野中友博の
『邪教の館』

《27》躁鬱の時代〜「作家は坐って書くだけ」か?



『邪教の館』へようこそ。

何週間か前、演劇実験室∴紅王国ホームページの掲示板に、久しぶりにワクワクする演劇書を読んだ……という事を書いた。いきなりネタバラシをしてしまうと、その本とは山崎哲の『俳優になる方法』(青弓社・寺子屋ブックス24)である。

タイトルだけ取り出して見れば、最近流行のマニュアル本であるような印象を受けるが、この本はかなり高度な演劇論だ。「まるっきりの初心者に対して書く」という体裁をとっていながら、はっきり言って初心者にはこの本は難しい。初心者……というよりは、ある程度は文化人類学や発達心理学、演劇史と世界史、日本史のベースを持っていないと、何が書いてあるのかさっぱり判らないという事になりかねない……これは演劇という行為が、実は意識的で知的な作業の積み重ねであるという事の証明だが、「初心者」というよりも、躓いてしまった経験者が、初心に返る為に有効な本だ。いわゆるマニュアル本は、劇団や養成所への入り方だけに終始してしまうから、本当の初心者と、初心者を商売の対象にする人買い以外には意味を持たない。

『俳優になる方法』の内容は、吉本隆明の著作『言語にとって美とは何か』に負うところが多い。この事は山崎哲、御当人も語っている事だが、それを更に私が抜粋、紹介する事は意味がない。本当に興味のある人には、自分自身で手にとって貰うしかない。また、本稿の主題も、この著作を紹介したり解題する事ではない。しかし、山崎哲が、演劇の手がかりとして、或いはその基本的な底流として、純然たる演劇論以外の物から示唆や啓示を受けているという事には意味がある。

私にとっては、長らく岸田秀の唯幻論やユングのタイプ論、またオカルトの訓練と各種メソッドの類似性を検討する事が、それと同様の役割を果たして来た。現在では、男女の脳の構造、その働きと差異に関する研究が、大きなウエイトを占めている。演劇は世界を読み、世界を構築する作業なので、世界を読むための根元哲学や論理が、演劇そのものに有効に作用する事は、ある意味で当然だ。

「それはただの理屈だ」

いわゆる糞実践主義者である俳優からは、そのように云われてしまいそうだ。別に『糞実践主義者』という主義主張を自覚している俳優達が存在する訳ではない。単に、私が今、思いつきで名付けただけだが、前回に書いた「役者は馬鹿でも良い」と思っている役者達の事だと考えて貰えば良い。彼らは事ある毎に、「それは理屈だ」と云い、「ただの言葉だ」と云う。それらの言、そのものが言葉である事を忘れているかのように……

唯幻論も心理学も人類学も、ただの理屈であり、ただの言葉である。それは事実だ。そして、戯曲の言葉……即ち『台詞』もまた、ただの言葉だ。そして、言葉は、ある種の概念や心理状態、大げさに言えば文化を、単純な場面では状況を共有する為の道具だ。「ただの理屈」「ただの言葉」と云って、『言葉』そのものを否定してしまえば、共有や共感の手段は、暴力とセックスしかなくなってしまう。そして『糞実践主義者』は、暴力とセックスによる共感と共有をずっと実践して来たのだろう。これは、ある意味で『男』のコミュニケーションの基本であり、狼のような犬科の群居動物のミームだ。

(まあ、忘れないうちに付け加えておくと、ホンが読めない=台本に対する読解力が無いという事も、いわゆる『糞実践主義者』達の共通項だ。言葉を端ッから否定しているのだから、言葉で書いてある戯曲や台本が読めないのは、まあ当然と云えば当然だ)

ここ数年でベストセラーになった本で『話を聞かない男、地図の読めない女』というのがある。男女間のコミュニケーションギャップを、それぞれの脳の構造の違いから解明しようとした本だ。実は、私にとっては、前出した『俳優になる方法』よりも、こっちから受けた感銘の方が遙かに大きい。

男女差……特に、感性や知的能力に関する差……に関しては、それが歴然としてあるのだ、という考え方と、それは作られた幻想に過ぎないという考え方があって、その両陣営がその事を科学的に証明しようとして、立場の異なる論文を発表してきた。件の本は、性差による感性や能力の違いを、脳の構造から明らかにしようとしている。その立場そのものは、それ程新しい訳ではないが、そうした脳の違いが作られるのは、染色体の問題ではなく、ホルモン……それも胎児の時期に母胎で受けたホルモンによって説明しようとしている。それは、性同一性障害や同性愛、更には半陰陽のような肉体の持ち主が何故生まれてくるか……という事にまで解答を与えている。そして、重要な事は、逆説的に、『男』のような感性を持つ女性や、『女』のような感性を持つ男性、それらの存在をイレギュラーでは無く認めている事だ。

