野中友博の
『邪教の館』

《38》「靖国神社」が私達「日本人」に投げかける物

〜私達は「靖国神社」とは何か知っているのか?〜



『邪教の館』へようこそ。

今回の『邪教の館』は、二年弱ぶりである物の番外編とする。

これまで、暫く、劇作家協会の戯曲セミナーやら『非戦を選ぶ演劇人の会』やら何やらで、馬鹿にも分かる分かり易い文章を心がけて物事を書いてきた。甚だアホらしいがそれはそれである。

それはそれなのだが『非戦を選ぶ演劇人の会』のメルマガ用に想起した文を、初稿の状態で残す為に、ここに掲載する事とする。あえて『紅王語録』でも『文売奴隷』でも無く、『邪教の館』に掲載する意図は、諸氏の判断に任す物とする。

以下、本文。

「靖国神社」が私達「日本人」に投げかける物

〜私達は「靖国神社」とは何か知っているのか?〜

by 野中友博


【はじめに】

 靖国神社の問題は、昨今では主として小泉首相の参拝に対する、中韓両国の反発という形で表面化し、その最大の理由とされるのが、靖国神社に神として祀られている戦没者の中に、東京裁判で有罪なって刑死したA級戦犯が合祀されているという事が挙げられています。つまり、過去の日本の戦争に対する歴史認識が問われるという形です。
 それに対して、小泉首相は、靖国に参拝する理由として、「二度と戦争をしてはならない。今日の繁栄は戦陣に散っていった方々の尊い犠牲の上に築かれている事に思いをいたし、平和への誓いを新たにする」為に参拝しているのだと事ごとに発言しています。そして、国内には遺族会を中心に、首相には公式参拝をして欲しいと主張する人達も少なくありません。韓国や中国の靖国参拝に対する反発などに対して、内政干渉であるという発言をする人達も大勢居ます。
 もう一つ、首相が靖国神社に参拝する事は、憲法で定められている政教分離の原則に違反しているか否かという議論があります。それにまつわっては、首相の参拝方式が、神道形式に則っているかどうかというような事が、その都度報道などで取り上げられてきましたし、憲法違反を訴える訴訟も幾つかあります。

 それらの事実は、多くの日本人が報道などで目にしたり耳にしたりしている事で、殆どの人達が認識している事だと思います。国内的にも、首相の参拝には賛成、反対、憲法違反であるから反対だとか、戦没者を哀悼するのは日本人の当たり前の気持ちなのだから賛成だとか様々な議論があります。
ただ、それらの認識は、果たして正しい物なのかという疑問があります。即ち、靖国神社とは何なのか、どういう施設なのかという事が本当に分かって反対賛成を唱えているのだろうかという疑問があります。何となく、靖国神社とはこういう物だという思い込みだけで、賛成したり反対してはいないだろうかという事に立ち返って考えてみたいと思います。


【靖国神社はどうして何の為に造られたのか】

 靖国神社は1869年、明治2年に「東京招魂社」という名前で創立されました。目的は戊辰戦争で戦死した、官軍側の戦死者を祀る為でした。
 戊辰戦争というのは、鳥羽伏見の闘いに始まる、旧幕府軍、佐幕派諸藩軍と、王政復古による新政府軍、倒幕軍、つまり朝廷軍によって闘われた内戦です。ここで言う官軍とは天皇を頂点に頂く新政府軍、朝廷軍の事で、旧幕府側に立って闘った人々は賊軍という事になります。この、官軍側の戦死者を祀る為に作られたのが靖国神社の前身にあたる東京招魂社です。
 つまり、靖国神社は、そもそも、戦争によって亡くなった人達全般を広く慰霊する為に作られた施設では無いと云う事です。新政府、つまり明治政府、もっと言えば先の大戦までの政体であった大日本帝国という国家の国体(近代天皇制)の為に戦って戦死した兵士、軍人、軍属を慰霊する為の施設だという事です。当然ですが彰義隊や白虎隊など、賊軍側に立った戦死者は誰も祀られていません。それどころか、一時はその供養すら許されませんでした。

 やがて1873年、明治6年に徴兵令が施行されます。官軍であった朝廷軍は新政府の政府軍としての形を整えていきます。この過程で行われた事は、これまで武士階級という戦闘の専門職がいた軍事制度から、広く国民全体を兵士として徴兵する近代国家、近代戦争の為の軍隊の形が作られていく事です。戦闘の専門職であった武士階級は全て征夷大将軍、徳川幕府に使える臣下でしたが、国民の全てが朝廷、つまり天皇の為に戦う兵士になるという形で軍事組織の変革が進められたという事です。

 そのような軍組織の変革が進められる中で1877年、明治10年に起こったのが、西南戦争です。今度は、そうした新軍事制度の改革が進む中で、不平分子となった旧武士階級と新政府軍との戦いになりました。西南戦争は保守的不平士族による最大最後の反政府反乱と言われています。この内戦で、士族側、つまり賊軍の旗印となったのは西郷隆盛です。西南戦争の鎮圧、終結後、官軍側の戦死者は、やはり東京招魂社に神として祀られましたが、賊軍側の戦死者、自刃者は西郷隆盛をはじめとして、誰一人祀られませんでした。
 そして、二年後の1789年、明治12年に東京招魂社は靖国神社と改称されます。ここまでが現在の靖国神社の出発点だと言えると思います。

