『雄蜂の玉座』 秘法典より


さくらももこの『ちびまる子ちゃん』からスピンオフした作品に『永沢君』というのがある。永沢君はシニカルな言動で人気を博しているタマネギ頭の少年で、家が火事になった事によるトラウマを抱え、卑怯者でいつも唇の青い少年、藤木君といつもつるんでいるが、特別に仲が良いようにも見えない。そして、『永沢君』は、そんな永沢君達の中学三年生の時代を描いている訳だが、同級生の女子の会話から
「適当に就職して適当に働いて結婚かなあ……」
という部分を耳に入れて、友人なのだがなんだか解らない藤木君とこんな会話をする。うろ覚えだが、だいたいこんな感じだ。

永沢「藤木君、君も将来は適当に就職して、適当に働いて結婚かい?」
藤木「そう思うよ。男は結婚してからも働かなきゃならないけどね」
永沢「まるで働き蜂のような一生だね」
藤木「うん、働き蟻にも似ているね」

昔は、勤勉で働く事しか知らない日本人(或いは日本人のサラリーマン)を揶揄する言葉として、「エコノミックアニマル」という言葉と同時に、「働き蜂」という言葉が使われた。云うまでもない事だが、働き蜂は全て雌である。女王蜂と働き蜂の違いは、生殖能力の有無にしか無いし、幼虫時代の食物が、ローヤルゼリーであったか、密と花粉であったかという事だけが、その蜂が女王蜂になるか働き蜂になるかを決めるのだという。つまり、特別に女王蜂が生まれて来る卵という物は存在しないらしい。

ちなみに雄の蜂は、全て無精卵から生まれて来る。人間のような高等生物の場合、単性生殖で分裂を始めた卵子が個体としての生存能力を持ち続けるという事は難しい。仮に、誕生する事があったとしても、染色体を半分しか持っていないので、単純な病気で死に至る。そういう物がオスになるのだという事実は、世の男性達にとって心穏やかな事とは言えまい。また、雄蜂の役割は女王蜂と交尾をする事だけなので、蜂の巣の中では、何もせずに遊び暮らしている。御隠居さんのような生活だが、食糧事情の厳しい冬を前に巣から追い立てられて死滅する。タツノコプロのアニメ『みなしごハッチ』に出て来るように、王様として君臨していたりはしない。

もう随分前から、平日の、ある日に、公園で仕事もなくボーっとしている中高年以上の男性達を見ていて、そこに「雄蜂」のイメージを重ねるようになった。リストラされて職場から追い出されてしまうサラリーマンは、冬の日に巣から追い立てられる雄蜂のような物だ。蟻と蟋蟀の寓話を書いたイソップは、現代日本のこんな現状を、どんな寓話にするだろうか?

蜂や蟻は女王蜂や女王蟻を中心にした社会昆虫だが、一つのコロニー(巣)に帰属する働き蜂や兵隊蟻の全てが、同じ女王蟻や女王蜂から生まれた家族であると云われている。ミツバチ等一部の蜂には「巣別れ」というような習性もあるから、一時的には新しい女王蜂に、同じ母から生まれた姉妹達が従属しているような状態もあるだろうが、女王蜂や女王蟻の長命さを考えれば、いずれはまわりは娘達だけになる。兎に角、働き蟻や働き蜂のアイデンティティー、特定のコロニーに帰属する働き蜂(或いは働き蟻)であるという以外に変えようがない。

「働き蜂」と呼ばれてきた一般のサラリーマンにはどんなアイデンティティーがあるだろう? 普通の成人男性が初対面の人物に自己紹介する時は、名刺を差し出して「私はこういう者です」と云う。そこには大きく会社の名前があって、部署の名前があって、地位や役職のあとに名前があって、連絡先がある。名刺には、大概そういう事が書いてある。だいたいこんな感じだろう。

