野中友博の
『邪教の館』

《37》靖国神社



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2004年が明けたが、どうやら今年の一月一日のトップニュースは、小泉純一郎の靖国参拝であるらしい。当然のように中韓両国から非難の声が上がった。小泉はこの参拝に対して初詣だと云っている。

靖国問題というのは、たいてい茶番のような問答が繰り返される事が多く、政治家というのは、物事を本質的な解決に導こうというつもりなんて更々無いのだろうと思ってしまう訳だが、実は靖国神社にまつわる様々な問題とは、国民国家としての日本が前大戦についての総括や国民的コンセンサスを未解決のまま放置し続けて来た事が殆ど全て反映されているように思われる。そして、首相の参拝の度に繰り返される茶番劇的な問答も、この問題をいつもでもモラトリアムにしておこうという、大多数の日本人の意識の反映であると思われる。おそらく、大多数の日本人にとっては、靖国神社というのはどうでも良い問題の一つでしかないのだろう。

靖国神社に関して、その問題点が目に見える形で現れるのは、大概、閣僚の、主として宰相の参拝問題に絡んで表面化する。それは靖国肯定派の「堂々と公式参拝しろ」という主張、そして「靖国の参拝なんてもってのほかだ」という否定派の主張、その双方に対して納得する形にはなっていない。否定派にとっても肯定派にとっても満足する形ではない訳だ。だから、終戦記念日前後には、必ずこの問題が紛糾するし、同時に、大部分の日本人が「どうでも良い」と考えているから、決着がつくという事もない。

靖国神社は、そもそも西南戦争に於ける官軍側の戦没者を慰霊する事から始まっているという風説が一般的だが、その起源は明治二年に創建された「東京招魂社」であるという事だ。戦前は国家の管理下にあって、当然、天皇制と密接な国家神道の象徴的な施設であった。一つの宗教法人となったのは占領軍による神道指令などの政策による物だ。つまり、靖国神社の現在の形は、日本人が日本人の手によって定めた物ではないという前提があって、これは憲法問題などとも同じ根っこがあると思われる。現在、合祀されているのは軍人や軍属などの戦没者に加えて、 文官、一般人、台湾・朝鮮出身者、戦争裁判受刑者等が祀られていて、東京裁判で処刑されたA級戦犯もその中に含まれている。

宰相の靖国公式参拝を肯定、或いは推進しようとする人達の主張の中には、まず、日本には、靖国神社以外に、公の戦没者慰霊施設のような物がない事をあげていて、国家に殉じた人達に対して、政府のトップが敬意を払うのは当然だという考え方がある。

世界を見渡せば、国家による戦没慰霊碑が無いという我が国の状況というのは、実は普通ではない。戦争という行為が、国家による権力の発動であって、それによって個人の生命が奪われるという事であれば、当然、国家はその生命に対する責任を負う。使いっぱなし、殺しっぱなしであれば誰も国家の為に死の危険に身を晒そうとはしない。要するに、国家の定めた慰霊碑がないのであれば、靖国神社をそれに変わる物として参拝するのは当然だという考え方だ。そして、彼らは、文化的、習慣的に、靖国は戦没者の慰霊施設として国民に認知されていると主張している。

しかし、現行憲法下の日本では、国権の発動としての戦争を否定している訳だから、国家が国家の為に戦死した人々を慰霊する施設を建立する、維持するという事についての根元的な矛盾が生ずる。つまり、戦争はしません、軍隊は持ちませんという憲法を持っている国には、戦争犠牲者に対する国家的慰霊などあり得ないという事が理論的には成立する事になる。

しかるがゆえに、日本に関する限り、戦没者というものは、国家として戦争を肯定していた大日本帝国時代の戦没者に限られるという事になる訳で、それらの人々をどう捉えるかという事で慰霊、または戦没者の死を悼むという行為のベクトルは変わってくる。結局、それは日中戦争、太平洋戦争、それらの戦争をどう捉えるか、どう総括するかという事に関わってくる訳だ。

戦後、一宗教法人となってからの靖国神社が、どう云う基準で合祀する戦没者を選定しているのか、私は知らないが、靖国神社のホームページを見ると、問題になっているA級戦犯に関しては、「日本と戦った連合軍(アメリカ、イギリス、オランダ、中国など)の、形ばかりの裁判によって一方的に“戦争犯罪人”という、ぬれぎぬを着せられ、無惨にも生命をたたれた1068人の方々…靖国神社ではこれらの方々を「昭和殉難者」とお呼びしていますが、すべて神さまとしてお祀りされています」という記述があるので、少なくとも。宗教法人靖国神社は、東京裁判他の連合国による戦後処理は誤りであるという歴史観に立っている事は間違いない。

例えば、前大戦の戦没者、それも末端の兵士達が、帝国憲法下の戦争指導者によって戦争に駆り立てられた犠牲者なのだという観点に立てば、靖国神社を国家的な慰霊施設と考える事は出来なくなる。つまり、靖国への閣僚や宰相の公式参拝を肯定し、推進しようとする事は、東京裁判の誤りを国際的に主張せよとする事と同義である。だから、小泉純一郎が靖国神社を公式参拝したいというなら、東京裁判の誤りを、当事国である戦勝国に対して主張すれば良いじゃないかという話になる。実は、推進派が小泉や政府に対して持っている不満とは、即ちこの事だ。彼らは、東京裁判で裁かれたA級戦犯とは、戦勝国による復讐裁判の被害者なのだと主張したいのである。