 西郷隆盛と言えば、幕末から明治維新にかけて重要な役割を果たした政治家の一人です。靖国神社には、近代戦争の戦死者の他に、吉田松陰や坂本龍馬などが維新の忠臣として祀られていますが、西郷はそれらの合祀者の中には入っておらず、今も本殿には祀られていません。それは西郷が、西南戦争で反朝廷側、反政府側に立ったからです。
 現在の靖国神社には境内の端に「鎮霊社」という小さな祠があって、西郷や白虎隊の隊員、そして言によれば世界中の全ての戦没者を祀っているという事ですが、その区別がどのようにされているかについては公にされていません。
 靖国神社が、近代天皇制国家である大日本帝国という国家にの為に戦死した人間、或いはその国家の為に役に立った、功績のあった人間を神として祀る為に作られ、現在でも基本的にその理念に基づいて祭祀を行っているという事は明らかだと思います。一般論として戦争の犠牲を尊い物だとして、それらの人々を慰霊し、平和を祈念する為にあるのだというのならば、西郷隆盛をはじめ、かつての内戦で散っていった賊軍側の兵士達も本殿に祀られて然るべきだし、広島、長崎の原爆被爆者をはじめとする空襲等の戦災死した民間人も祀られて良いはずです。それが世界平和を祈念しているのだと言うのならば、世界の全ての戦死者、戦争被害者、戦災死者が同格の神として祀られなければなりませんが、そのようにはなっていません。
 ですから、少なくとも、靖国神社は日本という国の為に戦死した人を神として祀る為の施設であると言って良いと思います。そして、この「日本という国」、「国」とは何かという事の意味も考えなければなりませんが、これはまた後に振り返りたいと思います。


【神道と国家神道と現在の靖国神社】

 首相の靖国参拝で問題になる事の一つ、憲法に定められた政教分離の問題について考える上で、宗教施設としての靖国神社を考えてみたいと思います。度々、問題になるこの件で、首相の参拝形式が神道の作法に則った物であるかどうかというのが良く問題にされています。ですので、神道という古来から宗教と、日本の近代化に於いて作られた国家神道という制度、そして現在の靖国神社までの流れを簡単に振り返ってみようと思います。

 神道という言葉は、そもそも日本に仏教が伝来した頃に、仏教に対して日本古来からの信仰をどのように言うかという事で発明された言葉です。ですから仏教伝来以前には神道という言葉はありませんでした。
 私は世界各地の信仰や神話を研究する事が好きなので、色々な信仰と比較して思うのですが、神道という物は、他の宗教に比べると、随分アバウトで柔軟な歴史を辿ってきた宗教だと思っています。ユダヤ教とそこから発生したキリスト教やイスラム教は、唯一人の神としての唯一神を信仰し、神との契約という概念に基づいて、厳しい戒律を持っています。また、ヒンズー教やバラモン教から発展した仏教は、独自の宇宙観に基づく道徳律を持っています。世界三大宗教というとキリスト教、イスラム教、仏教の事をさしますが、これらの宗教に比べると、神道には明確な戒律や教義などが無いように思えます。イエスの言葉、ムハマンドの言葉、釈迦の言葉などが、それらの信徒達にとって、人生をどう生きるのかの指針になり得ているのに、神道にはそのような物も無いように思えます。つまり、神道というのは宗教であって宗教でないような不思議な信仰と習慣なのです。これはまたあとで振り返ります。

 私は、史実として記されている日本で最初の宗教的なクライシスは、六世紀に蘇我馬子と物部守屋の間に起こった崇仏論争だと思います。正史に書かれていない歴史には、天皇家の信仰する天津神が国津神の上位に立つという信仰対立があったと思いますが、一応、正史上に書かれた信仰を巡る武力対立は、蘇我氏と物部氏による闘いだと言って良いでしょう。この時は、官軍、賊軍という言い方をするなら、聖徳太子をはじめとした皇子達を擁立して闘った崇仏派の蘇我氏が官軍、神職を司ってきた拝仏派の物部氏が賊軍という事になると思います。明治維新の王政復古で、廃仏毀釈と言う事が天皇を玉と担いで行われた事を考えると、なんだか皮肉な話ですが、とにかく、崇仏派の蘇我氏の勝利によって、仏教は急速に全国に広まっていきます。今では、天皇家の祭祀、冠婚葬祭などは全て神道形式ですから、天皇家=神道というイメージもありますが、歴史上、仏教に帰依した天皇や、仏教を保護して普及に努めた天皇は数多くいます。
 何しろ、仏教の普及に伴って、日本人の宗教観、死生観は神と仏が渾然一体となっていきます。この辺りの経緯は、宗教史として語っていくともの凄く面白いのですが、同時にもの凄く長くなってしまいますので、とにかく、奈良時代を起点にして明治維新まで、日本には神仏習合という宗教的な状態が長く続いたのだという事を押さえて頂きたいと思います。日本古来の神様を権現様として祀る神宮寺や、仏を神として祀る八幡宮などが数多く建てられたのです。
 神道について歴史的に振り返ると、奈良時代には「古事記」と「日本書紀」の編纂という事があります。乱暴な言い方をすると「古事記」は神話の本で、「日本書紀」は歴史の本だと言えると思うのですが、この二書は両方とも、人間の歴史が始まる以前の神代記から始まっていて、その神話的歴史観は共通していますので、民俗学、歴史学、宗教学などでは、これをまとめて「記紀神話」と呼んでいます。
 「記紀神話」がどうして編纂されたのかというと、天皇を中心とした中央集権国家を成立させていく過程で、日本各地の諸豪族に伝わっている神話を一つに纏めて、天皇権力の霊的な正当性と権威付けをする為だったと言って良いと思います。記紀が編纂されるまでは、各地の豪族や権力者は、それぞれに何々の神の子孫だというような、それぞれの神話的な裏付けや出自を語り継いでいたと思われます。それらの神々の中で、国産みをした伊弉諾尊と伊弉冉尊の直系である天照大神を最高神とし、その子孫である天皇家が日の本の国を統治する事が正統であるという権威付けと理由付けです。そして、この記紀神話が、明治維新後に、国家統合の理念と象徴としての国家神道の背骨となり、学校で教えられる日本の歴史、即ち国史の教科書を記紀神話の国産みや天孫降臨、神武天皇の東征などからはじめるという教育現場での国家統一への施政として用いられていきます。

