LABORATORY OF THEATER PLAY CRIMSON KINGDOM
雄蜂の玉座 公演記録
第壱次補完計画 『雄蜂の玉座』
【時】 2003年5月16日〜18日
【所】中野 スタジオ・あくとれ
【スタッフ】
作・演出…野中友博/音楽…寺田英一/美術…松木淳三郎/照明…中川隆一/照明操作…浜名理良/宣伝美術…KIRA/舞台監督…小川和志/音響…山口睦央/制作・在倉恭子
【出演】
父…小林達雄(岸田理生カンパニー)/長男…中川こう/長女…鰍沢ゆき/次男…鈴木淳/妻…北島佐和子/息子…佐々木勉/娘…駒田忍/伯父…阿野伸八/生徒…佐藤由美子/母…雛涼子(岸田理生カンパニー)
【概略・備考】
紅王国の内省的研鑽を目指して企画された補完計画の第一弾。紅王国としては、初めて現代日本を舞台とし、引き籠もりやパラサイトシングル、テクノハラスメントによるリストラといった、極めて今日的な題材をちりばめ、家庭崩壊とは違う家族解散という結論へと向かって行った実験作。作者、野中友博にとっても、22年ぶりのリアリズム作品であり、その成果は、かなり広範囲な支持を獲得した。普段の漆黒の装置とは異なる、生の木材を使った装置も注目された。
一種のアトリエ公演として、短期間の上演であったが、それを惜しむ声が多かった。
【チラシ文】
ミツバチのオス、つまり雄蜂は無精卵から生まれて来る。そして、女王蜂との交尾以外には存在理由が無いので、普段は巣の中で遊び暮らしている訳だが、冬を前にすると働き蜂によって容赦なく排除される。まるで、リストラで会社から追い出され、収入が断たれて家からも追い出されてホームレスになってしまうオジサン達を連想させる。
「オジサン達に元気がない」そんな言葉をここ数年良く聞いている。私も医学的には中高年と云われる年齢に、とうに突入している訳なので、そうした意味ではオジサンとかオヤジと呼ばれたって仕方ないのだろうが、精神的にはガキンチョのような物なので元気のないオジサン達に共感もしないし同情もしていない。実際、オジサン達がオジサンとして元気になるという事は、父権の復権という事を意味している訳だから、気に入らない事があったら卓袱台ひっくり返して怒鳴り散らし、殴りまくるという星一徹のようなオヤジをみんなで認めてあげなくちゃならない……そんなのは迷惑千万な話しだと思っている。
今から一年ちょっと前に、『御蚕様』という昭和初期を舞台にした芝居を書き、父権的な思い込みで行動する『男』を徹底的にコケにした為、私がフェミニズムを唱えているのだと誤解されたらしい。私はフェミニストなんかじゃない。ついでに云っておくと、今回は父権が風化しつつある現代を描こうと思うが、メンズリヴなんて事を主調しようとも思っていない。オジサンはオジサン以外の者になって貰いたいと思っているが、どうしたら良いのかと聞かれても私には答えられない。結局、自分の生き方は自分で決めて下さいと云うしか無いのだろうから……
※
今回は、いつもと違って現代の病巣を過去に投射して幻想的な物語を構築する……といういつもの作業をやっていない。現状の台本構成は現代日本を舞台にした九割方リアリズムの対話劇である。残り一割は紅王国特有の美意識に向かって行くであろうが、前回の第七召喚式『女郎花』で徹底的に様式美に拘った分、現代を現代で対話を描く、という事が今回、私が自分自身と劇団に課した「補完」である。
【パンフレット文】
「オジサン達に元気がない」
チラシの文書に書いた事と重複してしまうかも知れないが、やはりここから始めるしかない。
どうやらオジサン達には元気が失われているらしい。今年の年頭頃だが、「オジサン達に元気がないので、オジサンが集まって元気に芝居をしようと思う」というような一文がパンフレットに書かれた芝居も観たりした。要するに、オジサン達に元気がないという事は、どうやら客観的な事実と云えるほどに確かな事らしいし、それが声高に叫ばれるという事は、オジサン達に元気がないという事を憂いている人々が確実に存在しているという事なのだろうと思う。
だったら、元気なオジサンとはどんな人達なのかというイメージが、それらの危機感を持っている人達にはあるのだろうと思うが、それが私にはサッパリ解らない。オジサンという言葉が中高年男性を単純に示すのであれば、ミック・ジャガーもビル・ゲイツも野田秀樹も元気なオジサンという事になるが、彼らをオジサンと呼ぶ事には私は躊躇いがある。妙な云い方だが、あの人達は単に齢を重ねた天才少年や不良少年に見えてしまうからである。所謂精神的にオジサンに達した人達で、尚かつ元気なオジサンと云うと、ブッシュ・ジュニアやサダム・フセインや小泉純一郎のような戦争やっちゃえ系の人しか思い浮かばない訳で、だったらそんなオジサン達に元気でいられるのは百害あって一利無しと思えるのである。あっ、星一徹っていう例もあった。
オジサンは……或いはお父さんは、当たり前に偉い存在では無くなってしまった。多分、その事が常識となりつつある。当たり前だ。何故なら、お父さんやオジサンが偉いのだという絶対的な根拠なんて無いのだから……