感性や知性といった面で性差が作られるのが、染色体の為か、遺伝子の為か、ホルモンの為か、生育環境の為なのかは、実は最終的には大した問題ではない。『男』的、或いは『女』的という言の葉を用いると、セクシャリティーやジェンダーの問題になるが、
「人間の発想や感性には、二つの異なるベクトルが形成されており、自分、或いはパートナー(このパートナーという言葉には、性的な、生活的な、また仕事上の……というあらゆる場面が含まれ、異性同性を問わない)が、そのどのあたりにあるのかを見極める事で、コミュニケートに生ずる誤解の大部分は解消できるのではないか」
という問題提起が明確だったのである。他者と自分の発想や感性に対して自覚的になる事……おそらく、『話を聞かない男、地図の読めない女』という書物の目標地点は、そのようなところにある。

この本こそ、「自分で手にとって読む」方が良いだろうが、演劇を遂行する上で考えさせられた事の一つは、一つの作品としての舞台を作るという共同作業には、『女性的な脳』が向いており、組織としての劇団を継続し、戦略的に売り込んでいく事の為には『男性的な脳』がどうやら向いているらしい……というような事であり、それらの対立する発想は、結局、相互に互いの目的を疎外せざるを得ない、という絶望的な事実だ。組織として完成された、或いは強固な劇団が、創作面で動脈硬化を起こしてしまう事の一因には、そうした背景があるのかも知れない。そして、もう一つ……

各所に挿入された『男』と『女』のすれ違いが、ポド・テキストの例題として、この上なく優れているという点だ。この書物は「『男』には『女』が解らず、『女』には『男』が解らない……あるいは解っていない」というごくごく言い古された事実から出発する。科学的に云えば、「男的脳の持ち主には、女的脳の持ち主の考えている事が解らない」という事になり、最終的には「他人の心の中は解らない」という結論に到達する。実感として解らない物(者)は、ロジックで理解して行くしか無い訳だが、その過程は、つまりは俳優の行う役作りの過程に等しいのだ。

今一度『俳優になる方法』に戻ると、山崎哲は、「俳優が役の台詞に対して感情を込めようとする行為(或いは意図)を剥離する」という事を狙っているように読みとれる。おそらく、これと同様の事を平田オリザは「俳優の表現しようとする欲求」と呼び、やはりそれを俳優から排除しようとしている。安部公房は、ある種の演技を「心理的表現」と呼んで、やはりそれを排除しようとした。多分、目指している事はみんな同じなのだ。演出家にとって、俳優の感情表現とは、実は甚だ厄介な問題だ。

スタニスラーフスキー・システムに始まる俳優術の近代化は、俳優の感情解放という事を主眼に磨かれて来たという事実がある。実際、多くの俳優……俳優だけでなく、観客の側も……が、演技の善し悪しを語るのに、「気持ちが入っていない」とか、「気持ちが乗っている」というような表現を多用する。では、「気持ち」とは何か? 「気持ち」を演技の物差しにしている人達の大半は、この問いに殆ど答えられない。「気持ち」という言葉を無反省に使っている時、「感情」という心の働きと同義語として使われる事が多いだろう。同様に、「心」という言葉が用いられる時も、単に感情を意味しているという場合が甚だ多い。

舞台演技の困難さは、表現者という主体と、演技という作品が分離不可能であるという一点に集約される。舞台俳優の演技は、その俳優の肉体の制限から、決して自由になる事は出来ない。肉体の制限……という言葉、或いは概念の中には、勿論、外見上の特徴や運動能力という事が含まれるが、脳の構造や健康状態という部分を無視する事が出来ない。感情とは、突き詰めていけば、それら肉体としての脳内に発生する一種の生理現象なのであるから、「気持ちを入れる」等という、一種の気合いによって演技の基礎とするには、甚だ不安定な物である。しかるがゆえに、俳優自身の感情を演技の出発点として認めている劇集団の舞台は、そのステージ毎に、出来不出来の差が大きい。自分自身に生ずる感情とは、意志力によってコントロール出来るような代物ではないのだ。感情の起伏は、体力と環境によって大きく左右される。そもそもが、外界からの刺激に対する体内物質の反応として起こる生理現象なのだから、不安定で当然なのだ。俳優が俳優自身の感情を演技の出発点としようとする事……それを多くの演出家や演技指導者が否定しようとする理由の大部分はここにある。

「感情」とは、心の働きの中のほんの一部でしかなく、生理現象の更に一部でしかないが、その事実は殆ど見過ごされている。感情の起伏や現れ方は、時代によっても、地域によっても異なっており、はっきり言えば個人差のある物だが、俳優は、役の感情と俳優自身の感情を同一視し、役のありとあらゆる状況を、自分自身の喜怒哀楽によって表現しようとしがちだ。淋しさや恐怖、苦痛といった感覚や直感は「哀しい」という感情に、快楽や安堵は「楽しい」という感情に、論理すら「怒りに」に転化されてしまいがちである。

そして感情は他者に伝染しやすいので、特定の俳優だけでなく、共演者や観客も「解放された感情の発露、それ自体」に満足してしまい、結果として演劇の幅を狭めてしまうという落とし穴にはまっている。例えば、アマチュア・スポーツを観戦する時の、技術や結果ではなく、直向きな表情や飛び散る汗や悔し涙、歓喜の表情……そういった物に感情移入してしまう事と同様の共感が、俳優と俳優、或いは舞台と客席の間に起こるのである。まあ、高校野球があって、メジャーリーグもある、という事と同様、そういう舞台が存在する事、それ自体を否定しようとは思わないが、その方法論は、前人未踏の時代へ踏み込んだ『現代』という時代を描く事を不可能にさせる。何故なら、現代は『鬱の時代』へと突入したように思われるからだ。