 奈良時代から千数百年に渡って延々と続いてきた神仏集合の時代は、明治維新の神仏分離令によって終わりを告げます。それは、先に述べた記紀神話に於ける天皇制の正当性を国家統合の精神とする為でした。明治政府は王政復古と祭政一致を国家統合の理念とした訳です。
 国家神道の始まりです。
 神仏分離令は廃仏毀釈運動として、まず、神社の中に祀られた仏像を撤去したり破壊する事や、神社の中で僧侶が読経したり説法したりする事を禁じ、僧侶や別当を神道施設としての神社から追放するという形で始まりました。
やがて、国家神道を国民統合の理念として用いてきた明治政府は、神社を国家の宗祀として、仏教やキリスト教などの一般の宗教とは別格扱いして内務省の管轄としました。神道は、宗教ではなくて、宗教を越えた民族の伝統精神の根幹として位置づけたのです。この考え方は、帝国憲法や教育勅語の精神と相俟って、国民に深く浸透していく事になりますが、神道や神社が宗教を越えた概念であるという無意識の習慣は、仏教やキリスト教などの個人の信仰を問わず、地域が祭礼への寄進を強いるというような現象として今も生きていると思います。
 そして、国家は、全国の神社を天皇家の祖神である天照大神を祀る伊勢神宮を最高位として頂点に置き、全国の神社を官社(官幣社、国弊社)と諸社(府県社、郷社、村社、無格社)に分け、天照大神と天皇家に近い祭神からランク付けをしました。近代天皇制と国家神道とは、要するに、その祭政一致の体制の中で、政治的にも祭祀的にも、その頂点に現人神である天皇を置くと言うことで成立していますから、天皇に近いところからランクが高くなると言うのは当然です。ちなみに、伊勢神宮は現在の宗教法人神社本庁の中でも本宗とされています。
 靖国神社は、このランクの中で「別格官幣社」という名で格付けされていました。何故「別格」と付くのかというと、管轄がその他の神社のような内務省ではなくて、陸軍省と海軍省だったことです。
 つまり、戦前の靖国神社とは、まぎれもない国家機関であり、公式の国家の慰霊施設とでも言うような物でした。靖国に合祀される英霊の名簿、つまり誰が祀られるのかという事は、陸海軍を統括していた陸軍省と海軍省によって定められていた訳です。国の為に闘って死に、靖国神社に祀られる事が名誉であるという考え方は、教育勅語や軍人勅諭、そして戦陣訓などで、徹底的に教育されました。つまり、「国家に命を捧げる事こそ最高の名誉である」という信念を国民に植えつける為の装置として国家神道と靖国神社は機能していました。
 この国家神道の出現は、宗教史的な観点からすると、千何百年ぶりに起こった宗教史上の大事件であったと言えると思います。神仏習合という形で庶民の中に根付いていた信仰を、政府の意向で教育によって根底的に変えてしまったと言えるからです。

 軍事国家としての近代日本、大日本帝国の精神的な統合の象徴としての国家神道は、第二次世界大戦の敗戦によって決定的な破局を迎えます。GHQによる「神道指令」が発令されたからです。
 「神道指令」は、正式には「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件」と言い、「国教分離令」とも言います。政治と神道の分離、そして諸宗教の信仰の自由等を指示した物です。
 アメリカ合衆国政府は、終戦前から日本の占領政策について研究し、国家と神道を切り離さねばならないという事は大前提として考えてきたと思います。そりゃあそうでしょう。天皇陛下万歳と叫んで特攻してきたり玉砕したりという、今で言うとイスラム原理主義者の自爆テロのような戦法を近代戦争の中で実行してくる国家の軍隊には、ある種の狂信的な迷妄、もしくは洗脳の背景が無ければ説明が付かないと合理主義者達は考えるだろうからです。
 GHQは、一時は神道その物の禁止、神社全ての廃止という事まで検討したようですが、結局、天皇制が廃止されなかったのと同様に、一宗教としての神道の存続は許しました。とにかく、これまで祭政一致の国家体制の象徴として機能してきた神道は、その特別な位置づけから、他のキリスト教諸派や仏教諸派と同じく、信仰の自由の対象としての一宗教になった訳です。
 そんな中で、一般の神社神道は、宗教法人令によって宗教法人となりましたが、全神社の99%が「宗教法人・神社本庁」に結集しました。今現在、私達が「神道」や「神社」という言葉で意識する神道や神社とは、この「宗教法人・神社本庁」に包括されている神道であり神社であるといえます。僅かな神社は独立法人の道を歩みましたが、実質的な靖国神社の分社として戦前の神祇院に統括されていた各地の護国神社も、神社本庁の被包括団体となりました。「宗教法人・神社本庁」の設立は、1946年2月3日です。

