野中友博の
『邪教の館』

《33》開かれた演劇への道(1)



『邪教の館』へようこそ。

今回は、最近、私の使っている「閉じた演劇」という言葉について、なるべく具体的に、かつ体系的に話を進めてみたい。一応したつもりでいたのだが、前にしたのは「優しい演劇」についてのお話だったので、改めてこのテーマを選ぶ。ただ、「優しい演劇」は、多くの場合、「閉じた演劇」となっている事が多く、そのあたりの原因は、今回の論考とはまた別のところにあるので他の機会に譲る。

「閉じた演劇」という言葉を使う以上、反対語としての「開いた演劇」もある訳だ。この対立構造は分かりやすい。例えば「静かな演劇」の反対語を想像すると、「賑やかな演劇」とか「喧しい演劇」とか「躍動する演劇」とか「元気な演劇」とか、色々なジャンルを想像する事が出来るが、「閉じた演劇」の対立概念は単に「開いた演劇」と考えれば良い。これは「静かな演劇」という言葉が、多種多様な演劇の一ジャンルを括ろうとして作られた言葉であるのに対して、「閉じた演劇」というのは、その演劇の興行姿勢、あるいは創作姿勢のベクトルを表すので、一次元的なプラスとマイナス的な概念で捉える事が可能な為だ。

従って、その演劇が閉じているか開いているかは、演劇の様式としてのジャンルや演目とは無関係である。芸術的な方向性といった物とも殆どクロスしない。また、これは後の方の話になるが、公演の規模とも実は無関係である。一般的に、「閉じた演劇」は動員規模が千人以下の小劇場である事が多いが、驚異的な動員力を獲得してしまう「閉じた演劇」も存在している。

その公演が開いているか閉じているかは、プロデューサーや制作体の姿勢の問題である。どちらかと言えば、「集団論」や「観客論」に属する物で、普段なら作・演出家や俳優が意識する問題ではないが、そこから波及して行く一種の精神的波動が、いやが上にも創作者達……具体的には演出家や俳優……のスタンスにも影響を与えて行く。そこが、集団創造であり、観客との関係を抜きには成立し得ない演劇ジャンルの困難な部分である。多くの方から、「作家と演出家の仕事に集注すべきだ」と言われ続けて久しいが、集団としての演劇実験室∴紅王国のスタンスを確認しておく為にも、最初で最後のつもりで、この問題を論じてみようと思う。

#1 とりあえず「開いた演劇」と「閉じた演劇」を定義してみる。

鈴木忠志は、その著作の中で、「社会的な演劇と共同体的な演劇」について論じているが、私の云う「開いた演劇」は「社会的な演劇」に、「閉じた演劇」は「共同体的な演劇」にほぼ重なる。ここで、「社会」と「共同体」という概念の違いから初めても構わないのだが、もう少し砕けた言葉で、些かの誤解は覚悟の上の定義を進めてみよう。

乱暴な言い方をすれば、身内や仲間を観客として想定した物が「閉じた演劇」であり、他者を観客として想定した物が「開いた演劇」という事になる。稚拙な言い方だが「この舞台を誰に観て貰いたいですか?」という質問にどう答えるか、更には、その為にどのような行動を劇団側がとったか、という事で「開いた演劇」か「閉じた演劇」かの内実が決まる。劇団、という呼称を用いるのは適当ではないかも知れないが、今回の論考では、観客に対して舞台を提供する側の総体、製作者や演出、俳優、そのたスタッフ一切をひっくるめて、「劇団」という呼称で話を進める。

例えば、学校の学芸会、御稽古事の発表会、俳優養成所の実習公演といった物は「閉じた演劇」に分類される最も分かりやすい例だ。いわゆる発表会的な公演は、一般社会に作品を問うという事を想定していない。また、公演の作品的な成功といった事その物も問題にされない場合がある。観客の殆どは知人縁者に限られる。やったという行為、せいぜい、その為の努力と発汗が評価の対象であって、舞台成果が演劇的にいかなる物かという問題は端から問題とはされていないし、殆どの観客はそのような事を期待しない。多くの場合、劇団サイドに属する人間の演劇行動は、こうした「閉じた演劇」から出発する。

では、一般劇場で上演され、情報誌やインターネットに興行が告知され、チケットぴあ等の流通機関を通して入場券を買う事が出来れば、それがすなわち「開いた演劇」の用件を満たしているかと言えば、そうとは言い切れない現状がある。「開いた演劇」となる事は、実は過酷で非情なプロセスを踏まなくてはならないし、その為の意識変革には遠い道のりがある。特に、養成所の卒業生が、同期生だけで小劇団を結成したような場合、実習公演の方法論から全ての演劇戦略が出発する為、そこからの脱皮には困難を伴う事が多い。

#2 劇団側の意識とはどのような物か?

