野中友博の
『邪教の館』

《25》フェミニズムじゃない+α



 『邪教の館』へようこそ。

何と、今回で25回目だと……?
三年目に突入なのである。演劇実験室∴紅王国も次の春分の日で五年目突入……怠け者の私に、よくぞ続いたものである。本当は前回で最終回とも考えたのだが、当分は続ける事にする。で、今回は、『御蚕様』を終えて思った事と、+αの話。


 『御蚕様』の上演中から今日まで、世間様の関心は専らムネオちゃんにあるらしい。新聞の一面や週刊誌の売り文句、そしてワイドショーもプライムニュースもトップ項目はムネオちゃん。インターネットのトップページもムネオちゃんである。ムネオちゃんニーズは、国家の大事だからとか、国辱だから……ではなく、兎にも角にも面白いからである。このあたりはモリさんの時と全くいっしょだが、ムネオちゃんは、こんな面白いヤツをどうして放って置いたのかというぐらいのスゴフル級の面白キャラである。とりあえずは世間様に楽しんで貰えれば良い。そのうち、世間も、ライオンハートやマキコさんも、モリさんやムネオちゃんに負けず劣らずの面白キャラだという事を、開き直って楽しみ始めるだろう。

政治にヒーローを求める時、国家はファッショに向かって行く。それよりは、トリックスターを発掘して笑い飛ばしている方が、遙かに健康……とは云う物の、人が明るさを求めるって事は、それだけ世の中がドツボだって事なんだけどね。私個人としては、もう何年も前からムネオちゃんの事は笑い倒して来てしまったので、何だか、今は乗れない感じだ。まあ、「政治をエンターテインメントとして楽しむ事から始めよう」という話は、前にもくどくどと書いたので、この話題は今回これまで……


そこで、本題……脱『男』+脱『女』という話。

最近、何かと話題になっている田口ランディという人の本を初めて読んだ。てっきり男だと思っていたのだが、女性だったんですね。不覚……村上龍とも、宮台信司とも、桜井亜美とも、香山リカとも違うが、私は好きだな。初めて気付かされた事は、母親の社会性というものだ。

件の指摘は、「もう消費すら快楽じゃない彼女へ」という本の中の、「野村沙知代が映し出すオトコ社会」という文中にあった。かいつまんで云うと……母親は子供を媒介に、学校、医療、地域社会という人間関係に、「○×ちゃんのお母さん」という形で否応なく組み込まれる。どんなキャリアウーマンでも、「爪切りが出来ていませんね」と保母さんに言われたら「ダメな母親」という事になる。野村沙知代は、事あるごとに母性についての発言をするが、そうした母親の社会性の中で揉まれたという痕跡がない。あの人は父権的に生きようとして……云々という話が、田口氏と在日韓国人の友人の会話として記されている。

自己実現をしようとした女の人が、男社会の中で『男』のように生きようとしてドツボにはまるという事は、別に珍しい話ではないが、それは男にしろ女にしろ、父権性を背景としている近代社会を俯瞰し得なかったという部分の挫折と言える。

『御蚕様』を見て下さったお客さんの何割かは、あの作品をフェミニズムの作品であると思ったようだ。作者にそんなつもりは全く無いし、私はフェミニストではない。世の中の多くのオス同様に御婦人達は好きだ。村上龍が云うように「全ての男は消耗品である」とも思っているが、そこにダンディズムを見いだしてもいる。生物学的に人間のメスはオスよりも優れた部分が多いと認識しているが、だから女権を拡張しろなんて思っていない。

『男』と男性を同一視して、社会の表舞台から男性を排除したって物事は好転しない。サッチーのように女性が『男』をやってしまう事も同様。今回、『御蚕様』では、『男』にしがみつこうとする男のアホらしさを描きはしたが、『男』というどうしようもない存在を生かし続けているのは、『女』という共犯者である。要するに、オバサンもオジサン同様に度し難いのだ。多くの女性が、オトコ社会や父権性、即ち『男』を排撃しようとする時、どうしようもなくオバサン化してしまう=『女』を剥き出しにしてしまうというジレンマに陥っていると私には見える。そうなると、かえって『男』は、その本質である女々しさを発揮して、『男』の殻に閉じこもろうとしてしまうのだ。

私は、別にオトコ社会を打破する為に創作を続けている訳ではない。『男』に続いて『女』を糾弾しよう等という予定は無いし、やる気も無い。どちらかと云えば、今回の『御蚕様』や、過去の『虫の女シリーズ』のように、脱『男』を女優に仮託するのではなく、脱『男』を仮託できる男優に出てきて貰いたいものだと思っているのだ。いるのだけどなあ……

公演中の飲み会で、こんな事があった……宴もたけなわとなり、居酒屋に残っているのは殆どが同業者。線を引いたように、関係者、お客さんを問わず、男と女に話題の座が別れている……これまで『邪教の館』を読んだ人ならお解りだろうが、私は当然、女の人達の輪の中に居た。そこには最年長の出演者である小林達雄さんや、知り合いの女形さんなどが居たが、話題は作品上に描かれた女と現実の女の話……隣の席では、男の人達が何やら興奮して唾を飛ばしながら熱くなっている。そこで女形さんがポツリ……
「ああいう体育会系のノリって、付いていけないんですよね……」
私は自分もそうだと同意した。

体育会系のノリというのは、基本的に近代天皇制下の軍隊の模倣だから、まさしく『男』の世界である。後で、男の人達の輪に加わってみると、
「○×さんには人生を教えて貰いました!」
 とか……
「×○の親父は俺にとって神様です!」
 といった『男』剥き出しの話を聞かされた。そういう若い男の子達が、私の芝居に出たい等と云う……

正直云って、訳が解らなくなった。その手の体育会系ノリ、というか、『男』にロマンを感じている男性なら、むしろ私の芝居には不快感を抱くのではないかと思うのだが……うぅむ。たとえ御世辞やリップサービスでも、「出たい」とは云わないだろうと思えるのだが、何なのだろう?

出て下さるのはありがたい。しかし、私はもう『男』の浪花節を書きたくないと思っている。ああ、ここは男性原理の劇団だな……と思った所には、そういう書き下ろしもしたのだが、もう、はっきり云って辛い。

脱『男』や脱『女』を本質的に体現するには、男であるか女であるかという事よりも、直感や知性に優れている事が必要なのかも知れない……或いはその人自身の生き様……問題は、『男』でも『女』でもなく、『馬鹿』という事なのかも知れないと思い始めた今日この頃である。

2002.3.8