《34》成熟の荒野
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最近、演劇以外の物への関心が薄らいでいるように感じている。書架を埋め尽くしているオカルト関係の書籍を拡げても、「ああ、これは十年ちょっと前に読んだな」という程度の事しか思い出せない。小学生の時分から集め始めたタロット・カードに関する文献も、今や何が何だか分からない。数百枚のCDも、物によっては初めて聴く音楽のように聞こえる。ミュージシャンの来歴もすっかり忘れている事の方が多い。マニアックな関心を維持しているのは『スター・ウォーズ』と『機動戦士ガンダム』だったりして、これではまるでオタクの子供だ。
では、演劇には関心を持っているのかと云うと、これも甚だ怪しい。「現在の演劇界の状況をどう思いますか?」などと聞かれても、私には答えられそうもない。演劇が衰退しているという事は確かなようだが、未だに夥しい数の劇団と公演があり、公演活動の為の劇場を確保する事は未だに厳しい。他ジャンルの娯楽に比べれば、演劇に設定された価格は相対的に高価なので、知り合いの芝居を義理で観ているだけでも、相当な出費になってしまい、見ず知らずの人の公演を娯楽として選択する機会は減っていく一方だ。演劇賞や戯曲賞の推移を見れば、その年に良い仕事をしたであろう個人の名前はある程度挙げる事が出来る。ただ、その人達の方向性が演劇全般の指向を左右しているのかと云えば、どうもそうでも無さそうに思われる。二千年代、或いは二十一世紀に入ってもう何年か経った訳だが、ムーヴメントの中心という物が何なのかはハッキリしない。要するに、今の演劇界は中心を失ってしまっているのだ。
何だか話が終わってしまった。中心が無い、という事は、ジャンル自体が新しい物を生み出す活力を失っているという事なのだが、それには原因があるのだろうか? 『シアター・ガイド』の最新号を見ると、新国立劇場のラインナップには栗山民也演出による三好十郎の『浮標(ブイ)』、坂手洋二演出による別役実の『マッチ売りの少女』、鐘下辰男演出による三島由紀夫の『サド侯爵夫人』といった作品が並んでいる。別役さん以外は、私が演劇を志した頃には既に他界していた作家の作品だし、『マッチ売り……』にしても、その発表時期を考えれば、もはや古典といっても良いだろう。栗山さんを別にすれば、坂手、鐘下といった私と同世代の小劇場出身者が古典戯曲を手がけるという企画だが、この傾向は、ここ数年一つのブームになっているようでもある。
だとすれば、現在の演劇界の中心は、近代劇へのルネッサンスという事になるのだろうか? 話はそれ程単純ではない。
九十年代、アートとしての演劇界の中心は「静かな演劇」であったように思われる。同時に、数としては圧倒的に「優しい演劇」が多数派を占めていた。「優しい演劇」は、八十年代からの方法論の拡大再生産であったし、「静かな演劇」は方法論の解体と再構築を目指していた。両者共に、近代劇以降の王道としての訓練を拒絶、或いは必要としていなかった。殊に、「優しい演劇」は、共感という情緒を武器としていたから、今日の観客が明日は舞台に俳優として立っているという演劇ジャンルのお手軽さを先導していた。
世界のロック状況から十年から十五年ぐらい遅れて、演劇界では似たような状況が訪れる……演劇というジャンルにのめり込んだ初期の頃から、私は漠然とそう感じていた。七十年代後半から八十年代初期に起こったパンク&ニューウェーヴのムーブメントは、「昨日まで楽器を持った事がなかった少年が、今日はバンドを組んでステージに立っている」という状況を英国に作った。腕のあるミュージシャン達はテクニックがある……つまり楽器を弾きこなせるという理由で業界から干された。ある意味では狂気の沙汰だ。
ロンドンパンクの勢いは凄かったが、25年程経った現在、セックス・ピストルズ以外に一般人の記憶に残っているバンドはない。クラッシュやダムド、ストラングラーズと云った名前が出て来れば、もう万々歳だ。ピストルズでパンクの先鞭をつけた……と云うよりは、最初のカリスマとなったジョニー・ロットンは本名のジョン・ライドンに戻り、パブリック・イメージ・リミテッド(通称PiL)の活動を通じて、パンクどころかロックその物を解体してしまった。PiLが解体したロックの荒野には、もはや新たにやるべき事は何も残っていなかった。
干された凄腕ミュージシャン達が、起死回生の一撃として放ったバンドにエイジアがある。元クリムゾンのジョン・ウエットン、元イエスのスティーヴ・ハウ、ELPのカール・パーマーらによるコロンブスの卵的な必殺技「5分間プログレ」……そしてエイジアも今は無く、大概の凄腕達は元の鞘に収まっている。
最近は、新しいバンドは殆ど聴かない。ロックが若年層のプロテスト・ソングとして成長していった過程を肌で知っている世代としては、ローリング・ストーンズのように、バンドとして不惑の年代を迎えてしまった人達がチャートのトップとなってしまうという現実を捉えがたく思っている。多分、ロックというジャンルは、パンク・ムーブメントという「誰だって音楽は出来るしやって良いんだよ」という過渡期を経て、成熟に向かっているのだろう。ロックがつまらなくなったのは成熟してしまったからに他ならない。複雑な気分だ。
今、多分、演劇状況は「誰だってお芝居は出来るしやって良いんだよ」という時代の末期、もしくはそれが終わった先の事を模索している所なのだろう。90年代に、ロックバンドのビッグネームが相次いで再結成のルネッサンスが起こった事と、小劇場世代が古典を指向している事は似ていなくもない。誰でも出来るジャンルとなった演劇の中で、「選ばれし者」のジャンルであった『演劇』を再確認しようとしているように思うのだがどうだろう? ロックも演劇も、正当な教育や訓練を受けていないジェネレーションによって解体された。解体された所には荒野が広がっている。スタンダードの解体は、スタンダードを端から保っていない世代によって解体されたのだが、両者とも、今はスタンダードをその拠り所にしようとしている。
思ったよりもこの荒野は果てしない。スタンダードとは、この荒野を踏破する為の糧物であるのかも知れない。
2003/1/31
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