ここでもう一度、基本的な質問という物に立ち返ってみる。即ち、
「この舞台を誰に観て貰いたいですか?」
という問いかけである。

「出来るだけ沢山の人たちに観て貰いたいです」

想像出来る、最も一般的な答がこれである。おおよそ、プロを自称している演劇人達は、誰だって沢山の観客に見て欲しいと考えている。「分かるやつだけが見てくれれば構わない」と嘯いているええかっこしいだって、ガラガラの客席を前に芝居をすれば空しくもなる。多くの観客を呼びたいというのは、演劇人の一種の根元的な渇望とでも言うべき物で、ここに議論の余地はない。相当に特殊な事をやっている場合でも、そうした特殊な志向を、より多くの人に分かって貰いたいと考えているはずだ。考えなければ演劇が開いている、閉じていると言う前に、人間が閉じているという事になる訳で、ここでの議論の対象外だという事になる。では、ここで問題。

殆どの演劇人は、自分の舞台をより多くの観客に観て貰いたいと考えている。にも関わらず集客の道は厳しい。当たり前の話だが、「来て下さい」と思っているだけでは客は来ないのである。チラシを刷ってばらまく、ポスターをあちこちに貼る、ぴあやシアターガイド等の雑誌に告知を載せ、インターネットに告知する、ありったけの知人縁者にダイレクトメールを送る……そんな事は、大概の劇団が何処でもやっている事である。にも関わらず、客が集まらないのは何故だろう……? そうした事を、具体的に意識する事から「開いた演劇」への道が始まる。言い換えれば、「出来るだけ沢山の人たち」という見て欲しい人たちを、どう具体的にイメージ出来るかで、その後の劇団の戦略は大きく変わってしまう。

#3 お客さんを具体的にイメージする。

「この舞台を誰に観て貰いたいですか?」という質問に対して、「出来るだけ沢山の人たちに観て貰いたいです」と答えた場合、次にはどんな質問がされるだろうか? 

「観て貰う為にどんな事をしますか?/していますか?」

こんな事はまずこの段階では訊かれない。例え訊かれたって、我々は「どうしたら良いか教えて下さい」と訊き返すだけだろう。実は、この質問こそが「開いた演劇」を実現する為に意識しなければならない事だが、それはあとに譲るとして、普通のジャーナリストならこんなこんな風に訊いてくるだろう」

「具体的に、それはどんな人ですか?」
或いは
「中でも一番見て欲しいのは誰ですか?」
である。
これにはどう答えるだろう? 例えばこんな答え方である。

「特に誰とは思いません。私は舞台で全力を尽くすだけです」

模範的な解答の一つとは言える。現在でも劇団に有り余る動員があり、社会的にも認知されていて、その人(俳優かその他のスタッフかは問わない)には仕事もあとを断たないという状態なら、これで一向に構わない。ただし、もしもそうでないのなら、こう考えているだけではお客さんは来ないし、一般社会に知名度が上がっていったりはしない。少なくとも、全員がこう考えていてはダメである。制作担当者なり劇団責任者は、もっと具体的にお客さんをイメージし、その為の行為をしつつ、尚かつ舞台に全力を尽くす。悪い言い方をすれば、そうする事を強いられている。従って、集団の構成員としては、無責任な解答だし、こんな幸福な解答を許されている演劇人は絶対数としては少ない。

では、こういうのはどうだろう。

「お母さんに観て貰いたいです」
「彼女に主役を張っている俺を見せたい」
「恩師の田中先生に……」
「親友の山田君」

まず、具体的で誠実な解答をすればこのあたりが順当な所だろう。両親を初めとする家族、恋人、恩師、友人……こういった人脈は前述した「閉じた演劇」の典型として分類される発表会のような公演に招かれるお客さんと同じだ。いわゆる「身内」というお客さんである。実を言えば、全国で三千から五千とも言われる劇団の大部分を占める小劇場というクラスの観客は、大部分が、この身内のお客さんに頼っているのが現実だ。こうした、身内のお客さんを舞台に呼ぶ……具体的には、チケットを売る為には、どんな事が必要だろうか?

