野中友博の
『邪教の館』

《28》演劇の裾野



『邪教の館』へようこそ。

この春、ここ数年では滅多に無いくらいたくさんの芝居を観た。それでどうだったかと云うと、多分、どれもこれもつまらなかったのだと思う。ダメな芝居だったという事とは別だ。

私の心は躍らなかった。嫉妬する事もなかった。

そのように書いてしまうと、もう、話は終わりだ。どうしてつまらないのか……という事を突き詰めていく事は、実は疲れる作業だ。そして、私は「疲れたくない」と思っていたのだろう。そして、退行が始まる。

唯一絶対に正しい演劇のやり方なんてもんはあり得ない。

あり得ないが、一方に、自分自身の「唯一絶対に正しい演劇」を信じる人達が居て、その事でむやみやたらと激怒したり、嘲笑したり、熱い演劇論を語ったりする。そんな場面を目の当たりにすると、やはり疲れる。そして、疲れる事を拒否すれば退行する。激怒している連中を前にして、「あんたの云っている事はナンセンスだ」と論破できれば、疲れるにしろ、心地よい疲労感が残る……力泳や遠泳をした後や、セックスの後の疲労感と同じだ。達成感、と云っても良いかも知れない。

どうしてつまらない芝居が乱立するのか、と云えば、芝居は誰にでも出来る、という事実に、割と多くの人達が気付き始めたからなのだ。

で、「芝居は誰にでも出来る」のだが、「誰でも専門職としての演劇人になれる訳ではない」という事の差異が認識されていない……それがロクでもない芝居が横行する事の原因である。横行する……というか、そんなモノを見なければならない状況が発生する事の原因である。なんて事を書かなきゃいけない、今、という時期を考え直さなければいけないのだろう。

歌を歌う……これは誰でもやっているし、誰がやっても良い……当たり前だ。字を書く……これも殆ど誰でもがやっている。絵を描く事も、走る事も、料理を作る事も……それらの事は大概の人が日常的にやっている行為だが、その道のプロという人達が存在している事も一方にある。

例えば、家事をしながら鼻歌を歌ったりする事、出社後の朝礼で社歌を歌う事、仲間内でカラオケに行って歌う事、サークルに所属してコーラスに参加する事、趣味の一団でバンド活動でボーカルを担当する事、音楽大学で声楽を学ぶ事、レコード大賞にノミネートされる歌手になる事、カーネギーホールでアリアを歌う事、ソロ・シンガーとしてビルボードのトップにチャートインする事……それらの事柄には「歌う」という行為が共通しているが、それぞれが、微妙に、或いは全く異なるスタンスに立っているという事を、大半の当事者は自覚している。

カラオケで上手いと褒められる→勘違いしてアイドル歌手を目指す、という現象は、それ程珍しく無いのかも知れない。ポップスの中には、カラオケでヒットする事=歌いやすい事を前提に作られている事も多いから、ルックスを含めたある種の才能に恵まれていれば、それがトントン拍子に運んでしまうという事も無い訳ではないと思う。だが、アイドルに求められるタレント(才能)は歌唱力だけではないし、歌は単なるおまけでしかない場合もある。

極々親しい人達の中で歌が上手いと褒められる……それだけで三大テノールと同じ土俵に立てると思っている人は殆ど居ない。町内対抗の草野球でエースの四番であっても、プロになれたりイチローになれる訳ではない。それらのジャンルには、ある種の教育環境や裾野の広さに基づく、経験的な合意が成立している。趣味と専門職の色分けや棲み分けが明確なのだ。ただ、歌う事、野球をやる事、その他諸々の事は、一つの趣味や娯楽として万人が楽しむ事を認められている。

そして、演劇はどうか、というと、「お気楽極楽に演劇を楽しむ事は誰にでも出来る」という土壌が、やっと出来つつあるのではないか思う。演技をする事の本質は、「仮面ライダーごっこ」だの、「ウルトラマンごっこ」のような、何かのキャラクターになりきって遊ぶ……という事から出発している。一種の遊びとしての「演技」は、野球をやった事があったり、歌を歌った事があるという体験と同様に、多くの人が幼少期に体験しているはずである。だが、再三再四書いてきた事だが、観客不在では演劇は成立しない。

