野中友博の
『邪教の館』

《32》「気持ち」という迷妄



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先日、「紅王語録」に「役者の気持ちなんて関係ない」という文書を上梓したところ、思わぬ反響を呼んだ。掲示板にはこの件に対して十数個のスレッドが立っていたし、よそのサイトで、その応酬の感想を書いていた人も居たので、まあ、結構な数の人たちにとって関心の高いテーマだったのだろう。まあ、「紅王語録」では、この「邪教の館」以上に挑発的な短い書き方をしているので、十分予想された事態ではある訳だが、もう少し具体的な考察を加えておこうと思う。

  #1 「関係ない」という事の深意は演出家という役割に関わっている。

演出家の仕事は、作品としての舞台を、ある一定の美学と超課題によって、特定のベクトルに収斂していくという事である。俳優がどのように役を構築していくかという指針は、演出が与えなければならない物だが、内面の支えや構築自体は、本来俳優個人の役割に帰せられる物である。内面の支えの不足、或いは欠如といった事態は。俳優の怠慢以外の何物でもなく、それに対して叱咤激励するとか、集中力不足を指摘するというのは、本来なら演出家の仕事ではない。世の中には、演出という行為と、俳優トレーナーの役割を混同している向きもあるが、それはまた別の話だ。

演出家にとって重要なのは、表現として具体化されている俳優の佇まいその物であって、結果として導き出された物を問題とする。演出家にとって大事なのは、俳優が何をやっているかであって、何を考えているかではないのだ。舞台に求められる事は、その現出させた世界で、観客の意識を変える……或いは何らかの影響を加えるという事であるから、慟哭する演技を完璧にこなしている俳優が、実は心の中で今夜の酒の肴を何にしようかと考えていたとしても、そのような事には関知しない。また逆に、誠心誠意、慟哭する役の内面を再現していたとしても、それが何ら表現としての完成度を満たしていなければ、その不都合を指摘しなければならない。

しかるが故に、演技に際して、俳優が「気持ち」なるものを入れた方が良いのか否かという事は、最終的な問題ではない。俳優が演技の出発点として、役に同化するのか、異化して表現するかは、また別の話である。

  #2 俳優が自覚的に自己制御をしなければならないのは自明の事だ。

例えば、作品に求められている様式……リアリズム演劇だろうと、それはリアリズムという様式である……に従って、正面切りを続けなければならなかったり、観客席の視線に対して、俳優が他の俳優を遮ってはならない、或いは遮っても良い、更には、自然主義描写を徹底する為に重なりを積極的に取り入れる……等々というルールを遵守する事が要求される。そうした基本的な事の順応能力は、台詞の正確さや立ち位置のバランスといった形で、演出家の仕事の範囲にも関わってくる。それは、「役に同化する」という演技論が是とされていても当然要求されるルールである。そうした感覚の欠如している俳優は、端から俳優としての資質の一部を欠いているという事になる。それでも通用する俳優というのは、以前も書いた気がするが、一種のカリスマ性や色気という才能を持っている、主役やトリックスターしかできない「馬鹿でも良い役者」という範疇に入る人々だが、それを詳述する事は今回の論旨からは外れてしまうのだ別の機会に譲る。

兎も角も、台詞の語句や順番、間合いやミザンスツェーナといった拘束に俳優は従わなければならない。至上美とは、実はこうした拘束や制約の遵守の中からしか生まれて来ない。従って、いくら役に同化するといった所で、俳優が全くの別人格に憑依された状態になる事などあり得ない。そのような状況が実現するとすれば、それはもはや精神病である。「気持ち」を入れるとか入れないとか言う議論にしても、結局はその範囲内で行われているに過ぎない。しかし、問題の本質はもっと別のところにある。

 #3 そもそも、「気持ち」とは何の事なのか?

掲示板の応酬でもそうだったが、割と多くの人々が「気持ち」という物を自明の事として使っている。しかし、おそらく「気持ち」の意味は、それを用いる人々によって各人が異なった定義を与えているのではないかと思われるのである。

例えば、演劇の世界以外では、プロレスラーが良く「気持ち」という言葉を多用する。曰く「若手は気持ちでぶつかって行け」とか、「技より気持ちが伝わらなければ……」というような使われ方である。この場合、「気持ち」という言葉は、「気迫」とか「闘争心」というような意味で使われている。プロレスは一種のスペクテイター・スポーツで、観客の存在を抜きには存在し得ないエンターテイメント・ジャンルだ。多くのプロレスの観客は、選手同士の感情のぶつかり合いのような試合を好む。「馬鹿野郎!」とか「死ねコノヤロー!」といった言葉が、リング上に飛び交う事を歓迎するのだ。

演劇の世界と共通する「気持ち」となると、それは一種の「やる気」のような物と考える事が出来る。では、気持ちとはモチベーションの事なのだろうか? 演劇現場で使われる「気持ち」という言葉からは、どうもそうは思われない。プロの演劇人にとっては、結果を出す事が全てなので、そもそも「やる気」のあるなしは、ますます関係ない事象という事になる。ただし、「気持ち」という言葉そのものが、特にエモーショナルな印象を与える事も確かだ。