親、とか恩師という人たちは(勿論、肉親か他人かという事で程度の差は格段にあるだろうが)、劇団サイドにいる俳優なり演出家なりの成長を見届けるという事が、観劇の最大のモチベーションになる。恋人や友人達は、知り合いである関係者がその劇に関わっているという事、それ自体を誇らしく思うかも知れない。当然、芝居その物を楽しもうというつもりはあるだろうが、チケットを売る本人がその公演に出る、演出する、台本を書くといった面に参加していなければ、その公演を見るという事は無かったであろうし、逆に参加している限り、演目が何であろうと見たであろうという類のお客さんである。こういうタイプのお客さんには、例えばこんな事を云ってチケットやチラシを渡せばいいだろう。

「頑張りますから見に来て下さい」

多分、これだけの事で、それらのお客さんは、劇場に足を運んでくれるだろう。勿論、その関係者(作家、演出家、俳優、その他のスタッフ)に対する個人的な付き合いや情の深さ次第で、或いはどれだけ演劇を好きかで来る頻度は変わる。親や恋人なら、毎回来てくれるかも知れない。恩師が、それ程演劇に関心がなければ、「ああ、こいつは無事にやっているな」と安心すれば、一度だけの観劇で終わるかも知れない。友人関係も同様で、何度も案内を出し続ければ一度や二度はだいたい観てくれる。そして、運が良ければ……或いは舞台が説得力を持っていれば……常連になってくれたり、その他の公演にも足を運ぶ、演劇その物のファンになってくれるかも知れない。まあ、それはまた別の話だが……

要するに、これらのお客さんに対しては、チラシその他の宣材は、「いつ、どこで」という情報さえ伝わる物であれば良く、出来れば優れたデザインを持っているに超した事はないが、単なるコピーの一枚や、手書きのタイムテーブルだって差し障りのない物だ。要するに、このあたりに「閉じた演劇」の最も顕著な部分が出ているのだろうと思う。

では、見て欲しい人として、具体的にこんな名前を挙げたらどうだろうか?

「蜷川幸夫さんに見て欲しいです」

この場合、この発言者と蜷川幸夫の関係次第で、アプローチしなければならないベクトルが大変に変わる。もしも、この発言者が演劇学校で蜷川幸夫に師事した事がある、或いは蜷川演出の舞台でコロスを演じた事がある、更には蜷川さんの舞台で、恒常的に役を貰っている俳優である……というような、蜷川幸夫と個人的な接点がある、という場合と、この地球上で演劇に携わっているという事以外に、何の接点も無いのとでは、アプローチの仕方は全く変わってくる。また、接点があったにしても、その深さと方向性でアプローチは変わる。私も蜷川さんに自分の舞台を観て貰いたいと考えている演劇人のはしくれの一人ではある訳だが、未だにそれは実現していない。

例えば、私が、肉親や友人に案内を送るように(というか、私は肉親や友人にだって、こんな戯けた案内はしないが)こんな文面の案内状を書くとする。

「頑張りますから見に来て下さい」

まず、99.9%以上の確率で、この案内状は黙殺される。黙殺、というのは傲慢な行為でも何でもない。我々が、数多の新聞広告やダイレクトメール、ポスティングされた出張風俗のカード、ぐっとこの仕事に身近な所でも、劇場の折り込みチラシに対して行っている事と同じだ。悪意なんか何処にもない。「頑張っている」というだけでその芝居を観なければならないなら、毎日芝居を観たって絶対に足りないからだ。仮に、運良く蜷川さんが野中友博という作家を、テアトロの戯曲賞の受賞者と知っていたという幸運があったとしても、
「そうですか、私も頑張っているので貴方も頑張って下さい」
と心の中で思うだけの話だろう。私のような心の狭い人間なら、
「頑張ってるだけで芝居を観て貰おうなんて寝言は寝て言え!」
とキレてしまい「二度とこいつの芝居だけは見るものか」と思うかも知れない。

多分、そのような「他者」であるお客さんの反応を考える事が、制作的な側面に於ける「開いた演劇」への第一歩となる筈である。

#4 同業者というお客さんの考え方

「他者」というお客さんを考える前に、同業者……つまり、演劇人が演劇を観る、或いは演劇人に観せるという事について考えておこう。つい先ほど、蜷川幸夫さんというう例から、「身内」と「他者」という事を考え始めた訳だが、蜷川幸夫という人が世界的な舞台で活躍する演出家であるという事が、ある意味では話を複雑にしているという事と、小劇場演劇と言われるジャンルの集客に関する根本的な問題の一つが、同業者=演劇人同士が、互いの舞台の観せっこをしているという現状にあると思われるからだ。その根底にあるのは「義理と人情」的な情緒的なレベルに過ぎず、小劇場シーンその物が開かれた物になる事を疎外していると私は感じている。

まず、最初に挙げた身内的お客さんの例としてあげた「友人」というファクターがある。演劇を長く続けて行けば、日常的な友人が演劇関係者に限定されてくるというのは良くある事だ。