株式会社 如月蜂蜜製作所
第二営業部

次長 永 井 恵 一

各種蜂蜜・純正ローヤルゼリー・養蜂製品卸売

〒***-**** **区***1-2-3
ダイナミックビルヂング

第二営業部直通
TEL.03-****-****
FAX.03-****-****
代 表.03-****-****
E-mail:nagai@kisaragi-honey.co.jp

こういう名刺を渡されれば、「ああ、この人は如月蜂蜜製作所という会社の第二営業部で次長をしている永井さんという人なんだな」と思って、何故か納得する。受け取った相手がキャバクラのお姉ちゃんだったりしたら、「蜂蜜を作っている会社の営業をやっている次長さんの給料はどのくらいかしら」と計算するかも知れない。尤も、アンケートや履歴書、国勢調査などでは職業欄に「会社員」と書くぐらいの情報でしか無い訳だが、最大公約数としての「会社員の永井さん」あるいは「管理職の永井さん」というのが、公の場での永井恵一さんステイタスであり、おそらく、自他共に認めるアイデンティティーだろう。

実は、こんな事では永井さんが何者なのかは解らない筈なのだが、社会も、また永井さん本人も、あまりその事を深く考えたりはして来なかった。第二営業部の次長、或いは管理職という立場が、「蜂蜜を売って来い」と云えば良いだけの人なのか、部下を連れて蜂蜜を売り歩かなければならない人なのかは解らない。電子メールのアドレスから、パソコンを使える人なのだろうとは思うだろう。ただ、次長クラスが自分のアドレス(或いは自分に支給される端末)を持っていないという事では、会社の規模が疑われる。それにしてもまあその程度である。彼がどんな夫だったり、どんな父親であるかという事は全く解らない。

かつての日本社会は、企業戦士であるサラリーマンがどんな家庭人であるかという事は、あまり問題としてこなかった。多分、当人にとっても、或いは会社組織にとっても、「仕事と私生活は別」という約束事が建前としても実質としても認知されていたからだろう。会社は家庭の事情にお構いなく転勤を命じてきたし、社員は諾々として従ってきた。「単身赴任」という現象は、欧米ではおそらく無い。逆に、欧米では、その人物がきちんとした家庭生活を営んでいるかどうかという事を、一つの物差しとするところがあって、三十を過ぎても結婚しないでいたり、離婚を繰り返していれば、人格や性格に何らかの問題があると判断されるし、同性愛に対する差別も思いの外強い。公式なパーティーは、大概の場合夫人同伴である。

ただ、ここ数年の日本型企業は個人の私生活を問題にする事が多くなってきた。欧米かぶれの人々による、私生活の充実という事がバブル期に声高に叫ばれたという事もあるだろうが、実際には、家庭に問題を抱えている社員が、閑職に追いやられて、退職への無言の圧力をかけられるというような現象として現れている。あらゆる事をリストラの口実にする為だから、その現れ方は陰湿だ。故に、日本のサラリーマンは、これまで以上に私生活を組織や同僚から隠すようになった。表裏一体に、仕事の不都合を家族に知らせる事は無い。

「大丈夫だ。心配するな」

昔は、そう云って闇雲に頑張っていれば良かった。時代はそのような事では乗り切れないというように変わってきているが、世のお父さん達の大半は、未だにそのような事に気付いていないという事にあるのだろう。彼らは未だに「大丈夫だ。心配するな」と言い続けている。雄蜂の悲劇はそんなところにもある。

雄蜂(それもミツバチの雄バチ)を英語で表記すればDroneであるが、この単語には「他人の働きで生活しているのらくら者」という意味もある。「物憂げに歌う」とか、「うんざりする程淡々と話す」というような意味もある。世の男性が雄蜂になってしまうとしたら、それは自立の基盤を失ってしまうという事だろうと思う。それは定年による退職かも知れないし、リストラによる失職かも知れない。何処かの会社に帰属しているという事が自明であった人は、すんなりと『家』の中でブラブラしている人にはなれないだろう。