「世の中には一生芝居を観ないで終わる人もいる」

最近、とある人からそのような言葉を聞いた。芝居……というのは、リアルタイムの舞台と観客という条件を備えた観劇体験の事だ。私の妻は、いわゆる学校公演という、主として小中学校の体育館や講堂に出張して生の舞台を提供するという仕事に従事している女優さんだ。多くの学校が、生の舞台の観劇という物を、何らかの形でカリキュラムに組み込んでいるから、一種の学習として演劇にふれる機会は増えているのだろう。しかし、音楽や美術、書道といったジャンルに比べれば、生涯の中での演劇体験は微々たる物だ。演技者として観客の前に立つ……または裏方として参加した舞台が観客の目に触れる、という体験に至っては、これまた遙かに少ない。一生かどうかは別にして、「一年に一度も生の舞台を観ない」という人に関しては、むしろ全人口の大多数を占めるだろう。

多くの人達は、小学生(或いは保育園だの幼稚園だのという幼児期の教育や保育過程)の時分から、多くの同世代と共に絵を描き、楽器にふれ、スポーツを共にして、自分の才能や力量、或いは興味の度合いといった物が、どの程度の水準にあるのかを体験的に知り、了解していく。誰でもその原点を「ごっこ遊び」で体験している筈の演技が、「観客と演技者」という形に別れた演劇に昇華された形での体験は本当に僅かだ。

全国には三千から五千の劇団があり、劇作家協会に加入している劇作家だけでも四七〇人に及ぶ……このように書くと、何やら演劇はもの凄いブームであるような気がするが、専門家として認識されている劇団や作家、俳優はほんの一握りだ。それでも、そのように日常的に演劇をやる人間が増えたのには幾つかの理由があるだろう。

一つには俳優養成所と云われるような教育機関が恐ろしい程に増えた。二十年程前と比べると、養成所ガイドのような本の厚みは著しく増加している。昔は、恐ろしい倍率を潜って養成所に入所し、更に厳しい倍率を潜り抜けて劇団に入る以外に、俳優となる道は閉ざされていた。今は、劇団に採用されなかった養成所の同期の仲間達が劇団を旗揚げするという事は珍しくない。そうした群小劇団が発表の場を持つ事も困難ではなくなった。劇場……特に百人前後からの客席数で作られた小劇場の数も激増したからだ。

狭き門だった養成所や大学の演劇科の門戸は広くなり、公演自体を実行する事も、割とお手軽に出来る……小劇場バブルと呼ばれた80年代後半に比べれば、養成所の門を叩く人の数は減っているらしいし、それぞれが経営の成立に必死な状態であるらしい。こうした状態が、人材の集中を妨げ、結果として全体の水準を下げているという傾向は否定できないだろう。ただ、お手軽に演劇が出来るという状態は、演劇の裾野を広くした事も確かだ。

ムエタイの中軽量級は、圧倒的にタイの選手が強い。それはタイ人だから、ではなく、タイの男の子達は、日本の少年達が野球やサッカーをやるように、日常的にムエタイを学び、一攫千金の手段としてその競技に対して必死に精進するからだ。まあ、一時期程ではないのだろうが、日本ではある程度の体格と運動能力を持った人間が野球というジャンルに集中してしまう為、例えばヘビー級のボクシング・チャンピオンが育たないというような事が指摘されていた。国の内外を問わず、競技人口の多いスポーツジャンルほど、その内容は充実している。日本のポップスやロックは、一頃からは信じられない程の高水準に昇っているが、それは楽器を持つという事が、特別なお金持ちと環境に恵まれていなくても可能になったからだ。

今、経営難を抱えている俳優学校の売り文句は、殆どが「うちに入所すればデビューの確率が高い」という事に尽きる。その裏付けはコネかも知れないし、講師陣や設備の充実かも知れない。哀しい事だが、生徒をお客さんとしてチヤホヤして猫ッ可愛がりするという現象も見聞きする。それが続けば、勘違いした人間を増やすだろうし、演劇というジャンルの水準はどんどん低下して行く。勘違いによる弊害は暫く続くかも知れないが、希望はある。考え方一つだ。

