行以後の私は、それだけでは満足出来ない、もっともっと深く関わってみたいと思うようになったのである。

そんな風に考えながら過ごしていたある日、たまたまTVで、青年海外協力隊平成15年度春募集のCMが流れているのを見た。そして見た瞬間、“これだ!”と思ったのは、自然な成り行きだったと思う。
それからインターネットで協力隊やNGOの海外ボランティアについて調べ始めた。調べていくうちに、自分の看護師としての技術・経験を活かし、開発途上国で暮らす人々の生活に有益な活動をしてみたいという想いは日毎に高まっていった。
けれど、ここでまた昔の挫折に立ち戻らざるをえなかった。そう、ケニア旅行でも『珍グリッシュ』に身振り手振りで『会話』していた私の語学力である。こんな語学力では、活動どころか生活も出来ない…。勿論、言葉が出来れば良いというものでもないし、言葉が全てではない。ケニアを旅して教えられたことは、「言葉が喋れなくてもコミュニケーションはとれる、けれど相手のことを深く理解しようと思ったら言葉は大切である」ということである。
まずは自分の語学力をどうにかしなくては何も始まらないと考え、某語学スクールに通い、英会話を学ぶようになったのが2003年3月である。

募集説明会に行く(2003年5月)
語学の勉強を始めたものの、一朝一夕でペラペラになる…わけがない。けれど、NGOボランティアの多くは、参加条件に高レベルの語学力を求めているものが多く、自分がすぐ挑戦するのには無理があった。しかし、協力隊体験者やJICAのホームページを見ると、協力隊の選考試験の語学レベルは中学卒業から高校程度で、決して高くない。そういった理由からも、自分が目指すのは協力隊だと思うようになった。
けれど、協力隊ではどんな所に派遣され、どういう風に生活や活動をするのか、自分が協力隊の隊員に選ばれる可能性はあるのか…など、漠然とした不安や疑問があった。
そんな時、JICAのホームページで、隣の市で平成15年度春募集の募集説明会が開かれることを知り、“まずは話しだけでも聞いてみよう”と軽い気持ちで出かけた。
説明会は、最初に隊員活動紹介ビデオが上映され、協力隊の事業内容や応募にあたっての注意事項が簡単に説明された。その後、協力隊OB・OGの方が5〜6人来られており、OB・OG1人ずつに分かれて、体験談や質問を聞くことが出来る時間が約50分間設けられていた。
しかし、当日その会場に参加されていたOB・OGは体育や理数科教師など他職種の隊員で、看護師隊員はいなかった。他職種の隊員の話を聞いてどの程度参考になるかなぁと思っていたら、他にも3人程看護師さんが来られていて、その方達と一緒に、協力隊経験者でJICA職員の方から、協力隊全般や看護師隊員の話について聞くことが出来た。
そして、自分にとっては1番の問題である『言葉に関する不安』について聞くと、「やる気と気持ちさえあれば、言葉はどうにでもなる。派遣されるのは必ずしも英語圏ではなく、派遣前訓練で語学は学べる」と言われ、「貴方は経験もあるし、動機もしっかりしているから、ぜひ受けてみたら」と勧められた。それは、ほんのちょっぴりの自信を与えられ、それまでの迷いから“協力隊の選考試験に挑戦してみよう”という明確な決意に変わった。
けれど、どうしても言葉の不安は拭いきれず、平成15年度春募集の願書は貰って帰ったものの、応募することはなかった。

応募を決意する(2003年10月)
5月の募集説明会以降、協力隊を受験するという意思は徐々に固まっていった。語学スクールで英会話能力を磨きながら、説明会の会場で買った過去の語学試験問題集を解くうちに、“ひょっとしたら行けるかも…”という想いも出てきた。
そんな中、平成15年度秋募集が始まり、10月最後の日曜日、隣の市で募集説明会が開かれることを知った。
応募するための願書は、県庁や県国際交流協会でも手に入れられるが、どうせならまた話を聞いて、ついでに願書も貰って帰ろうと思い、再び説明会に出かけた。
説明会の流れは春と同じだったが、今回は看護師隊員のOGが参加していて、看護師隊員の活動について色々聞くことが出来たのは収穫だった。彼女は2001年4月から2年間、バングラデシュの小児病院で活動された方で、現地の写真を見せながら話をしてくれて、これまでの漠然としたイメージが少しずつ具体的な形に見え始めたような気がした。さらに、彼女にも「貴方は経験があるから、十分合格できますよ」と言われたのも励みになった。
そして、その会場でもらった応募願書を大切に抱えて帰った。今度こそは受験する…という決意と共に。