組織に帰属している事は、会社でも劇団でもサークルでもそうだろうが、自分が何者であるかという命題に向かう事を疎外する。これは読んだ知識なので本当かどうかは分からないが、中高年の男性達が「自分は何者か」或いは「自分は何者だったのか」という問題について内省を始めるには、仕事や家族を失うという喪失感から始まる事が多いらしい。

中高年離婚は特に理由もなく起こるようだ。要するに夫の定年退職を機に「今までは我慢してあなたと暮らしてきましたが、子供も独り立ちしたし、あなたと生活していてもつまらないので別れて下さい。ついては退職金を半分下さい」という妻からの要請で離婚するケースが多いらしい。こういう事が起こり始めた頃は、「仕事も終わったし、これからは家族とのんびりと……」というような人生設計を描いていたオジサン達には大ショックだった。今ではどうだろう? 世のオジサン達にとっては、そういう可能性も、あり得る現実としてインプットされているのだろうか?

都市部の核家族では母子密着という形の親子関係が多いらしい。それは夫であり父親である男性が、子育てを含めた家事全般を配偶者に任せてきた事にも原因があるのだろうが、一概にその父親が悪いのだとは言えないと思う。高度成長の時代には、日本のお父さん達は遮二無二に働いていた。平日は残業をこなし、休日は仕事の延長としての接待ゴルフなどがあった。そして今、リストラの影響で、社内に残った(残れた)人達には、同様の過剰労働が強いられている。だが、いくら原因を云々したところで仕方がない。母子密着型の家庭では、やはり父親には居場所がない。

いつも家にいないお父さんが「久しぶりに休みが取れた。予約が込んでいて滅多にとれないペンションも押さえたから一泊旅行に行かないか?」という提案を家族にする。お父さんは、当然だが、大喜びする子供達という絵を想像している訳だが、そのような筋書き通りには進まない例は多々ある。妻にしろ子供にしろ、「父親がいない家庭」という状況に日々耐えている訳ではないからだ。父親が不在の家庭は、その状況を当たり前の事として適応していくだろう。誰だって、いないお父さんを当てにした生活は続けられない・父親が家庭にいないという事に耐えているのは、案外、お父さんその人本人だけだったりする。

そこには多分、「父権的な権力構造は機能しなくなっている」という単純な事実があるのだと思う。旧型の組織は未だに父権的な権力構造を残しているし、お父さんという人種は、おそらくその父権的な権力構造に従って生きている。会社に庇護される為には会社に忠誠を尽くさなければならない。そして、同様に、家族に対して父権への忠誠を要求する。崩れているのは多分その事で、それが最小の共同体である「家族」から始まっているのに過ぎないのだと思う。

「オジサン達に元気がなくなった」という言説を良く聞くようになった。それは多分、父権が喪失しつつある現代で、父権以外に拠り所を持たない中高年男性達が自身を喪失しているという事と関係がある。「このままではダメだ」とか、「今までのようには行かない」という事を、オジサン達は本能的に、或いは触覚的に悟っている。しかし、どうすれば良いかという事が判らないし、そのような事を誰もアナウンスしていない。結果として、オジサン達は去勢されたように萎縮している。

そこで叫ばれる事が「父権の復権」であったり、「オジサン達も元気を出そう」というような気合いめいたかけ声である事が、今日の救いがたい状況を助長しているのだ。そこには、「オジサン以外の何かになる」とか、「父権という意識を突破する」というような発想は無い。オジサン同士がオジサンであるという状況を共感しあってほのぼのしているという構図には、オジサン以外の人々は共感出来ない。だから、私はメンズリヴについて書こうとは思わないし、敗者の美学を綴るつもりもない。

おそらく、この物語は、『男』というプライドを守ろうとするオジサンと、周囲の人々の意識のズレを描写するという事から始まる。そこには、「果たしてコミュニケートは可能なのか」という、もっと大きな問題を孕んでいくのだろうと思う。正直なところ、帰結するところが何処なのかは、まだ私にも見えていない。

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