例えば、日本の野球の競技人口と云った場合、何処までをその範囲内に収めるだろうかという事を考える。セパ両リーグの一軍と二軍を併せた契約選手と、メジャーリーグで活躍中の日本人大リーガー……こうした人達に限定すれば、おそらく千人に満たない。これを「専門職人口」として考える。次に、社会人チーム、大学の野球部という人達を加えると、この数は倍増する筈だ。現在の制度では、プロの球団に所属する選手を含めて、オリンピックの代表チームに加わる可能性のある人達である。ここまでは、「専門職人口」に準ずる枠組みに含まれると考えて良い。そして、甲子園を目指す高校球児達がいる。実際に甲子園の土を踏む人間が厳しい予選を勝ち抜いてくる事を考えれば、この数は実に膨大だが、彼らは将来「専門職人口」に加わろうという希望を抱いて切磋琢磨する日本や球界の水準を支える人達だ。そして、例のサッチー騒動で、私のような野球に疎い人間でも知るようになった現実として、甲子園にエントリーする野球部のある高校を目指す、リトルリーグの少年達がいる。ここまでを競技人口に加えれば、多分、既に七桁に達するだろう。それからプロになる夢は諦めたが、町内対抗や商店会対抗という形で、日常的に野球を続ける成人男子の人々……アマチュアとしてチームに加わっている人を含めれば、数千万人の野球選手という物が想像できるではないか。こうした「準・専門職人口」や「愛好者人口」を競技人口に含めて、初めてそのジャンルの充実度や成熟を計る事が出来る。多分、これからは、目下とてつもない盛り上がりを見せているワールド・カップに見られるように、サッカーに関する数字も肥大して行くだろう。

スポーツという物は、ある意味では結果のハッキリしているジャンルなので、専門職と準専門職、そして愛好者の色分けが明確である。歌曲や演劇はその辺の色分けが曖昧な段階だが、それは誰もが演劇が出来る……というような認識が一般に浸透して初めて可能になる物なのだと思う。だとすれば、なすべき事はハッキリしている。

「演劇は誰にでも出来るし、実行すべきだ。ただし、専門職になれる人間は少ない。その為には、才能と努力と環境が必要である」

実は、こんな当たり前の事実を、誰かがアナウンスしなければならないし、やらねばならないのだ。そうした事が明確になった方が、専門職としての俳優……我々、作・演出家その他のスタッフも含めてだが……は、一般の愛好者の尊敬も勝ち得るだろうし、地位も向上するだろう。だから、現在、雨後の筍のように乱立している俳優養成所は、ハッキリとアナウンスする必要がある。職業俳優を養成しているのか、カルチャー・スクールとして演劇を楽しむ場を提供しているのか、を……それをお客さんとしての生徒さん達が認識し、選別する時代はそれ程遠い事ではない。私はそう思っている。

「参加する事に意義のある演劇」そんな物があっても、私はいっこうに構わない。構わない、と云うか、いわゆる演劇マスコミなり、先人方に、それなりの評価を頂けるようになって来るまでには、私も「やりっ放しの演劇」をやり続け、垂れ流し続けて来た筈なのだ。何処で意識を転換するか、目標を何処に設定するかはやり続けなければ判らない。

まあ、何故、こんな事を書く気になったかと云えば、この春の観劇の中に、純粋に趣味として演劇を楽しんでいる人達とか、将来専門職を目指す養成所の生徒さん達の公演という物が、幾つか含まれており、そんな趣味的な公演に対して、ムキになって「芝居を舐めるな!」という類の怒声を発した人を目撃したりしたからだ。

趣味で草野球をやっているオジサン達に、「野球を舐めるな!」という罵声を浴びせる大リーガーは居ない。彼らは元々、既に世界が違う事を熟知しているし、そうした人々がジャンルそのものを支えている事を知っているのだ。勿論、草野球感覚でペナントレースや大リーグに参加している選手は居ない。同列に物事を語る事は、自分を落とす事になるという事も心得ているのだ。

そして、星飛雄馬には星一徹が、矢吹ジョーには丹下ダンペイがついていた。二人は、プレイヤーとしての専門職からリタイアし、コーチとしての人生を賭けた人達だ。専門職の背後には、それを全うできなかった無数の一徹やダンペイが居る。自分が飛雄馬やジョーである事を信じられる、信じ続ける事も一つの才能だと思うし、我々はそれを信じて驀進するのだ。そりゃあ、誰だって「とうちゃん」や「おっちゃん」よりも、ジョーや飛雄馬の方が良いモンね。そして、自分の才能を信じて、敗者の恨みを背負って行くのだ。嗚呼、あたしも頑張らないとねえ……

2002.5.31