 ですが、靖国神社は、神社本庁には加わらず、単独の宗教法人となる道を選択しました。「宗教法人・靖国神社」がその登記を完了したのは1946年9月の事でした。

 つまり現在、靖国神社は、法的には全国にある殆どの神社神道とは別の宗教法人であり、別の宗教団体なのです。同じキリストに対する信仰でも、カトリック教会と合同結婚式で有名な統一協会が別の宗教であり、仏陀に帰依すると言っても、一般の仏教諸派とオウム真理教が別の宗教であるというのと同じ意味で全く別物であると考えた方が良いと思います。おそらく、この事は大半の日本人が意識していない事ではないでしょうか?

 例えば、2004年の年頭に靖国神社に参拝した時、小泉首相は「初詣だ」と言いました。歴代首相は伊勢神宮に参拝するのが通例といえますが、伊勢神宮は、これまで申し上げてきたように宗教法人・神社本庁の本宗であり、靖国神社は単独の宗教法人・靖国神社です。これを「日本人の習慣としての初詣」として終わらせて良い物でしょうか? 私にはそれ程簡単な問題だとは思えません。

 私見ですが、私個人は首相や国会議員の伊勢神宮の参拝だって不愉快に思っていますし反対です。伊勢神宮は天皇家の祖神という事になっている天照大神を祀っていますし、宗教法人・神社本庁は、「紀元節の復活」とか「不敬罪の復活」についての働きかけを度々議会や政府与党に働きかけています。要するに、神社本庁だって、靖国神社とは違いますが、例えば森喜朗前首相が「日本の国、まさに天皇を中心とした神の国」と発言したような戦前の国体、国家体制を復活させたいのだし、国家神道のような神道の国教化の復活がしたいのです。少なくとも、神道を信仰の自由の範疇を超えた超宗教に戻したいのです。この話は、また後でしたいと思います。

 ともかく、戦前の靖国神社とは、国家神道という祭政一致の国家体制の中で、国家によって運営されていた施設であったが、戦後の、現在の靖国神社は、他宗教と同じ一宗教法人の宗教施設でしかなく、それも、その他の神社本庁に包括される神社神道、一般の神社とは別個の宗教組織であると言う事は確認しておきたいと思います。


【A級戦犯問題、東京裁判と靖国神社】

 かつて、国家神道に基づく国家施設であった靖国神社では、英霊として誰が祀られるのか、合祀されるのかと言う事は、別格官幣社という性格から、それを管轄していた陸軍省と海軍省によって決められていました。陸軍省と内務省から、戦死者、戦病死者などの名簿がが靖国神社にまわされて、それに対して、靖国神社は、次の礼大祭ではこれこれの方々の御霊を護国の神の御柱として祀りますという事を天皇に上奏し、それに対して天皇の裁可が下るという形で、誰が祀られるかが決まっていました。つまり、誰を祀るかは国家が決めていたという事でした。
 そこには信仰の自由もへったくれもありません。身も蓋もなく云えば、国家は国民を強制的に兵士として徴用して戦争に駆り出し、死んだら勝手に靖国に祀ってありがたく思えと教育してきたという事になります。

 では、現在問題にされているA級戦犯の合祀とは、いったい誰が決めて行った事なのでしょうか?

 法的に言えば、現在、靖国神社は単独の宗教法人で、国家に帰属する物ではありません。ですから、それらの戦犯を祀ったのは、国家ではなく、一宗教法人の勝手な判断であって決定であるという事になります。これ、信仰の自由という事のうちに入るのでしょうか? そして、実際のところはどうだったのでしょうか?

