野中友博の
『邪教の館』

《26》「役者は馬鹿でもいい」か?



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 ここのところ、数度に渡って、『男』という事と、それから派生する『女』という事を取り上げて来た。前回公演の『御蚕様』でも、「男性的な価値観による枠組みから飛翔する女達」という構図を作ったから、私がフェミニズムを唱えているのだという誤解を少なからず与えたようだ。勿論、私はフェミニストだとは思っていないし、「打倒、男社会!」なんて運動をしようとも思っていない。要するに、ヒトのオスである処の我々男性(……と云うか、私自身か……)が、共同幻想として作られている『男』という枠組みから自由になるという事こそ私の望みなのであって、目指すところは「脱『男』」なのである。それがどうも、一部では「反『男』」というように誤解されているらしい。ネットを通じて寄せられる反響では、私の意図をきちんと汲んで下さっているから、あくまで、一部だと思いたい。

 前回の終わりに、私は次のように書いた。「問題は、『男』でも『女』でもなく、『馬鹿』という事なのかも知れないと思い始めた」と……

 実は、近代という男性的な構造で作られた社会は「民は愚かに保て」という仕組みで作られている。優等生になるように、努力して勉強すればするほど馬鹿になって行くというのが、これまでのこの国の教育システムだった。勉強しない馬鹿と勉強した馬鹿のどちらが厄介かは云うまでもない。

 『馬鹿』というのは、自分で学ぼうという意欲を持っていない輩の事である。一方的に与えられた情報だけを詰め込んで百点を取っている連中は、どんなに偏差値が高かろうと馬鹿である。これは、「疑う事を知らない」と言い換えても良い。現在の男社会の中で、女性よりも男性の方に馬鹿の割合が集中してしまうのは、女性が最初から男性社会にとって異物であるからだ。異物は、どんなに数が多くてもマイノリティーとしての扱いを受けるから、その枠組みの中で異質である自己に対して自覚的にならざるを得ない。そして、社会……男性原理によって構築された社会……が、いかに理不尽で非論理的な物かという事を、自然な形で学習して行く。諦観を持つにしろ、抵抗を試みるにしろ、構造や共同幻想に疑いを持つ機会という面で考えれば、女性の方が恵まれている事になる。ただ、その構造に対して抵抗し、自己実現を図る道が、男性よりも絶望的に困難であるという事もまた確かだ。

 それは男性側から見れば、気付く機会も与えられず、女性ほどの努力をしなくても、ある種のステイタスを築く事が可能であった、という意味において、馬鹿から脱却する機会を奪われていた……という見方も出来る。バブル崩壊後の社会に対するオジサン達の柔軟性の無さは、そうした学習や思弁の機会を奪われて来た事にも一因がある。即ち、「自分が無知で独創性がない」という事を自覚できないまま、自己変革が困難な年齢に達してしまったという事なのだ。

 たった今書いた「自己変革が困難な年齢」という言葉だが、それには様々な側面がある。

 例えば、アクセントに訛りを残さずに異言語を習得できるのは、八歳が限度と云われていたり、味覚の決定もそのあたりだと云われている。物の旨い不味いが判るバイリンガルになるためには、小学校に上がる前に海外で美食飽食を続けなければならないという事になる。我が愛する『スター・ウォーズ』世界では、ジェダイになる為には生後六ヶ月以内に訓練を開始しなければならないというような話にまでなっている……

 確かに、絶対音感や味覚などの五感や脳細胞のパッチワーク、肉体的な発達の土壌が築かれる年齢の基礎という物はあるかも知れない。また、ある種のスポーツの競技種目によっては、何歳以前には訓練を始めない方が良い……という物もあるようだ。そうした例とは無関係かも知れないが、ある種の才能の開花できる年齢という物に線引きをしている人達が存在する。例えば、演奏家や俳優に要求されるコンビネーション感覚……そうした物が欠落している場合、「○○歳までに分からないヤツには一生分からない」と断言する人達だ。

 劇団や俳優養成所の中には、応募資格に年齢制限を設けている所も多い。劇団のスタイルによっては、俳優に運動選手同様の体力や反射神経が要求される事もある。体力のピークや、基礎的な体造りにはある程度の年齢の境界が引かれる事にはやむない部分は存在する。体を使う技術に関しては、指導する側も十代の生徒と四十代の生徒に同じプログラムを組む事は出来ない。それは、主として教える側の都合と判断に依拠している。