その事に気付いた、お母さんや息子や娘達はお父さんを蔑ろにするようになったのかも知れない。そして、蔑ろにされているお父さんやオジサン達が、単純にその事に憤るのではなく、自分達の「エライ」理由なんて無いのだという事に皮膚感覚で気付き始めた事……それがオジサン達に元気がなくなった事の理由の一端ではあるかも知れない。でも、そんな事を分析したって、誰も救われないし、オジサン達が元気になれる訳ではない。そもそも、オジサンに元気を回復して欲しいと望んでいるのは、当のオジサン達だけだろうと思う。オジサン以外の誰もがオジサンに元気になって貰いたいとは思っていない筈だ。元気なオジサンやオヤジというのは、無条件に偉くて無条件に我が儘な存在だからだ。
今にしてみれば、どうして昔はオジサンだかお父さんだかが無条件に偉かったのか、サッパリ解らない。というのは嘘で、実は昔は「社会」という物の情報を独占していたから権力を持てたのだ。女性や子供には、地域や世間とはアクセス出来ても、社会とのパイプを持たなかった。権力とは情報の集中だ。そして、情報を独占していた時代のオジサンにとっての社会とは、即ち軍隊であったのだと思う。
それが、元気なオジサン達が戦争をやりたがる理由ではあるまいが、少なくとも「お父さんはエライ」という理不尽な権力構造と、軍隊の理不尽な権力構造は、何となく似ているよなあ……と、思っている。
で、そういうお前はオジサン達にどうしろと云いたいのだ、とか、オジサンに何が云いたいのだと聞かれても、なにも云いたい事なんかありませんと云うしかなかろうと思う。オジサンはどうすればいいのだと聞かれても、答はやっぱり「判りません」だ。
今回、演劇実験室∴紅王国では初めて現代日本を舞台にした。これまで、私が過去の日本を作品の舞台として選んできたのは、作者の代弁者としても物の怪が、美しいオベベを着たあやかしの女として登場するという話が好きだから、というのが最大の理由ではあろうが、現代を舞台にすると、「多分、この時代はこんな風に私には見えています」という事の先が書けないからだったのでは無いかとも思っている。現代への処方箋なんて書けっこない。それは、景気が悪いという事を誰もが認識していて、そのうちの大多数の人達が、その事実を良くない事だと思っているにも関わらず、有効な手段が何ら打てない……そんな事に似ているのかも知れない。
……という訳で、殆どリアリズムの現代劇というのを、およそ22年ぶりに書いてしまいました。このペースだと、次にこういう事をやるのは、また20年先です。今回、劇場に足を運んで下さった皆さんは、ある意味で大変珍しい物を目にした事になりますが、それが良い事だったのかどうかの答は、どうか皆さん自身で出して下さい。
次回はシベリア出兵の時代を舞台に、またお化けの出て来る噺を書こうと思っています。こちらも宜しく。
【劇評等】
野中友博=作演出、紅王国公演『雄蜂の玉座』(中野、スタジオ・あくとれ)は、この作者には珍しい現代モノ。ゴシックホラーのように入念な装置に特色を出す作者だが、今回は真新しい材木で床を張り、柱をめぐらし、ベンチが置かれているだけ。削りたての木の香りが空間を満たしている。
ベンチでは、白服に日傘をさした夫妻(小林達雄+雛涼子)が自分達の穏やかな日常の幸福を確認し合うように静かに語り合っている。
このプロローグが暗転した後、舞台には黒服ばかりの人間が登場。プロローグの妻は急逝、遺族達が火葬場から帰ってくるのを、妻の兄(阿野伸八)たちが待っている。やがて帰宅した父親(プロローグの夫)は、まだらボケが始まっていた。家を別に構えている長男(中川こう)は、弟(鈴木淳)が引きこもりで葬儀にも出ず、妹(鰍沢ゆき)も独立せず実家にパラサイトしている現状に腹を立てて封建的家長カゼを吹かせ怒鳴りまくる。すると引きこもりの弟が出てきて報復の言葉を次々浴びせ、長男の妻(北島佐和子)も離縁すると言い出し、その息子(佐々木勉)も、家庭が経済的苦境にあるなら、パティシエを目指して住み込みで働くと長年の夢を持ち出す。家長の面目をつぶされた長男は「パティシエってなんだ、わけのわからんことを言いやがって」と激怒、肉親の死が各人のタガを外してしまったような喧噪を巻き起こす事になる。
9人の人物が一同に会しながら、会話の組み合わせ方が大体において1対1で進行。一つの話題にもっと多くの人を参加させるよう、もう少し、技巧的になってもよいように思われた。
事態の紛糾を救ったのは父親で、「我々一ノ谷家は本日をもって解散する!」と宣言。あっけにとられつつも、一同は、これからもっと自由に血縁を超越した信頼関係を築こう、それを語り合う場所を母親が用意したのではないか、と遺影を見上げる。ホロッとさせる結末である。葬式は作家の創作意欲を刺激するのか、今年3作目の葬式芝居の観劇だ。喧嘩の台詞が生々しかったので、観劇後、作者に聞いてみた、「最近、お身内にご不幸でも?」と。「猫が死んだぐらいかな」と作者。
【舞台写真館】