俳優は誰だって自分の出演する舞台に全力を尽くしている。それを多くの人達……同業者も含まれる……に観て貰いたいと考えている。そして、知己となった俳優の仕事を観て、刺激を受けたかったり勉強したいとも考えている。そんな理由から、俳優は俳優間で互いの舞台を見せ合う。それは、いつしか、「観て貰う為に観に行く」という暗黙の了解を生み出す。公に指摘する人は(馬鹿馬鹿しいからという理由もあるが)ごく僅かだが、それは事実だ。結果として、彼らは直感的に、或いは論理的に、もしくは好き嫌いの問題で「観たくない」と思った芝居にも足を運ぶ。そして、義理人情で観ているという前提があるが故に、その舞台に対して否定的な事は口にしない。結局、表現者同士で表現者を甘やかすという悪循環に陥る。

同時に、「演劇人」という人種は、一種独特の雰囲気を発散している。大抵の演劇屋が、たまたま乗り合わせた電車の中で、見ず知らずの同業者に気付くというような経験をしている筈だ。そして、劇場という環境では、そうした雰囲気を無防備に発散している演劇屋が驚く程に多い。ロビーなどで、いわゆる関係者面をする事で、一般のお客さんの気分を害してしまう事もしばしばだ。結果としてそれは、個々の公演ではなく、演劇全体を一般社会から閉じたジャンルに貶めてしまう。この状況から脱却するには、誰かが
「義理の観劇はやめましょう/やめます」
という宣言なり運動をするしか無いのではないかとさえ思える。

実際、小劇場演劇ほど、観客の中に同業者が占める割合の高いジャンルは、他に例を見ないのではないかと思われる。ミュージシャンだけが聴いているコンサート・ホールや、格闘家だけが観戦している日本武道館というような状況を想像すれば、その異様さが理解出来るだろう。25年程前にロンドンで起こったパンク・ムーヴメントでは、狭い会場を埋め尽くした、やはりパンクのオーディエンスという光景が、その音楽やメッセージの内容以上にジャーナリズムに取り上げられていた。結局、パンクというムーヴが、パンクスの中で共同体的に閉じていた事が、ほんの数年でパンクを終息させてしまった事の要因だ。実は、パンク・ムーヴメントと小劇場演劇のブームには、現象としての共通項が幾つか含まれているのだが、この件も、また別の機会に取り上げよう。

別に、同業者の観劇を拒む理由や、演劇人が観劇をしてはいけない理由は何もないが、同業者を観客の主体として意識しても良い事は殆ど無い。何かがあるとすれば、運良く観客となってくれた著名な演劇人が、「劇団○○のステージが凄かった」というような公式のアナウンスが、他の一般観客にとって宣伝の役割を果たしてくれるというような事だろう。同時に、見ず知らずの著名な演劇人(或いは評論家)は、開かれたフィールドで社会性を持って活動している可能性が高い訳で、もしも同業者の感想から何かの参考になる要素を得たいというなら、そういう人達の批判的な声のみが聴くに値する。殆ど友人同然の同業者の褒め言葉等々は、家族の身贔屓と同様程度に考えておかないと、後々足を掬われる事になる。いずれにしろ、劇団サイドが観客の具体像として、同業者を中心に意識している間は、特定の劇団だけでなく、演劇その物を社会的に閉ざして行く事になる。演劇人が演劇人同士で芝居の見せっこをしているという構図は、単に規模を拡大しただけで身内の中の関係と言えるからだ。「閉じた演劇」と「共同体的な演劇」が重なる部分とは、このような所にもある。

#5 「お客さん」とは他人の事なのだ

今まで、お客さんとして想定して来たような、家族、知人縁者、同業者といった人達に向けてのみ作られた演劇を、「閉じた演劇」または「共同体的な演劇」と呼称する。だが、劇団(作り手)側が、「自分達は閉じた演劇をやる」或いは「閉じた演劇で構わない」という自覚の元に閉じた演劇を作っているという例は少ない。それは大概の演劇人が「より沢山のお客さんに観て貰いたい」と考えているからに他ならず、より多くの人に観て貰おうと思えば、知人縁者だけでなく、見ず知らずの他人=「他者」にまで観客層を拡げていかなければダメだという自明の事を分かっているからだ。だから、大概の劇団は「見ず知らずの他人に向けて演劇を作っているのだ」と主観的には考えている。にも関わらず、世の中に「閉じた演劇」が蔓延してしまう原因とは何かと云うと、それは「他者」という物が、自覚的に意識出来ていないという一語に尽きるのである。

例えば、家族や知人でも無く、同業者でも無く、評論家やメディアの関係者でも無いお客さんの事を、わざわざ「一般のお客さん」という言い方で括っている現実がある。「一般」と云いながら、その絶対数や割合が少ないというのは、出発して間もない小劇場劇団の殆ど全てが抱える現実である。

