《7》神々のDNA(2)
もう随分前の事だが、とあるラーメン屋で、店主からこんな話を聞いた。ある外国人のお客さんが、チャーシュー抜きのラーメンを注文した。そのお客さんが言うには、信仰上の戒律で豚を口に出来ないからだという。彼は、その後、何度もその店に足を運び、チャーシュー抜きのラーメンを美味しそうに食べているそうな……
「スープにだって豚は大量に使ってるんだが……そっちの方は良いのかねえ?」
笑い話のように始まった話なのだが、我々が事の重大性に気付くのに、そう時間はかからなかった。その時は、スープの中身は教えない方が良いだろうというような話になったと記憶している。もう食べてしまったのだし、知らない方が幸せだろうと、その場のみんなが思ったのである。だが、その判断が正しかったのかどうか、どうも自信が持てないでいる。
ラーメンは今や国民的な食べ物である。前述の店に限らず、日本に滞在する外国人のお客さんも少なくはあるまい。国民的どころか、国際的な料理にだってなり得るだろう。色々と語りたい事はあるのだが、今回はラーメンの話では無い。チャーシュー抜きラーメンとスープの中身をめぐる一件を、汎神論的多神教文化と、唯一神文化のすれ違いを象徴する具体的な出来事として取り上げたいのである。「知らぬが仏」というのは、日本的文化土壌でしか通じない感覚かも知れないからだ。
ユダヤ教をルーツとする一神教はどれも戒律が厳しい。食事に限って言っても、旧約聖書の律法に記された制約に従えば、豚カツもエビフライも鰻重も食べる事は出来ない。人間存在その物が、唯一神との契約に基づいているという考え方が根底にある戒律に曖昧さは許されない。一般的な日本人には想像を絶するものがあるだろう。知らず知らずとは言え、神の禁ずる食材を食べたという罪悪感は、我々が人肉食の禁忌に懐く感覚に匹敵するものがあるのではなかろうか? 欧米人が契約や訴訟に拘るのには、そうした文化的な背景があるだろう。輸血に関する裁判では病院側が敗訴したが、信条に反する食材を承知の上で提供され続けた事に対する精神的苦痛を理由に訴訟が起こったとしても、何ら不思議ではない。
一方で、我ら日本的な宗教観の中では、善意に基づく曖昧さを、一種の美徳としてとらえるような傾向がある。前述した「知らぬが仏」という感覚もそうであろうし、忘年会などに見られる仕切直しや、「あれは無かった事にしよう」という寛容。更には政治家先生の大好きな「禊ぎ」という言葉に代表される肯定的な忘却……伊邪那岐命が天照大神ら三貴神を産む禊ぎの話を例に、「良くないことは忘れて再出発を計る」という考え方を、日本文化の前向きな一面として讃美した文章も、以前に読んだ事がある。
しかし、世界のあらゆる文化圏で、それが美徳として捉えられるとは限らない。殊に、物事の黒白を明確にする事を旨とする一神教文化圏の人達にとって、日本的な曖昧さは、決して肯定的には受け止められないだろう。仕切直しは無反省として、また厚顔無恥として否定的に受け止められても不思議は無い。戦後補償等の問題で、国際間の合意がいつまでも得られない事には、そうした価値観の違いがある事は否定できまい。
日本人と欧米人が、政治や事業に関する会談を持って、互いに合意した筈の事が、結局誤解でしかなかったという例は無数にある。だいたい、日本の政治屋さん達が「善処する」と言った場合、大概の日本人は「諦めろという事だな」と了解するが、言葉通りに受け止めれば「実現の為に力を尽くす」という事になる筈だ。我々が「本音とたてまえ」として認識する事は、彼らにとっては真実と嘘でしか無いのではないか?
私自身、日本的な曖昧決着や、精神的な出直しという考え方に、度々お世話になっている。そうした事を頭から否定しようとは思わないが、相手によっては、必ずしもそれが良い結果をもたらすとは限らないと言うことが問題なのだ。善かれと思ってやったことが、結果として相手を傷つけるという場面は、ごくごく日常的に見られる事だが、これが集団と集団、更には国家間の事となるとただ事ではすまなくなる。
そして恐らく、近代国家のシステムという物は、汎神論的世界観ではなく、一神教的な世界観を基盤として発明された物なのではないかと思われる。日本民族が汎神論的な宗教精神を教育に盛り込み「神の国」を目差すのであれば、その辺りの事をあらかじめ自覚しておくべきだろう。まさか今さら鎖国をする訳には行かないだろうから……
そして、我々が「神の国」発言にピリピリしてしまうのは、明治維新から戦中までの近代天皇制や国家神道が、一神教的な近代国家を成立させる為の、極めて特殊な宗教体系だったと知っているからなのだ。神とゴッドは違う、と言う人達には、人をゴッドにしようとした国家的な洗脳について再考して貰いたい。
と、言う訳で次回はその話……