 A級戦犯の合祀という事実が発覚したのは、1979年の4月19日です。ですが、実際にA級戦犯刑死者14名が合祀されたのは、その半年程前に遡る、1978年10月17日でした。
 靖国神社は、A級戦犯の合祀以前に、所謂BC級戦犯と呼ばれる、末端の兵士や下士官からなる戦犯刑死者、獄死者の殆どの合祀を、1970年ぐらいまでに終えていました。それらの人々を祀る事になった根拠としては、戦犯刑死者も戦死者と同じく公務死として扱う、遺族年金などの給付を行うという法的処置、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の適用範囲内に認定したという事があろうと思います。勿論、遺族会から靖国神社に対して、戦犯刑死者の合祀を希望する申し入れなどがあったという事もありました。実際、靖国神社も、世論などに考慮して、A級戦犯の合祀に対する判断は慎重でした。
 ただ、時期の問題は別として、いずれはA級戦犯も合祀の対象とするという事は、靖国神社の既定の方針であり、崇敬者総代というような顧問機関にしても同じ意向でした。現在、靖国神社のホームページその他で公言されていますが、靖国神社はかつての東京裁判、をはじめとする極東裁判の刑死者を「戦後、日本と戦った連合軍(アメリカ、イギリス、オランダ、中国など)の、形ばかりの裁判によって一方的に“戦争犯罪人”とせられ」た、「昭和殉難者」であるとして合祀しています。つまり、現在、多くの保守系国家主義者が主張するように、東京裁判、極東裁判は間違いである、アジア太平洋戦争(御存知の通り彼らは大東亜戦争と呼んでいます)は、やむなく行われた防衛戦争であり正義の戦争であると主張している訳です。善し悪しはひとまず置いておいて、それが靖国神社の歴史に対する公式見解です。
 問題は、結局は、誰がいつ決断するのかという問題でした。それは1978年7月に新たに就任した松平永吉宮司の決断でした。
 以下は、『靖国神社をより良く知るために 第二版』(1996年靖国神社社務所)からの松平宮司の言葉の引用です。

「私は就任前から「全て日本が悪い」という東京裁判史観を否定しない限り、日本の精神的復興はできないと考えておりました。それで、就任早々書類や総代会議録を調べてみますと、その数年前に、総代さんのほうから「最終的にA級はどうするんだ」という質問があって、合祀は既定のこと、ただその時期が宮司預かりとなっていたんですね。私が就任したのは五十三年七月で、十月には、年に一度の合祀祭がある。合祀する時は、昔は上奏(天皇に伝える)してご裁可をいただいたのですが、今でも慣習によって上奏書を御所へもっていく。そういう書類をつくる関係があるので、九月の少し前でしたが、「まだ間にあうか」と係に聞いたところ、大丈夫だという。それならと千数百柱をお祀りした中に、思いきって、一四柱お入れしたわけです。」

 これを読むと、松平宮司という個人が全てを決断したようにも見えますが、これをどう考えたら良いでしょう。少なくとも、松平宮司が就任する前から、いずれはA級戦犯も合祀すると言うことは決まっていたと言うことがあります。
 また、松平宮司の言葉によれば、靖国神社は今でも合祀対象の裁可を求める上奏を慣習的に行っているとありますから、少なくとも、宮内庁には靖国神社の上奏書を受け取る窓口があるという訳です。昭和天皇がそれを実際に見たのかどうかはさだかではありませんが、受け取る窓口があったことは確かです。そして靖国神社の側は、そうした宗教行事としての合祀などの祭祀権の最高位には、未だに現人神たる天皇を置いていると言うことになります。合祀される戦死者、戦没者、戦犯刑死者は、天皇の国の天皇の軍の一員として死んだことを祀られるという宗教的な神学大系が維持されていると言うことです。でなければ御所に上奏するなどと言う形式的な慣習が残る意味がありません。
 今一つ、A級だけでなく、BC級刑死者の名簿を、誰が靖国神社に提供したのかという問題があります。
 また、戦前の国家神道体制下では、戦死者の名簿を提供していたのは陸軍省と海軍省です。戦後、それらの情報を提供したのは厚生省、今で言う厚生労働省です。それは復員者や戦没者の確認などを管轄していたのが当時の厚生省だったからではありますが、公共官庁である厚生省が、一宗教法人にすぎない靖国神社に個人情報を提供するとはどういうことか? それこそ政教分離の原則に違反しないのかという疑問が湧きます。つまり、厚生省は、国家機関では無くなった靖国神社に対して、あたかも国家機関であるかのような情報提供を行っているのですから。
 戦士や刑死の情報といえども、立派な個人情報です。こうした個人情報の厚生省から靖国神社への流れ方の理不尽さについて、私は2004年、2月22日にスズナリで行われた『非戦を選ぶ演劇人の会』のリーディング第一部の台本に取り上げています。公開されている台本と重複しますが、台本形式を崩して引用してみます。

 『韓国、江華島で生まれたイ・ヒジャさんは、「天皇の軍隊」に徴用された父、サヒョンさんの消息をずっと気にかけていました。お父さん……サヒョンさんは、日本が敗戦した「解放の日」から、幾日経っても帰って来ませんでした。朝鮮戦争が起こっても、サヒョンさんの行方は知れませんでした。
 イ・ヒジャさんが父の消息を正式な文書で知ったのは、一九九六年の事でした。サヒョンさんの徴用から五二年も経っていました。そしてそこには、靖国神社への「合祀済」の印が押されていたのでした。合祀期日は一九五九年四月六日でした。イさんが父の戦死を知る、三十年以上前の事でした。イ・ヒジャさんは云いました。
「私は日本の"二重性"を思いました。だって日本は、口では植民地支配をしていたことを認めながら、実際にはそれによって苦痛を与えた被害者の苦しみが全くわかっていないのですから。どうすれば、父の無念の思いや私の悔しい思いを晴らせるのでしょう。真相を知りたい。合祀を取り下げて欲しい。このことを知れば、いえ被害者の心を思うなら、小泉首相の靖国神社参拝なんて信じられません」
 そして、イさんは靖国神社に申入書を送ったのです。
「父を、日本国のために命を捧げた英霊として、合祀していることにより、日々、耐え難い精神的苦痛を被っております」
と。
 靖国神社はこう答えたのでした。
 すでに「神」になっている存在の人間を取り下げることはできません。

 以上が昨年のリーディングの一部です。
 厚生省は靖国神社に対して、韓国人軍属であったイ・サヒョンさんの戦死情報を伝えたけれども、遺族にはその情報を与えていなかった、それをどう考えるべきか。更に、ここでイ・ヒジャさんの指摘した「日本の"二重性"」という事には、更に重大な問題があります。

 良く、首相の靖国参拝に反対しているのは中韓両国だけで、北朝鮮を入れても三カ国に過ぎず、他の国は首相の参拝に反対などしておらず、中韓の講義は反日思想を持った特別な国家の内政干渉に過ぎない、と。はたしてそうでしょうか?