「チケットぴあ」が、一つの興行に対して、登録金のようなものをとるようにその営業方針を転換したのは、多くの興行が身内だけを対象とした「閉じた演劇」である為、販売数が一桁台で終わる事が大多数で、そのマージンをとるだけでは事業として成り立たないと云う背景があったからである。実際、現在のシステムでは、殆ど販売実数が無ければ「チケットぴあ」を用いると劇団は赤字を背負う事になる。だが、特定枚数の売り上げを満たせば、少なくとも赤字はなくなり、更に販売実数が増大すれば、指数関数的に登録金の金額など、殆ど無視しても構わない額へと小さくなって行く。そしてチケットの販売ルートが大衆的なものに広がっている分だけ、お客さんの購買チャンスを増やす訳で、かえって利益をもたらす面が大きくなる。制作的な側面から見れば、「ぴあ」を使用する事が劇団の負担となるのか利益となるのかが、どれだけ社会的に開かれた物に到達したかの指針となる訳だ。

実際に、「観劇する劇団の関係者に知り合いなんかいない」という大多数の観客は、「チケットぴあ」やその他のプレイガイドやエージェントから前売り券を購入するか、劇団が予約問い合わせ先として指定している電話番号やメール・アドレスやホームページ上の予約フォーム(劇団の制作部それ自体、または代表者や制作担当などの個人、委託された制作会社など様々な場合がある)にコンタクトするか、公演当日に直接劇場に出向いて当日券を購入するかという何れかの方法でしか入場券を入手し得ない。当たり前の話だが、お客さんがそうした行動をとるのには、それなりのエネルギーが必要だし、モチベーション、即ち動機付けが必要だ。

では、そうした「一般のお客さん」という「他者」が、特定の公演=興行を選択し、チケットを買い、劇場に足を運ぶ動機付けとなる物は何なのかという事が、自分達の演劇を開かれた物に変えて行く為に考えなければならない事なのである。他人には、劇団サイドにいる人間の成長を無条件に喜ぶ訳ではないし、知り合いが舞台に出ている事それ自体に対する快感も無い。そして観劇する義務も義理も無い。そんな客さんを、特定の興行への観劇という行動に動かす動機とは何だろう? 

それは即ち、

「この舞台を誰に観て貰いたいですか?」

という質問に対して、

「私達が一番観て頂きたい人達は、見ず知らずの他人です。今まで、私達の作品を知らずにいた人達に、私達の作ったものを知って貰い、そして好きになって貰いたいです」

と、答える事であり、そうした人達に、実際に劇場まで来て貰い、舞台を観て貰うにはどうすれば良いかを考え、実際の行動に移す事だ。そして、そうした他者の目は身内よりも遙かに厳しいので、自然と舞台その物のクオリティーを上げる事に繋がって行く。

#6 「その日の、その劇場」への長い道のり

日常的に「演劇を観る」という習慣を持っていない「他人」を演劇に向かわせる事は難しい。これは、特定の劇団が対処しきれる事ではないので、今回はこの話は見送っておく。商業演劇と呼ばれるジャンルを除けば、こうした「一生演劇を観ないかも知れないお客さん」を相手にしているのは、NODA・MAPと劇団四季ぐらいのものだ。演劇自体を開かれた物に変えて行くという事は、今後とも意識はされていかなければならないが、ここは千人規模のお客さんを対象とする小劇団の分相応に「少なくとも演劇を観るという行為を、自分の娯楽の一つとして習慣としているお客さん」、いわゆる演劇の愛好者を対象に戦略と戦術を考えよう。実は、これにだって大変かつ気の遠くなる道のりが待っている。

一人の演劇愛好者が特定の舞台……それも、初めて観る、新たな劇団(プロデュース公演)にたどり着く迄には、どんな過程が必要だろうか。選ぶという事の重大さと、その確率はどの程度のものなのか、また具体的に考えてみよう。

前に、劇団の数は三千から五千と書いたが、これは平田オリザさんの著作に書かれた推計に従っている。平田さんは、「青年団」という劇団のオーナーであると同時に、「アゴラ劇場」という劇場の経営者でもあり、長年に渡って蓄積されたデータから、全国におよそ三千の劇団があり、そのうち二千は東京都と東京近郊に集中していると試算した。本当だろうか? 私は、別のデータから、毎年、或いは毎月、毎週、毎日……その日一日に、どれほどの興行がうたれているかを考えてみた。そのやり方はこうである。

