野中友博の
『邪教の館』

《6》神々のDNA(1)



 『神の国』発言から、本稿執筆時点でほぼ二ヶ月。結局、撤回も訂正もしなかった人が、選挙を経て首相に再任された。どんなに議席を減らそうと、議会制民主主義というルールの中では、絶対安定過半数をとってしまった与党の勝ちだ。だから、森さんにはいっその事「過日の私の発言に対し、国民の方々が真意を御理解下さり、尚かつ信認を与えて下さったものと了解しております」ぐらいの事を言って貰いたかった。「だったらまだまだ楽しめたのに。何だ……つまらん!」と思っていたら、嬉しい本が出た。小学館文庫の『日本は「神の国」ではないのですか』である。

 前掲書の内容は、森発言や釈明会見の全文と、それに対するマスコミ各社や野党による批判が採録され、複数の筆者が、それを更に再批判するというものだ。執筆者のスタンスも、それぞれ微妙に異なる為、十把一絡げに要約する事は出来ないが、多くの場合、「多神教文化である日本の『神』と、一神教文化の『ゴッド』は異なる概念だ」という事を、今更のように論じている事が興味深い。そして、汎神論的な日本古来の宗教観を背景として、森発言を擁護し、教育現場に宗教的な情操教育の必要性を説く論者も少なくない。肯定するにしろ、批判するにしろ、神とは何かの認識や、宗教観を明確にしてから議論すべきだと彼らは言う。その点に関しては私も同感である。

 神は人間の規範を決める為の上位自我として人間自身が創造した概念であり、それを信仰する人間の被造物である。故にその人間集団の信仰する神を分析すれば、その集団の共有する価値観や禁忌という物が理解できる。そして、世間の常識や演劇界の因習も、一種の信仰と考えて分析すれば、それまで見えなかった部分が見えてくる……私はそのように考えている。自作の中で、隠れ切支丹やカルト宗教と、世間とを対比して描くのはその為だ。

 そういう訳で、邪教の館の主としては、このテーマこそ、正に閑話休題というものなのだ。些かの危険は承知の上で、この話を今後も暫く続けたいと思う。

 まあ、森さんの真意は釈明会見の通りであると、精々好意的に解釈する事にした上で、敢えて宗教的な情操教育なんてまっぴらだという意志は表明しておきたい。首相にだって言論の自由があるというなら、我ら神の国の民にも、同じ自由があるだろう。十分に意を尽くさない表現により、誤解を与えるかも知れないことについては、首相に倣い、あらかじめお詫びしておく。

 例えば、自然を敬うというような事に神の介在が必要であったり、その事を取り立てて学校で教える必要があるのだろうか? 山川草木に神々が宿っていると考えて敬う事と、それを唯一神の被造物と考えて神に平伏す事は、確かに物の考え方として全く異なる事だろうし、そう感じたり信じたりするのは勝手だが、学校で教育出来る事があるとすれば、そのような物の考え方がある、という事だけだろう。何しろ、自然に神が宿っているのか、神が自然を創造したのかという事を、科学的に証明する事は不可能だ。人が悟りを開いたら解脱して仏になるのか、お坊さんに御布施を払ってお経を読んでもらい、戒名を付けてもらえば死んだ人は仏になるのかという事についても同様である。

 そして、それらの信仰を持ち、信じている人達にとっては、そもそも科学的な証明自体が不要な物だ。我々に命が有るという事が、神様に頂いたからなのか、利己的遺伝子の為なのか、明るい家族計画の為なのかは、同じ土俵で論ずる事が出来ない。

 宗教、信仰の本質は、証明出来る、或いは出来ないという事ではなく、証明の必要が無いという事であり、宗教の危うさは、実はその辺りにある。だから、宗教的倫理観という立場に立てば、天照大神や神武天皇、親鸞聖人や日蓮さんならば○で、尊師や天声や定説は×であると根元的な部分で断言する事は出来ない。

 オウムや法の華が糾弾されるのは、社会的な問題であって、間違った宗教だからではない。そもそも、宗教的な観点に立てば、特定の宗教にとって、他教団、他宗派は全て間違った宗教だと言う事が可能だ。「この社会の秩序と平和を脅かさない限り、誰が何を信じようと御勝手に」というのが近現代社会の信教の自由であろう。そうした前提に立てる宗派や教団が、かろうじて社会的秩序と共存して来た。

 これまで再三書いて来たように、ある段階で思考を止めてしまう慣習や思い込みは、全て宗教や信仰の要素を内包するというのが私の考え方である。汎神論的な宗教観を、日本の伝統に基づく情操教育だの心の教育だのと言って、国家権力が行えば、国際的な文化摩擦の助長にしかならないだろう。何故なら、伝統主義を自認する人達が言う程、日本文化は一神教的な考え方に毒されてはいない。むしろ、大概の日本人は、一神教的な発想を理解していないと私は思う。そんな場面は、街角のラーメン屋にだって転がっている……

 ……という訳で、お楽しみは、まだまだ続くぞ!

2000.7.12(『テアトロ』2000年九月号)