 アメリカの保守系文化人であるプレストウィッツは、『ならずもの国家アメリカ』(講談社)の中で、日本版読者のために新たに書き起こした、「日本よ、普通の国へ」の中で、日本が国際的な信用と地位を勝ち得ないのは、日本が過去の戦争について国民的なコンセンサスを作らずに、きちんとした総括を示していないからだと指摘しています。彼はこう書いています。

「現在の問題の原因は、煎じ詰めれば、アメリカによる戦後占領期と、その当時アメリカと日本が結んだ奇妙な取り決めによる制度にある。その始まりは東京裁判だった。連合各国が関与したニュルンベルグ裁判とは違って、東京裁判はもっぱらアメリカ一国が主導権を握って進められ、結審された。マッカーサー元帥とワシントンの政府高官らは、日本を統治するためには国民を統合する父親的存在として、天皇を存続させておく必要があると判断し、天皇は東京裁判への起訴や裁判での証言を免除された。裁判の過程でも、誰の頭の中にも天皇の存在はあったが、その名前が裁判で言及されることはついになかった。だが、現実には、この戦争では数百万人が天皇の名のもとに生命を落としたのであり、天皇が戦争に深く関与していたことは全国民が知っていた。その天皇に戦争責任が無いというのなら、いったい誰を有罪にできるだろう? 「誰も有罪になりえない」という答えは分かりきっていたので、日本人はおおむねこの裁判に冷めた見方をした。そして、これは単なる勝者の正義であると受け止めた日本人は、最終的に、有罪判決を受けた人々に罪があったかもしれないということさえも認めようとしなかった。むしろ、彼らは日本の敗戦の償いとして天皇の代わりに犠牲になった殉教者であるかのように、受け止めた。だから、処刑された戦犯が最終的に靖国神社に祀られても、日本人にはそれが特にまずいこととは思えなかったのだ」

 これは中国人でも韓国人でもなく、まして北朝鮮のスポークスマンでも共産主義者でもなく、アメリカの保守本流としてレーガン政権のブレーンの一人だった論客の分析です。靖国神社がA級戦犯たちを「昭和殉難者」と呼んでいるその背景をズバリと言い切っているのではないでしょうか。
 日本は、東京裁判を受け容れる、つまり、アジア太平洋戦争は侵略戦争で悪いことだった、それらの戦争の渦中で、様々な非人道的な行為を行ったということを認めることで、連合国側と講和条約を結んで国際社会に復帰しました。これは戦後の日本政府の行った行動で、これに従って日本は国際連合の加盟国になったはずですから、アジア太平洋戦争が侵略戦争であり、A級戦犯はその戦争に対して、「平和に関する罪」を犯した戦争犯罪人であるというのが日本政府の公式見解であるはずです。しかし、その日本政府の首班である首相が、大東亜戦争は正しい戦争であり、戦犯刑死者は不当な裁判で殺された殉難者だと表明して、神として祀っている宗教施設に参拝しているという訳です。
「貴方達は、国際社会では、前の戦争は侵略戦争でした許して下さいといっておきながら、国内ではあの戦争は正しく、その責任者は神だといっている神社に参拝している。いったい貴方達の本音はどちらなんですか? 本音を聞かせて貰えるまで、私達は貴方達の言葉を信用することは出来ません」
というのが、世界各国の考えでしょう。中韓のように表立って非難することをしないとしても、国際社会で責任ある立場に立つことは認められない、信じられないからと考えていると思います。

 つまりこれこそが「日本の二重性」であり、靖国問題を放置することが、日本の国際的な信用を確立出来ずにいることであろうと思います。
 東京裁判を認めるにしろ、否定するにしろ、それに対する国民的な合意は行うべきです。そして、否定するなら否定するで、堂々と、国家として国際社会にその不当性と再審理を訴えるべきです。でなければ、日本の国際化なんて絶対に出来ません。少なくとも、靖国問題を内政問題、しかも日本人の情緒的な伝統という視点でのみ語っているうちは、無理だと私は考えます。

 私も、東京裁判、そしてBC級を含む極東裁判全般が全て正しいと思っている訳ではありません。これについての戯曲も書きましたし、語りたいことは沢山ありますが、それには膨大な文字数を必要としますので、また後日にしたいと思いますが、一つだけ言っておきますと、私達日本人は、東京裁判の見直し、BC級裁判の不当性を訴えるのだとしたら、自らアジア太平洋戦争について、その責任が何処にあるかを明らかにする必要があるということです。それにあたっては、プレストウィッツが指摘したような、昭和天皇の戦争責任という物を素通りには出来ないと言うことです。これもまた後日にしたいことではありますが、放置出来ない問題だと考えます。