演劇専門の情報誌「シアター・ガイド(以下、TGと略す)」では、地域とその劇場別に、月々の演劇情報を掲載している。手元にあったTGを元に、東京圏には幾つの劇場があるかを数えてみると、117の劇場が記載されていた。歌舞伎座や能楽堂といった古典演劇専門の劇場も含まれているが、学生劇団が拠点としているアトリエや、養成所の教室として普段は機能している劇場は記載漏れとなっている場合が多い。また、通常の劇場空間以外(ライヴハウス、屋外、テント等)で行われる公演は、積極的に告知しない限り、記載漏れとなる可能性も高い。そうした事で、とりあえず演劇の行われる場所を「劇場」と定義して、東京圏には、ほぼ120の劇場があると考える。

勿論、劇場は365日フル稼働している訳ではない。メンテナンスの日もあれば、劇団が仕込みや舞台稽古として使用している間は、お客さんの主観からすれば「劇場はお休み」だという事になる。また、公演の日数には様々な形態が有り、数ヶ月のロングランという事もあれば、終末土日の二日間のみという公演、或いは一日だけという公演もある。かつての「渋谷ジアンジアン」のように、年中無休の公演体制を方針としていた劇場もあれば、最初から「小劇場劇団は終末の四日間しか劇場を使わない」という事を前提に料金設定をしている劇場もある。そこで、根拠はないのだが、東京圏の全ての劇場の稼働率は50%だと仮定する。これは、実は少なく見積もった仮定なのだが、少なくとも、一日平均60本の公演が東京圏では行われているという事になる。当然、終末の稼働率は高くなるだろうから、土日には100本前後の公演があると想定される。終末は、お客さんの観劇率も上がる訳だが、同時に、興行の数その物が増える。

つまり、明らかな観劇の意志を持ったお客さんを相手にしても、自分達の公演が観劇の対象として選ばれる確率は、数の上からだけで云えば60分の1以下なのである。

最低60興行はある公演の中から、一つの演目を観るという事を決めるという事は、他の59興行を観ないという選択をしたという事なのだ。小劇場の公演は通常一週間前後である事が多く、週に七日間、全日を観劇に充て、しかも土日は昼夜二本立てという観劇を敢行しても、最多で九つの公演しか観る事は出来ない。そんな事を連日出来る環境に運良くいる、或いは鉄の意志で観劇を続けているという極々希な人が居たとしても、60公演のうち9本な訳で、どう贔屓目に見ても、偶然観劇対象に選ばれるという可能性は5分の1以下なのである。それも、事細かに演劇情報誌やチラシ、ポスターなどの宣材、インターネットに書き込まれた告知をチェックしている人にとってさえそうなのである。

要するに、不特定多数の「他者」というお客さんを相手にしようと思うのなら、《自分達の公演が、その期間に上演される他の興行と比べて、何が違っていて、何を提供しようとしているのか? 或いは似たような別の商品に比べてどう優れているのか》という事を、質的にも量的にも的確な方法で伝達しなければならないという十字架を背負っているという事である。

まるで「徒労のような分析」と思われる事は覚悟の上だ。どうしてこんな事を書いて見せたのかと云えば、前述した「チラシを刷ってばらまく、ポスターをあちこちに貼る、ぴあやシアターガイド等の雑誌に告知を載せ、インターネットに告知する、ありったけの知人縁者にダイレクトメールを送る」という行為それ自体が、簡単に集客に繋がらないのは何故かという事を、根本的に認識するとはどういう事かを示したかったからである。勿論、二六時中こんな事を意識している必要は無いが、一度も考えた事が無いというのでは、決して「開いた演劇」には向かって行かない。

何故なら、「閉じた演劇」は身内を相手にしているから、そうした宣伝行為の質を厳しく問わない傾向にあるからだ。発注したチラシが刷り上がったり、情報誌に告知が載ったというそれ自体に満足してしまい、それが「他者」にどんな影響を与えるかを顧みない。挑発的な書き方をすれば、そういう宣材には甘ったれた表現が充満していてゴミ箱に直行するという運命を辿るのだが、おそらくそのような事は考えた事が無いのだろう。他の劇団、或いは他の興行との差別化を図ろうという意志が欠如しているという事は、とりもなおさず、何故その劇団が組織として存在していなければならないかという意義が無いという事になり、ひいてはその興行、公演それ自体の意味すらないという事になる。

趣味で行う演劇には、勿論、そのような使命も意義も必要ない。身内だけで楽しもうという人達は、一向にそれで構わない。ただし、他人は他人の趣味に関知しない。他人の趣味に投資をしたり、その為に時間を浪費したりはしない。他者の本質とはそういうものだ。そうした事に、意識的なアプローチを行わないという事であれば、いくら口先で