 そうした身体能力と、俳優の佇まいを決めるような直感や自覚は、また別のベクトルが存在する。古今東西の俳優養成術は、そうした俳優の自覚や才能のスイッチを押す為の方便として、様々な論理が唱えられ続けて来た。例えば、俳優……作家でも構わない……が、「一皮剥けた」というような存在感を示し始めた時は、日々の鍛錬として繰り返される発声練習や肉体訓練とは、まるで無関係なところに存在している事の方が多い。ある種の人生観や世界観の広がりや変化が、存在としての俳優を劇的に変えてしまうのだ。

 創作者や演者にそうした変化をもたらす様な契機と同様、人が生き方を変える様な契機が訪れる事は希である。それは望んで訪れる時と、望まずに訪れる場合があるだろう。PTSD=心的外傷という言葉で知られるようになったトラウマもそんな契機の負の側の表れだ。一方、自己変革を意図的に図るためには、変革の為の情報を、自らの意志の力で収集し、選択し、分析する事が必要だ。

 『男』の論理で作られた近代日本が破綻しつつある事は、誰の目にも明らかな様に見える。そして、この構造は、「民は愚かに保て」という本質を内包していた。その構造に乗っかって来た人には、そもそも、物事を疑うという習慣や発想がない。疑い得なかった社会が揺らいでしまった時、それをどう疑ったら良いのかとい方法すら知らない。『男』達の自信喪失とムキになった様な反動的な保守化という表裏一体の反応の背景には、そうした社会の長い蓄積がある。

 「自己変革が困難な年齢」とは、一つには、発想の柔軟さが失われる年代に突入するという事があり、今一つは、終身雇用と滅私奉公という従来の構造が、中高年に達してから生き方を変える事そのものを拒むシステムに出来ているからである。『男』の大半は、「会社」のような組織に帰属し、そこでアイデンティティーを確立するという生き方をしてきた。世のお父さん達が家庭での居場所を無くしてしまったのは、一つにはこの組織への帰属がある。近代社会において、組織とは世間であり社会であり、そのモデルは軍隊であった。過去においては、父親は家庭に「社会とは、世間とは何か」という情報を伝達する唯一のメディアだった。

 そして、マスコミやネットというメディアを通じて、『女』や『子供』が社会と直接アクセスしている現在、社会の窓口としての父親の権威は喪失した。女性や年少者は、『女』や『子供』である事をとっくにやめようとし始めている。その失敗例が、サッチーやキヨミちゃんのように『男』になろうとした女性達がオトコ社会から袋叩きにされるという事や、少年犯罪という形で噴出しているのだと考えられなくもない。それは、事の一面でしか無いだろうが、一面ではある……という事もまた確かなのだろう。『女』だったり、『子供』だったりした存在は、その存在のあり方を変えようとして、少なくとももがき始めている。

 「民は愚かに保て」という政策の結果として、軍隊式の男性原理に基づく組織が果たした役割は、理不尽な経験主義と年功序列に基づく権力構造によって、進歩や変化を疎外した事だ。年長者の云う事は無条件に正しく、若年者は抗議や質問の機会さえない。そうした事が、一部の(或いは多くの)劇団に、未だにはびこっている。演劇界から消えて無くなって欲しい常套句が、云う方も云われる方も無反省に継承され続けている。その一つが「役者は馬鹿でもいい」という言葉である。

 「役者は馬鹿でもいい」

 ……その言葉は、私も何度と無く聞かされた。大学だの、過去に所属していた劇団だのの先輩からであった事は確かだが、いったい誰だったのかという事は判然としない。要するに、尊敬に値して、顔や名前を憶えている様な先輩からは、一度もそんな話を聞いた事が無いのだろう。してみると「役者は馬鹿でもいい」という発言をした人達は、別に憶えている必要もない馬鹿ばかりだったのだという事なのだ。自分よりも若い世代から、「役者は馬鹿でも良いと思うんです」という話をされた事が無かったとは断言できないが、そんな事はとっくに忘れているし、憶えておく必要もない。

 ただ、こんな事はあった。某劇団(バレバレなので名前を書くのも煩わしいが……)の研究生に、演劇論の講師をし始めた二年ほど前の事、第一回目の講義で色々と質問をしたのだが、その中で「役者は馬鹿でもいい」という言葉を聞いた事があるか、という質問を入れてみたのだ。何人かが得意げに手を上げた。男の子ばかりだったが、今となってはそれも不思議ではない。しかし、私が「役者は馬鹿でもいい」という馬鹿な言葉を聞いてから、もう十数年が経っている訳だが、そのような年月を経ても、未だに二十代前半の若者達にそんな説教をするオヤジが存在している訳だ。

 私は、誰がそんな事を云ったのかは聞かなかったし、聞いたところで悲しい思いをするだけだ。しかし、役者が馬鹿で良いという根拠は、いったい何処にあるのだろうか?