 とにかく、かつて国家施設であった靖国神社が、現在は一宗教法人という立場で、国家の国家による犠牲者を祭祀の対象にするという判断をしていて、国際上の講和条約の条件になった認識すら公に否定しており、その一宗教法人を、あたかも国家施設であるかの如く参拝する宰相と国会議員のグループが存在するという事を我々は放置し続けて良いのかという問題があります。
 それにはまず、「靖国とは何か?」という事を正しく知ることから始めなければならないと思います。


【靖国神社と国家と信教の自由】

 長くなりましたが、もう少しだけお話ししたいことがあります。
 靖国神社の合祀は、戦前、国家によって行われてきました。どうして国家が国家のために死んだ戦没者を慰霊し、顕彰するのかという問題です。何故なら、戦争とは国家のみが開始して、国家のみが終結させられる営為であり、戦争に於ける死とは、国家のみが個人に対して強制する物だからです。
 戦争に際して、個人は戦闘をします。つまり人殺しをする訳ですが、これは国家に強制された合法的な人殺しです。小林よしのりの戦争論などで、よく、
「靖国に祀られている兵士達は、侵略戦争のために闘った訳ではない。祖国と、家族や愛する人達を守るために闘ったのだ」
という言説がされますが、それはとんでもない欺瞞だと思います。何故なら、靖国の英霊達が闘った敵軍の兵士もまた、「祖国と、家族や愛する人達を守るために闘った」に違いないからです。それこそ、首相の靖国参拝に反対している反日国家とナショナリスト達から非難されている中国の人達にしてみたらどうでしょうか? 戦場になったのは、我々日本の国土では無く、彼らの国土ではないですか? 国民党軍や八路軍こそ、「祖国と、家族や愛する人達を守るために闘った」のでは無いでしょうか? 双方の兵士が互いに「祖国と、家族や愛する人達を守るために闘った」のだとしたら、何と不幸な出会いなのでしょうか? そのような不幸な出会いに個人を強いた物こそ、「国家」以外の何物でもありません。
 そして、国家神道と靖国神社の果たした役割とは何だったかと言えば、その「国家」に身命を捧げ、死して靖国の英霊となることを誇りとする事では無かったでしょうか? その国家とは、万世一系の現人神である天皇陛下を神聖不可侵の君主として仰ぎ、国民皆天皇陛下の赤子として八紘一宇の聖戦を闘う「国家」でした。
 明治維新で行われた事とは、それまで鎖国していて封建時代を長く過ごしてきた日本を近代的な中央集権国家に変えると云うことでした。世界の先進各国、より具体的に言えば、欧米各国がアジア世界に植民地を拡大する帝国主義時代に突入していた当時、近代化を図ると言うことは、そのまま軍事国家になると云うことでした。各藩に分かれ、統一国家としての日本というイメージを持ってもいなかった一般民衆を、近代軍事国家の一員であると自覚させるために引っ張り出されたシンボルこそが王政復古による近代天皇制です。その近代天皇制による国家を確立させるために使われたのが、国家神道であり、教育勅語であり軍人勅諭です。それらもろもろの体制の象徴こそ「靖国神社」に他ならないと私は思います。

 私はそのような国家体制が復活することを望みません。国家のために殺されるのも、国家によって殺人を強制されるのもまっぴらですし、国のために死んだからという理由で、靖国神社に祀られるなんて願い下げです。
 ですが、靖国神社は「祀られたくない」という信教の自由をも侵す存在です。

 今現在、靖国神社に対して、合祀の取り下げを訴えている遺族達は沢山居ます。先に挙げたイ・サヒョンさんのように、軍属として強制的に徴用された韓国など旧植民地の軍属の遺族、また、合祀された父親と遺族である自分自身が共に仏教の僧侶であるという信仰上の理由から、合祀の取り下げを願い出ている人もいます。それらの合祀取り下げの申し出、また訴訟などに対して靖国神社の行う解答は、先に挙げたように、「一度神として祀った御柱は取り下げることが出来ない」という物です。そして、明治以来、合祀にあたって遺族の意志を確かめたことは無いという理由があります。何故遺族の意志が問題にされにされないかと言えば、戦争に於ける死とは国家の物だからです。国家は死の尊厳さえ個人から奪えるという訳です。
 そして、一宗教法人となった今も、靖国神社は、国家の為の死を国家が祀るのだという姿勢を貫き通しています。そしてまた、その靖国を参拝する歴代首相や議員も、国家の為に死んだ戦死者を国家が追悼し感謝する為であるという姿勢を崩していません。


【おわりに】

 私達は、もう一度問い直す必要があります。

 靖国神社は国家施設なのか、一宗教法人なのか?
 一宗教法人に、国家の代弁は可能なのか?
 政府見解と異なる歴史観を公に主張する宗教施設に宰相や議員が参拝する事は信教の自由や、思想信条の自由にあたるのか?
 国民国家の、民主国家の一員として、私達はこの状態を放置して良いのか?