ここで、小泉だけでなく、「ええそうです。私たちは東京裁判を不当な復讐であると主張するのです」と断言するのではなく、「初詣なんです」という、誰も信用しないような云い訳を理由に靖国に出向く閣僚達の歯切れの悪さを確認する事が出来る。東京裁判を不当だと思うなら、誰恥じることなくそれを主張して、国際社会に問い、戦犯達の名誉回復を主張すればよい。それが出来ないのは、中韓を初めとしたアジア諸国だけでなく、国際社会の同意を得られないと云う事を政治家先生達が知っているからであり、それは建前なんだけど、本音としては東京裁判には納得していなくて、だから靖国には参拝するのだという、本音と建て前の乖離を見いだす訳である。

何にしても、多くの日本人が「東京裁判」と、各国で行われたBC級戦犯に対する戦争裁判が不当であったと感じており、それが故の精神的な拠り所が靖国神社となっているという事は否定出来ない。原爆と東京裁判は、日本人にとっての第二次世界大戦を、加害者としてよりも被害者として認識させる事の大きな要素となっている。

その被害者意識は、主として原爆を投下し、東京裁判の主任検事であったキーナンと占領軍の象徴であったマッカーサーの母国であるアメリカ合衆国に対する反米感情として潜伏しているから、日韓併合という形で蹂躙した朝鮮半島や、宣戦布告無き戦争と虐殺の対象であった中国大陸の事をすっかり忘れさせている訳だ。A級戦犯の合祀は、そうした反米感情という被害者意識を抜きにしては考えられない。そして、米国の合理的な民主主義と、十字軍的なキリスト教道徳に対する反発は、天皇制と国家神道という皇国史観を体現する靖国神社へと収斂していく。

そして、靖国神社は、現在、単なる一宗教法人に過ぎない訳だから、東条だろうと誰だろうと、神様扱いする事は信教の自由ということになるのであろう。実は、天皇主義者でもなく、また日本国民でもない台湾や朝鮮から徴用された軍属が、靖国に合祀されてしまうという宗教的な蹂躙というものを見落としては駄目なのである。クリスチャンだろうと儒教徒だろうと、勝手に靖国の神様にされてしまうという事、それを国家的な祭祀としようとする事に対して、私は個人としては断固反対するが、反米感情と、日本人が自らの戦争行為を徹底的に検証しなかったという事の結果が、天皇中心の国家神道の本山であった靖国神社に象徴されているという事が、日本の特殊性として自覚されないと、国際協調なんてあり得ないのである。

そもそも、卑屈な程の対米追随という形でイラクへ自衛隊が派遣されようとしている現在、反米天皇主義の象徴である靖国に、日米関係を至上としている小泉が赴くという事の、ある種の狂気のような状況を、我々はどう捉えるのかである。そもそも、近代天皇制は、古来の神道の信仰に、天皇をキリスト教的な絶対唯一神の代替物とするという形で、ほんの百三十年ほど前に発明された新たな信仰体系である。そして、この近代天皇制と靖国神社という信仰を共有する国は、日本の他には一つとして無い。その事が自覚されているかどうかだ。世界にとって、日本の信仰体系は、例えばキリスト教国家にとってイスラム文化が異質であるという以上に理解不能の筈なのだ。そんな物を「理解を得られる筈」などと公言して参拝したところで理解など得られないという事は自明ではないのか?

靖国は、日本の戦争責任、戦後責任を自ら曖昧にした事を象徴しているし、東京裁判に対する反発も肯定も全てを有耶無耶にした現在を象徴する。そして、それが国家神道と天皇制と不可分であるという背景から、我々はもはや靖国に対して曖昧ではいられないところに来ているのではないかと思われる。もしも、イラクで自衛隊が戦闘行為を行う事になり、死者が出れば、誰かが靖国への合祀を主張するだろう。一宗教法人は勝手に合祀するかも知れない。自衛隊の殉職者は、これまで市ヶ谷駐屯地内の、「自衛隊殉職者慰霊碑」に祀られて来たという事だが、イラクでの「戦死」が現実の物になれば、靖国に祀られる自衛隊殉職者という問題に遠からず直面する事になるだろう。それに対して、宰相や閣僚が公式参拝を行えば、A級戦犯と自衛隊殉職者を同列に置くという政治判断がされた事を意味するだろうし、我々国民も信教の自由という事で無視し続ける訳には行かなくなるはずなのだ。

靖国は「我々自身が世界の中で何物であるのか」という問いを発し続けているのかも知れない。国民国家としての日本、その国民である我々が、それと正対しなければならない日は遠くないであろう。そして、もはや手遅れであるという考え方も出来る。何故なら、我々自身で過去の戦争を検証する為の当事者が、とっくに靖国の軍神となっているからだ。

程なく、我々は神殺しが出来るかを問われる事になるであろう。やはり、日本は未だに呪術国家なのだと私は思う。異端者の目にはそれが良く見えるのである。

2004/01/03

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