「出来るだけ沢山の人たちに観て貰いたいです」

と云っていたところで、全く実質を伴っていない嘘だという事になってしまう。

非常に馬鹿げた事ではあるが、「開いた演劇」を目指して最初に図らなければならない差別化とは、そうした趣味的な「閉じた演劇」との差別化なのである。演劇愛好者達、即ち一般のお客さん達は、大多数の小劇場演劇が趣味的なレベルで作られている事を知っており、チラシや情報誌のインフォーメーションから、その事をかなり鋭く嗅ぎ分けてしまうのである。例えば、鐘下辰男のTHE・ガジラは、その出発時点で、事ある毎に「我々をその辺の有象無象と一緒にするな」という類のメッセージを発信し続けた。常々アナウンスする必要は無いかも知れないが、自分達の活動の指針として、意識していかなければならない事ではある。何故なら、「閉じた演劇」或いは「共同体的な演劇」を遂行する人々は、常に同化という事を前提としているので、演劇界のしがらみ的な付き合いの中で、彼らに我々も同化してしまうという危険性を常に孕んでいるからなのだ。そして、「我々は他の劇団とはこう違う」というメッセージは、自他共にその事が認められるまで発し続けなければならないのだろうと思う。

#7 例えば……

貴方がとある劇団……プロデュース公演でも構わないが、兎に角、演劇の制作体である座組に加わり、演目として決定した泉鏡花の『天守物語』の広報担当であったとする。目的は、不特定多数のお客さんの獲得だが、演出家も俳優も無名の新人で、それ自体が看板商品にはならない……さあ、どうするだろう。座員一同がニッコリ笑って「僕たち頑張ります!」というような写真に収まった広告を作ればかえって逆効果にしかならないという事は、ここまで読み進んだ貴方なら既に判るはずだ。未熟な人間が頑張るという事、それ自体に感動したいのであれば、アマチュアスポーツやボクシングのデビュー戦を観た方が、満足度は高いに決まっている。

まず、貴方は「鏡花作品は幻想的で美しい」という事をアプローチとしようとするだろう。それは間違いではないように見える。鏡花が幻想的で美しい物語の作り手である事は有名だが、シェイクスピア程の安心商品ではないだろうからだ。だが、同時に、ロマン主義的な作風というのは、好き嫌いが強烈に別れる傾向がある。つまり、「幻想的で美しい」作品を「甘ったるい」とか「仰々しい」と云って嫌う観客は、端から鏡花を観ようとは思わないし、そういうジャンルが好きな観客ならば「鏡花作品は幻想的で美しい」という事実はとっくに知っている。

だとすれば、「鏡花作品は幻想的で美しい」という事をアプローチするのは間違ってはいないが、それだけでは不充分だという事が判るはずだ。また、シェイクスピア程では無いにしろ、鏡花作品を取り上げる一座は無数にある。鏡花が凄いというだけでは、お客さんは貴方の劇団にはやって来ない。第一、鏡花だけに頼っていたのでは、そもそも鏡花に失礼である。だから、『天守物語』を貴方の劇団が上演するなら、その『天守物語』は、新派の天守や、玉三郎の天守、花組芝居の天守や、ク・ナウカの『天守物語』とどう違うのかを明確にしなければならない。そこで貴方はハタと気付く筈だ……泉鏡花作『天守物語』の上演を世に問うという行為その物が、新派の伝統という演劇的文化や、坂東玉三郎の美意識、花組芝居の独自の世界観や、二人一役という新たな表現を生み出したク・ナウカの方法論、その他諸々の文化や演劇観と戦うという大それた事だったのだと……

最初から戦略の中に組み込まれていないのであれば、座内の誰かがそういう事に気付く……そういう事が無ければその劇団は「開いた演劇」へと向かって行く事は出来ない。いったん気付いてしまえば、富姫役の女優Aが「今日は昨日より良くなった」というような程度の話でヘラヘラしてはいられないのだという事が自覚されていくからだ。富姫が良くなったと云うなら、身内の目で無くても坂東玉三郎よりも良くなったとか、少なくとも玉三郎では絶対に出来ない富姫をつかんでいるとか、そういう領域に踏み込まなければ趣味や習作の範囲で終わってしまうという事が意識される筈だ。ここで初めて、誰に観て貰いたいかという質問に、

「特に誰とは思いません。私は舞台で全力を尽くすだけです」

と、答えた俳優に対して、全力を尽くすという努力の方向性や目標値を示唆する事が可能になる。がむしゃらに頑張るだけというのでは、ただの情緒的な感情に過ぎず、そのような議論は意味をなさないからだ。

さて、広報担当である貴方は、そのような事に気付いてしまった以上、次の行動として、作品の芸術的責任を負っている唯一の人物……つまり、演出家と濃密な関係を持つ事になるだろう。演出家が、その『天守物語』を、唯一無二の独自なものにしようとしているベクトルが、傍目から見ても明確であるなら、何も話し合ったりする必要はない。それに相応しい簡潔な一文、つまりキャッチコピーのようなものを貴方か、もしくは貴方が書けないのであれば文章の得意な誰かに書いて貰えばいい。