おそらく、「気持ち」という言葉は、俳優が演ずる役の内面全般として、何となく漠然と使われている物だ。だが、自覚的に役の内面を語るのであれば、「気持ち」という言葉は相応しくないと私は考えている。前述した通り、「気持ち」という言の葉には、多分にエモーショナルな響きがあって、内面=感情というように、短絡的に結びつけられてしまうからだ。

 #4 対話によって構築される内面は、心理現象ではなく生理現象である。

リアリズム演劇においては、役の内面の変化は、その場面の状況……視覚的に入ってくる時空の総体、相手役の言動といった事象を、俳優がその役の人物として五感を働かせる事によって成立する。それは「感じる」事ではあるのだが、「気持ちを入れる」事とは全く異なる。心理の変化が、五感による生理からもたらされるのだという事は、近代演劇の成立と同時に、一種の常識的な事になっている。俳優訓練の過程という物は、これらの五感を働かせる事の訓練と、自家発電的な「気持ち芝居」を剥離していく事を目的としていたりする。

実際に、稽古の過程で厄介なのは、自家発電型の内面構築を行う俳優である。このタイプの俳優は、相手役やそれまでの流れと乖離したところで演技をするので、総体としての場面の緊張度や、緻密な関係性を壊してしまうのだ。私が「気持ち」とか、「気持ち芝居」という言葉から感じるイメージとは、こうした自家発電型の俳優の内面の事である。勿論、別のイメージを持っている方々も多い事だろうが、「気持ち」という言葉の曖昧さの問題は、実はそのようなところにある。

もしも、俳優の内面、特に演じている役の内面を「気持ち」と呼ぶのであれば、それは「入れる」物ではなく、対話の過程で生ずる物だ。そう考えれば「気持ちを入れる」等という行為は、否定されるべきだし推奨される物ではない事が判る。

 #5 脳や心理の働きは「気持ち」という一言で表せないほど複雑だ。

「気持ち」という言葉にはエモーショナルなイメージがつきまとう。愚かな俳優は、それを感情という心理に直結させてしまう。その結果として、泣きがかかった演技をしたり、感情過多な表現が頻発したりする。感情がピークに達している時というのは、外界に対する五感の働きを鈍らせるので対話がちぐはぐな物になってしまう。

ユングが心理の働きを「感情」「感覚」「思考」「直感」の四つに分けた事は、それ自体が学説として正しいかどうかとは別に、役の構築や場面の演出には極めて有効だ。例えば、恐怖や驚きは直感に属する物だし、熱い寒いや痛みは生理からもたらされる感覚的な物だ。内面を感情だけで捉える俳優は、痛みを哀しみの表現に傾斜させ、暑さの不快感を怒りに転化させるという事を往々にしてする。そうした表現は、「気持ち芝居」と呼ばれて否定の対象となる。またフロイトは潜在意識を発見したと言われるが、そうした潜在意識、自我、超自我といった分析をした場合、「気持ち」とはどの部分を、或いはどれとどれを含むのか……という点に対しても曖昧なままだ。

こうして考えてみると、俳優が、或いは演出家が、役の総体を捉えていく作業でも、「気持ち」という言葉が有効ではないという事が判る。つまり、「気持ち」を問題にする事自体がナンセンスなのだ。

俳優がその作品、或いはその場面で「役を生きる」という責務を全うする事は、個人の役作りや、稽古の過程で構築された役の人物として、限りない自由度を獲得した時に達成される。自由とは制約を取り払うという意味ではなく、それを使いこなす事を意味している。自由度を獲得している俳優は、対話の流れによって内面を発動させているので、特に「気持ち」を入れるとか入れないと言う事を意識してはいない。

 #6 「気持ち」という言葉を使わなければならない場面はあるのだろうか?

私としては、「気持ち」がどうしたというダメを稽古場で俳優に出した事は無いし、そういう現場にも参加した事がない。俳優が自分で「気持ちが……」という事を話したのを聞いた経験はある。自分の演技について、「気持ち」という部分で拘った俳優は、ほぼ100%が何かを勘違いしている。

自分がどんな気持ちなのかという事は、自分自身でだって解っている訳ではない。せいぜい集中力が高まっているか欠けているかという事ぐらいしか自覚は出来ないはずなのだ。そして、さんざん書いたように、俳優の役に対する表現の状態を指摘するのに、「気持ち」という言葉は全く有効ではない。混乱を生じさせたり、方向を間違えさせる事はあっても、良い結果が得られるとは思えない。

私は、プロの演劇創造の現場や、若い俳優志願者に対する教育現場でも「気持ち」という言葉は排斥されるべきだと思っている。曖昧な表現は正常な共同作業を疎外するだけだからだ。正直言って、「気持ち」をどうにかすれば芝居がどうにかなるなどと言う思い込みは、単なる迷妄でしかないと思うし、演技に於いて何ら内面が動かないというのであれば、そもそも俳優という業種には向いていないのである。

「気持ち」が問題になるのだとすれば、それは演技者の演劇に取り組む姿勢とかモチベーションの問題であって、役作りや演劇創造とは無関係のところにしか無いだろうと思う。電車の中で、向かい側の席に座っている他人がどんな気持ちかなんて、おいそれと判る事ではないのと同様に、気持ちなんか相手に簡単に伝わる物ではない。

要するに、コミュニケーションだの表現といった物は「伝わらない」という前提を出発点としなければならない物なのだが、それについてはまたいずれ。
2002/12/1