 また私は、私個人としてあえて問います。

 国家は個人の生命を帰属させうるのか?
 国家には戦争を遂行する権利があるのか?
 国家は思想信条、信仰の拒否も含む信教の自由をも侵しうるのか?
 国民は国家の物なのか、それとも国家が国民の物なのか?

 靖国神社の問題は、その存在その物が、それらの問いを私達に突きつけているのだと思います。
 個人的に言えば、私は地上から戦争を一掃する為には、国家という迷妄を人類社会が超克しなければならないと考えています。そして国家という迷妄を超克するには、民族と民族国家を統合するデマゴーグとしての宗教が超克される必要もあると思っています。ですが『非戦を選ぶ演劇人の会』は、国家体制の否定を訴える会ではありませんから、これについて語るのは、また別の機会、別の場所にしたいと思います。
 ただ、今現在、私達の選んだ政府は、国民国家の選択としての『非戦』である、憲法第九条までもを手放そうとしています。その背景には、軍事国家としての大日本帝国を支えた国家神道と神国日本の迷妄がかいま見え、その影としての靖国神社の存在が無視出来ぬ物であると考えています。ですから、皆さんと、この問題を軽視せずに考えて行きたいのです。

 それから、最後に蛇足のように……
 最初の方で、私は神道という宗教は、本来、アバウトで柔軟な物だったと思うと申し上げました。けれども、神道は、明治維新の王政復古に伴って、天皇制の裏付けとしての記紀神話を中心とする国家神道という過程を経て変質してしまったと思います。靖国神社だけでなく、神社本庁までもが「紀元節の復活」や「不敬罪の復活」という天皇中心主義の政治的な働きかけを行うのは、国家神道の悪しき部分を引きずっていると思えてなりません。これらの、森喜朗前首相が言った如き「日本は天皇中心の神の国」という教義で捉えられる近代神道は、千数百年も続いた神仏習合の宗教史を、明治政府の神仏分離政策、廃仏毀釈運動が起こってから、僅か百四十年弱の時代しかありません。これを日本の伝統的習俗だと言って靖国参拝の口実にするのは、誤った歴史認識に基づいた詭弁だと思います。
 私は無神論者の唯物論者ですが、世界各国の神話伝承を読み、祭祀や魔術に関する事を研究するのが好きなオカルトオタクです。神道について言えば、八百万の神として、それこそ樹齢何百年、何千年といった巨木に注連縄と幣を付けて信仰するような、そういう素朴な信仰心に親しみを感じます。皇祖神を中心にランク付けをするというような事をやめて貰えれば、もっと気楽に神社にお参り出来るのになあと思っています。



2005/11/18 野中友博


※本稿はあくまで野中友博の個人的見識と見解に基づく物であり、野中の実行委員を務める『非戦を選ぶ演劇人の会』、また野中の主宰する『演劇実験室∴紅王国』の総意を代弁する物ではありません。本稿の文責の一切は野中友博個人に帰属します。また、その性格上、本稿の朗読、転載、公開等の二次使用に関しましては、『非戦を選ぶ演劇人の会』、もしくは『演劇実験室∴紅王国』を通じて、野中友博への御一報をお願い致します。


《主要参考引用文献》

『国家と犠牲』高橋哲哉・著 日本放送出版協会 NHKブックス
『靖国の戦後史』田中仲尚・著 岩波新書
『遺族と戦後』田中伸尚・田中宏・波田長実・著 岩波新書
『すっきりわかる「靖国神社問題」』山中恒・著 小学館
『靖国神社 そこに祀られている人びと』板倉聖宣・重弘忠晴・著 仮説社
『侵略神社 靖国思想を考えるために』辻子実・著 新幹社
『自衛隊よ、夫を返せ! 合祀拒否訴訟』田中伸尚・著 教養文庫
『天皇の逝く国で』ノーマ・フィールド・著 大島かおり・訳 みすず書房
『東京裁判』(上・下)小島襄・著 中公新書
『図説・東京裁判』太平洋戦争研究会・編 平塚柾緒・著 河出書房新社
『一億人の昭和史 5 占領から講和へ』毎日新聞社
『BC級戦犯』田中宏巳・著 ちくま新書
『戦争責任・戦後責任 日本とドイツはどう違うか』栗屋憲太郎・他・著 朝日選書
『ならずもの国家アメリカ』クライド・プレストウィッツ・著 鈴木主税・訳 講談社
『日本の軍隊』(上・下)前田哲男・文 貝原浩・絵 現代書館
『神道の本』学研 ブックス・エソテリカ
『日本宗教事典』村上重良・著 講談社学術文庫
『世界宗教大辞典』山折哲雄・監修 平凡社
『日本史事典』平凡社・編 平凡社


《主要参考サイト》

靖國神社公式ホームページ  http://www.yasukuni.or.jp/
神社本庁ホームページ http://www.jinjahoncho.or.jp/
宗教法人法 http://www.houko.com/00/01/S26/126.HTM
戦傷病者戦没者遺族等援護法 http://www.houko.com/00/01/S27/127.HTM
東京裁判 http://www6.ocn.ne.jp/~tante/tokyo-saiban-tenno.htm#potsudam
横浜弁護士会BC級戦犯横浜裁判調査研究特別委員会ホームページ  http://www.yokoben.or.jp/bc/bc_top.htm
現代日本と戦争責任 http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/
2005/11/18

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