野中友博の
『邪教の館』

《4》心の教育



 前回、若い世代の死生観や殺人の是非への認識が、根元的な部分から揺らいでいる事にふれたが、入稿後、少年達による凶悪な事件が連鎖的に多発し、相前後して先月号が店頭に並ぶ事になった。今回は、ロックの話を書くつもりだったのだが、単なるシンクロニシティーとも思えないので、もう少し話を続ける。

 目下、マスコミは原因探しに躍起になっており、識者と呼ばれる人達は、心の教育という決まり文句を繰り返し、そしてコミック、アニメ、ゲームやドラマといった媒体の暴力描写が批判されるというお決まりのシナリオが進んでいる。

 ところで、『心の教育』とは、一体何をさすのだろうか?

 家庭内暴力、校内暴力、非日常的な猟奇犯罪……連続養女誘拐殺人事件の宮崎被告、オウム真理教の幹部連中、監禁九年間の佐藤被告などは、皆々私の同世代であり、アニメ・ブームも、徹夜のゲームも、恐らく私の属する六〇年代前半生まれの世代から始まっている。共通一次や、偏差値という価値基準で計られたのも我々からで、受験戦争の落とし子のように言われる事もある。神戸事件にしても、実際に少年が逮捕される迄は、多くの人々が、我々のような世代を、酒鬼薔薇聖斗の人物像として想像していた筈である。

 私は非日常的事件を起こした同世代や、キレる少年達を時代の犠牲者だと言って養護するつもり等、更々ないし共感もしない。ただ、意外性を感じないというのも事実だ。恐らく、彼らと同じ世界への違和感を私も感じているからなのだろう。その事が、私をたまらなく嫌な気分にさせるのだ。

 我々の世代は、政治屋の常套句である『心の教育』とやらを受けて来なかった訳ではない。むしろ、「弱い者に優しくしなさい」とか、「世の中、お金が全てじゃない」といった言葉は、耳にタコができる程、繰り返し聞かされて来た。その後の教育現場が、急速に成績偏重に傾いたという訳でもあるまい。むしろ、運動会の競走に順位を付けないと言うように、平等主義は馬鹿げた形で増大している。

 しかし、日本社会は『心の教育』の理想が通用するようには出来ていない。政治は密室で進められ、民意は反映されない。受験も就職も弱肉強食で、弱い者に構っている余裕は無い。職場での評価は業務成績、つまりはお金が全てで判断される。社会は不平等に出来ており、コネとカネが物を言う……大抵の人は、大人になる過程でその事に気付く。

 子供達は二つの異なった価値観のメッセージを与え続けられる。例えば、学校の先生は「成績だけが全てではない」と言い、学習塾の講師達は「成績が全てだ」と言いきる。そして、「世の中なんてそんなモンさ。誰が首相になったって同じだよ」と、妙に達観した態度をとる大人達を見て、未来に希望を持つ事をやめる。

 二つの異なった価値観や願望を共存させる事は、心の病を発生させる重大な要因となる。大人社会は、どうして子供達がキレてしまうのか解らないと言うが、実は、子供だろうと大人だろうと、キレるのがむしろ当たり前だという状況が出来上がっている。そうした状況に鈍感になり、麻痺してしまう事も、また心の病であるかも知れない。

 子供達に『心の教育』をしたい、と大人社会が本気で望むのなら、社会の仕組みその物を変える事から始めなければならない。が、大多数の大人はそれが絶望的に困難だと知っており、悟ったような態度で諦観を口にする事が、賢い大人の認識だと自分を誤魔化し続けて来た。しかし、バブル崩壊後の社会不安がいよいよ深刻となり、今になって慌てふためいているのだ。保守系文化人が、「戦後民主教育は間違っていた」と言って管理的な教育を提唱するのは、それらの反動だろう。しかし、私はそのような管理的な社会を決して望まない。

 メディアの暴力表現を規制しようという主張も、何ら解決にはならない。汚い物を隠し、臭い物に蓋という発想は、昔から何も変わっていない。物語を紡ぐ側の人間である橋田壽賀子氏の、「殺しのドラマの責任」という発言に、私は目眩がした。表現者ならば、反対のメッセージを発信し続ければ良いだけの筈だ。

 さて、この原稿を書き終えようと言う矢先に、森首相の「日本は天皇を中心とする神の国」という戯けた発言が飛び出し、またぞろ手を加えなくてはならなくなった。森氏は、命は神様から貰ったようなものだから、それを大切にしろという事を、教育に盛り込むべきだというのが真意であると釈明したが、結局、これが『心の教育』とやらの正体なのだ。これでは、「国民の命は陛下の物だ。陛下の為に命を捧げよ」とか言っていた、暗黒時代に逆戻りである。本誌が店頭に並ぶ迄に、宰相の座から退陣されている事を望む。

 おかしくなっているのは少年達ばかりではない。大人がその事に気付かなければ、少年達の暴走がとまったりする訳が無い。いずれにしろ、達観して物事を描写するだけの時代は、もう終わりにするべきだろう。

2000.5.16(『テアトロ』2000年七月号)