 「馬鹿は聞く耳を持たない」という。聞く耳を持っていない俳優は演出家の要求が通らない。我々、作・演出家にとっては甚だ厄介な存在という事になる。そして、「役者は馬鹿でもいい」という事を口にする役者は、ほぼ間違いなく馬鹿である。「馬鹿の考え休むに似たり」というぐらいだから、そんな馬鹿の言葉をありがたく受け取られるのも迷惑だ。そして「馬鹿は死ななきゃ直らない」ので、「早く死んで下さい」としか云いようがない。

 「役者は馬鹿でもいい」という言葉の最大の弊害は、馬鹿になろうという「馬鹿な努力」をしてしまう俳優を、少なからず作ってしまう事だ。馬鹿でもいい事と、馬鹿の方が良い事とは違う。それは単に「愚かな俳優」を作ってしまうだけだ。

 時として、「馬鹿だがそれでも構わない」という輝きを放っている俳優と出会う事がある。その輝きは、明らかに「馬鹿」という要素を抜きには語れないという場合も少なくない。それは一種の才能である。作・演出としては「参りました、私の負けです」と云って、全てをその俳優にあわせるしかない。狂気とスレスレの天才とはそういう物だ。しかし、この手の馬鹿には、努力する事でなる事は出来ない。才能は努力を要求するが、努力が才能を生み出す事は無い。それと同じだ。馬鹿でもいい俳優とは、紛れもない天才であったり、異才であったりする。つまり、スターという輝きを放つ人達の事である。この人達は、主役か、或いはトリックスターのような役しか出来ない。名脇役とかコロスやアンサンブルに入る事は出来ない。上手いから主役なのではなく、脇役をやる能力が、決定的に欠落しているのだ。一言で云えば協調性が無いのだ。つまり、その欠落こそが「馬鹿でもいい」という時の「馬鹿」である。

 厄介なのは輝かない馬鹿である。輝きは無く、ただの馬鹿だけが残っているとなったら、それはもう役者としての使いようがない。主役やコメディー・リリーフを張るには魅力が欠落し、脇を固めるには能力が欠落するのだから……馬鹿な役者どころか、ただの馬鹿である。

 「役者は馬鹿でもいい」という事例は確かに存在している。しかし、「馬鹿でもいい役者」は、努力して馬鹿になった訳ではない。馬鹿でもいい役者は、天性の才能として、その馬鹿を体現しているのだ。したがって、役者が後進に対して、「役者は馬鹿でもいい」という言葉を申し送りする必要はそもそも無いのだ。まあ、愚かな俳優に対して、無知からの脱却を疎外し、結果として良い俳優が淘汰選別されていくという一助にはなるかも知れないが、努力と精進にブレーキをかけるという意味では演劇が良い方向に向かう妨げにしかならない。

 このコラムを読んでいるあなたが、まだキャリア数年の若い俳優だったり、養成所の生徒だったとしたら、この事だけは云っておきたい。「役者は馬鹿でもいい」という事と、「役者は馬鹿の方が良い」という事を間違えてはいけない。そして、世の中には「馬鹿でもいい役者」と、「馬鹿ではない役者」と「ただ馬鹿な役者」が存在しており、「馬鹿でもいい役者」は、ほんの一握りしかいない。そして、もし、あなたが「自分は馬鹿でも良いのか、いけないのか……?」と、悩んだり考えたりしていたり、し始めたのなら、もう既にあなたは馬鹿ではないし、馬鹿であるが故に輝くという道は、ほぼ完全に閉ざされたのだと思った方が良い。「馬鹿でもいい役者」になる天文学的な確率の賭に挑む事を止めはしないが、そのためには、現在所属している劇団だの家族だの、その他の人間関係を一切捨ててしまうという覚悟が必要だ。その状況が、努力によってでなく、自発的に決断された時、或いはという可能性があるが、そんな事は限りなくゼロに近い。そして、あなたに「役者は馬鹿でもいい」と云った先輩俳優がスターでなければ、その人はただの馬鹿である。楽しくお酒を飲んだりするのは自由だが、見習うべき事は何もない。まあ、そういう役者になりたいのなら別だけど……

2002.3.29