「劇団○○の天守はSFだ!」
「富姫はあなたの隣人かも知れない……」
「現代人の心の底に天守閣はある」

まあ、何だって良いが、鋭い一文であればある程良いだろう。鋭いコピーがダメだというような創作段階にあるなら、演出家が考えている事を、出来るだけ分かりやすい言葉にして貰う。難解であるという事を売り物にしたいなら、別に難しい言葉でも構わないが、兎に角、その『天守物語』をイメージするのに、一番相応しい形というものには気を配らなければならない。そして、間違っても、「どうなるか分からない」という無責任な言葉や「何しろ鏡花は天才だから」というような甘ったれた発言を演出家に許してはダメである。そういうコピーを目にしたお客さんは、簡単に「この演出家にはやりたい事が無いのね」とか、「何だ、鏡花のホンにオンブにダッコかい」と思ってチラシをゴミ箱に捨ててしまう。後になって、役者や演出家が「そんなつもりじゃなかった」と云ったところで後の祭りだ。座組がそうした甘えの構造を残したまま創作に取り組んでいたか、少なくとも、そうしたイメージが不特定多数に流れる事を許容してしまったという創作集団としての連帯責任が問われるだけである。

そして、同様の事はビジュアルにも言える。宣材のビジュアルは、劇団(制作体としてのカンパニー)や公演の演目それ自体のイメージを、出来るだけ的確に伝えている事が要求される。購買行為というのは、いわゆるイメージを買う事でもあるので、生活用品や飲食物にもイメージキャラが設定される。永谷園の麻婆ハルサメは和田アキ子だし、タカラの缶チューハイは藤原紀香だ。だが、単に目立つからという理由だけで『天守物語』のビジュアルに無許可でベッカムを使う訳にはいかないし、全くのナンセンスだ。スターを主力商品とする座長公演なら、座長となるスターを大きく中央に配置して、多彩なゲストをまわりに並べるというビジュアルを作るし、おどろおどろしさを売り物にしたアングラ演劇はの神経を逆撫でにするような毒々しい絵やコラージュを多用する。

例えば、青年団のチラシに使われるモノクロの静物画的な風景写真は、平田オリザ世界の描写の演劇というイメージを的確に表している。青年団は、俳優をスターとして商品化しないし、ロマン主義や不幸な劇的状況を武器としないからだ。青年団のチラシには、「現代口語劇」という劇団のスタイルや作品内容に関する記述は無いが、そうした「思想的なプロパガンダなど無く、ただ、現代口語劇という演劇的様式を用いて、ただ、世界を描写する」という劇団のベクトルそれ自体が、演劇界に於ける一つの商品価値として認知されているから、作品タイトルとビジュアルのみで青年団のチラシはその機能を果たす事が出来る。このような段階に至った時、初めてその劇集団は一般に開かれた物になったと認める事が出来るのだろうと思う。

#8 とりあえずの、終わりに……

以上、制作的な側面からの演劇の開き方、閉じ方を記してきた訳だが、動員が大きければ「開いた演劇」とは限らないという話は最初にも述べた。ただ、無関係な他者に向けて自分達の演劇を問うという姿勢を持たなければ、開かれた演劇へは向かっていかない。自分達をアピールする事を考えるのは、結局、自分達が何をしようとしているのかという事に意識的にならざるを得ない……制作的な側面は、その為の第一歩としての、一つの形に過ぎない。そうした意識を、集団の構成員全員が共有するか、特定の制作担当者だけが心を砕くのかという事は、結局は個々の集団に帰する問題だから、それを云々しようとは思わない。ただ、演劇実験室∴紅王国という集団は、開かれた表現というものに向かって、少なくとも一度ぐらいは考えておこうという形で、問題意識を共有したいと思っている。それは自分達の目標値や到達点を日々検証して行く事に他ならないと思うからだ。まあ、よその劇団がどう考えるかは私の知った事では無いし、我々がどうしようと、よその劇団には関係ない。単純に、趣味で良いという人達とは一線を引きたいと思っているだけだ。今回はあえて避けたが、紅王国の演劇戦略に関しては、別の形で書く事になると思う。

それから、表現としての「閉じた演劇」については、今回はその詳細を記していない。その事は、共同体と社会、或いはゲマインシャフトとゲゼルシャフトという概念を語る事になるだろうし、最終的には「人は他人を理解しうるのか?」という領域に踏み込むだろう。当面、そういう事は、作家として作品で扱う内容だと考えるが、いずれ文章化して行く事になるだろう。そういう訳で、今回の文章タイトルには(1)という番号を付けた。(2)以降がいつになるかは分からない。
2002/12/23〜30

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