「作家はみんな躁鬱だ」

これは、ある劇団の制作も兼ねている女優さんに言われた事だが、本当かどうかは判らない。ただ、自分が鬱病であるとか、躁鬱気質であるという事をカミングアウトしている作家は多いし、私自身がそうであるように、作家という作業を行う人種に躁鬱質の人が多い事は事実だろうと思う。村上龍も、「躁鬱の気質を持った人間が作家になる」と云っている。躁鬱という症状は、長時間、或いは長期間にわたってある種の気分が継続する事だが、執筆という作業は、長期に渡って気分やテンション、或いはモチベーションが維持されなければ遂行できない。要するに、筆が進む時、というのは、意図的に作られた物にせよ、偶然の賜物であるにせよ、ある種の躁状態が継続している事になる。生来の物かどうかは別だが、長期に渡るモチベーションの偏向が習慣づけられれば、後天的に躁鬱状態を体験する可能性は極めて高い。殊に、「男性的な脳」は、複数の事を一度にこなすとか、物事の切り替えに向いていないから、「男性的な脳」の持ち主である作家は、執筆時の躁状態からの反動として鬱状態に落ち込む危険性が高い、と言えるのだろう。

「鬱」という事それ自体は病気ではない。風邪をひいた時にも、過労でも、或いは運動後にも発熱はするが、発熱それ自体が特別な疾患でないのと同様、鬱という状態、それ自体は誰にでも経験がある筈である。俗に言う「落ち込んでいる」という精神状態は、「鬱」という状態にかなり近いか同様の状態であると云って構わないと思うが、心の病としての『鬱』は、簡単に言えば、原因不明の「落ち込み」であり、漠然とした不安感と無気力という気分が継続し、感情の起伏が起こらないという状況である。それに照らして云えば、躁状態とは、無謬の自信と万能感に包まれ、喜怒哀楽が極めて激しく推移する状態と云って良いだろう。作家としての『私』は、躁状態にある時、殆ど不眠不休で読書や執筆を続けているが、例えて云えば「作品に書く事、書こうとしている事を何日間でもぶっ通しで話し続けられる精神状態」に入っている。そして、執筆という行為の為には、ある程度、こうした状況に自分自身を意図的に追い込む……という作業が必要になる。他人から見れば馬鹿げた事だろうが、わざわざ「頭に来る」対象を探す為に『朝まで生テレビ』を観たり、小林よしのりを読んだりする。『激怒』という感情のエネルギーを解放するスイッチを探す事もあるのだ。まあ、スイッチというのは一つとは限らないので、殊更『激怒』だけが必要とか、『激怒』だけは必要という訳ではない、念のため……

と、云う訳で、作家という業種の為に不健康な精神状態を繰り返している体験から見ると、現代日本……日本に限らず世界だが……の現状とは、いよいよ崩壊が確実となった「男性原理社会」や「パックス・アメリカーナ」の崩壊に対して、社会ぐるみで躁鬱状態にある、という気がするのだ。反動的でヒステリックな保守化と、自信喪失から来る男社会の『男』達の鬱屈……それらは喜怒哀楽が極端な形で表出する事と、喜怒哀楽が発動しなくなってしまった事の両面であり、二つのベクトルに引き裂かれた世界の内面を描き出している。

躁と鬱……俳優自身の感情を出発点とし、尚かつ演技とは感情表現であると誤解している俳優が、この躁と鬱を演じ分けると、前者は素っ頓狂な明るさを伴った「喜び」或いは「楽しみ」の感情として、鬱は「哀しみ」の感情としてスポイルされる。鬱とは哀しんだり、泣いたりする事が出来なくなってしまう精神状態の事だが、それを演じ分けるには、かなりの知的な作業が必要だ。だが、今の時代には、人の生死……自殺にも他殺にも、感情という要素は殆ど作用しなくなっている。大変なのはこれからだ。

「役者は台詞を憶えた後は何をするんですか?」

山崎哲は吉本隆明から、そんな質問を受けた事があるらしい。日々、演出家の罵声を浴び、苦悩と苦労の末に役作りをし、厳しい稽古を経て舞台に立てば、評論家の罵倒と勘違いしたアンケートに曝される俳優にしてみれば、力の抜ける話だろう。まあ、「作家は坐って書いている……という事以外、想像できない」とかいう言葉を俳優や演出家自身が吐いているうちは仕方がないかも知れないが……

そろそろ、本気で体系的な演劇論をまとめる時期に来たかも知れない。正直云って、演劇、という行為、状況、シーン……そんなこんなに、私は絶望的な危機感を抱き始めている。正直云って、もの凄く気が重かった。まあ、そんなのは、〆切を大幅に遅れた事の言い訳にはならないな……

遅くなって御免なさい。

2002.5.7