野中友博の
『邪教の館』

《30》パックスとテロル(2)



『邪教の館』へようこそ。

米国同時多発テロから一年と少しが過ぎた。だから、ほぼ一年ぶりの続編であるのと同時に、『女郎花』の忙しさと持病の鬱病から三ヶ月程滞っていた『邪教の館』の再開……なのだが、肝心な事は、一年前の原稿「パックスとテロル(1)」にほとんど書いてしまっているようである。

ちょうど一年というあたりで、通称「ブッシュ・ドクトリン」と呼ばれるアメリカの基本姿勢が表明された。他国に米国以上の軍事力は持たせない、とか、国際紛争に対して、軍事力の先制使用を躊躇わないといった、世界で群を抜いた軍事力を背景とする、外交姿勢が強調されている。そして、イラン、イラク、北朝鮮の三国を「悪の枢軸」と呼んであからさまに敵視している。

これ以前から、アメリカは「京都議定書」の拒絶であるとか、「ABM条約」の廃棄といった形で、国際協調に反する独善的な外交姿勢を増加させていた。「ブッシュ・ドクトリン」をして、「まるで学校の番長と変わらない」と言う声は少なくないが、結局、「世界の警察」を自負するアメリカのメンタリティーとは、その程度の物なのである。

一年前のテロは、「ニューヨーク……或いはアメリカは、軍事的な側面でも安全ではない」という、アメリカの危機管理能力に対する、イメージとしてのダメージを、一時的に与えたかも知れないが、それ自体がアメリカの帝国化を抑制したりはしない。私は一年前、この事件がパックス・アメリカーナの終焉の先触れとなって欲しいと望むというような意味の記述をしたが、むしろ、アメリカの国際協調離れと、軍事帝国化は加速しているように見える。その意味で、9.11という事件は、国連の空洞化を助長してしまった事になる。

精神分析学者岸田秀は、国家としてのアメリカは強迫神経症に罹っていると指摘している。簡単に言えば、それは「正義の味方病」であり、原住民であったネイティブ・アメリカンから、暴力によって国土を強奪したという建国の基礎がトラウマとなって残っており、それを正義の戦いとして正当化するために、「正義の戦争」としての軍事介入を強迫的に繰り返すのだ……と説明されている。

確かに、アメリカの本土が軍事的に侵略されたり、戦場となった例は、内戦であった南北戦争と、英国からの独立戦争を除けば、日本による真珠湾攻撃と昨年の同時多発テロ以外には見あたらない。にもかかわらず、二つの世界大戦を含め、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、更にはアフガニスタンのタリバン政権に対する攻撃と、アメリカが軍事力を行使した例は枚挙にいとまがない。確かに、どんな時でもアメリカは戦いたがっているようにしか見えないことがある。

「気に入らないやつはぶん殴ってやる」という風にしか読みとれない「ブッシュ・ドクトリン」を表だって批判する国もないというのは、一種、空恐ろしい状況である。結局、その背景には、圧倒的な軍事力に代表される、「アメリカの一人勝ち」という状況があるのだろう。資源としての石油が枯渇し、食料が世界資源の主要物資となれば、広大なコーンベルトを持つアメリカの優位は、ますます拡大するだろう。今後、EUなりアジア諸国なり、或いは第三世界の諸国がアメリカに対抗しうるような同盟を組むことも、「ブッシュ・ドクトリン」の方向性が維持される限り、アメリカからの外交的な圧力が加えられる事は目に見えている。

結局、恐れなければならないのは、こうしたアメリカの唯我独尊外交によるストレスの爆発であり、それは当然、テロという形で体現されるであろうという事なのである。アメリカのメンタリティーは幼い。同様に、テロ組織のメンタリティーも成熟している訳ではない。テロは肯定できないが、南北問題による格差が解消されない限り、テロを撲滅する事も出来ないであろうという見通しはおそらく正しい。アメリカは力による力の押さえ込みという姿勢で、これからもどんどん頑なになっていくだろう。

かつて、日本の保守勢力は、反共という意味で親米的な態度をとったりしていた。現在、保守勢力は、例えば「自虐史観への反発」という形で、反米的な姿勢をとりつつある。そうした気分の問題は、テロに訴えるイスラム原理主義者と同じ根を生やしている。戦後民主主義と呼ばれるアメリカン・デモクラシーに対する反発は、必然的に天皇制回帰という形でのナショナリズムに訴えるからだ。それはまた、別の意味で国際協調の道を閉ざしてしまう事になるだろう。

私はナショナリズムには与しない。そしてアメリカ万歳とも思っていない。アメリカはデモクラシーを押しつける国として認知されている面があるが、その姿勢は、世界的に見れば民主的ではない。ひとつの国家が世界政府を代表するという事は不健全だ。藤原帰一は、自著『デモクラシーの帝国(岩波新書)』の中で、『スター・トレック』や『インディペンデンス・デイ』といったSF作品を取り上げ、そうした異星人・異文化との接触の中で、アメリカが地球そのものを代表してしまう事が、アメリカ人にとっては何の矛盾もない自明の事として捉えられている事を看破している。それは、世界政府という物を構えるには、人類がまだ幼すぎる事を示しているが、それはアメリカだけの問題ではない。

少なくとも、現在では空洞化した国連に代わり、アメリカが世界的外交と軍事のイニシアチブを握っている。そして、我が国を初めとする、親米というよりは追随的な国家が、アメリカの増長を助長させている。「ブッシュ・ドクトリン」のひとつをとってみても、私はパックス・アメリカーナを歓迎しない。それは、潜在的なテロのマグマを沸騰させるからというだけではない。何しろ、アメリカの大統領とアメリカ政府は、基本的にアメリカの国民に対して責任を負っているのであり、世界は二の次なのだ。そして、我々はアメリカの議員も、大統領も選ぶ権利を持っていない。そんな状況下で、ワシントンから押しつけられる正義とデモクラシーはアンフェアだ。

国家というものが、特定の階級、特定の民族、せいぜい特定の国民という、限定的な人々の利権を代表する権力機構である限り、国際協調とは妥協であり不利益の受容である。アメリカの正義とデモクラシーは、アメリカの為の正義とデモクラシーでしかないが、もしも、世界のデモクラシーの守護者を自認するのであれば、アメリカは国家の解体に向かわなければならなくなる。それは、アメリカ以外の国家にとっても同様だ。「ブッシュ・ドクトリン」は、国家という物が権力機構であり、国際関係というものが、今日の世界では結局は権力闘争なのだという事を浮き彫りにする訳だが、東西対立という概念のなくなった今、国家の解体というビジョンにはリアリティーがない。

少なくともアメリカには、わざわざテロリストに喧嘩を売るような、挑発的な外交姿勢と、軍事立国という形から変化して欲しいとは思うが、その方法となると、今は見当がつかないとしか言いようがない。そこでも、やはり、「我々には米大統領を選ぶ権利がない」という事実が決定的に作用している。そして、現在、その大統領を擁する政府が、世界の運命を力を背景に左右しようとしている。我々は、その力への反発としてのテロルが、いつ起こっても仕方がないという世界と時代に生きているという事は確かなようである。

2002/10/10