野中友博の
『邪教の館』

《24》やっぱり天皇制だ



 『邪教の館』へようこそ。

 前回に続いて『御蚕様』がらみの話。
 繰り返しになるが「日本の家族制度について考えて行くと、結局は天皇制という問題にたどり着く……私はそのように予測し、また想定していたのだが、実際には『男』という幻想にぶち当たった。もっとも、近現代社会のあらゆる制度は、先の天皇制や家族制度も含め、宗教も国家も男性原理に立脚しているのだから、事の本質が『男』に行き着く事はある意味、必然だったのかも知れない」と、私は書いた。そして『男』について考えていたら、やはり天皇制へと舞い戻って来た。堂々巡りである。

 しかし、今回問題にする天皇制とは、近代天皇制の事である。『御蚕様』に突入する直前、他劇団(またまたシアトリカル・ベース・ワンスモア)に、古代天皇制に関わる作品を書いていたので、ちょっと近代天皇制の特殊性を忘れていたのだ。近代天皇制については、以前も書いているので、出来たら、『邪教の館』のトップページに戻り、『テアトロ』掲載分の11月号掲載『神々のDNA(3)』を、出来たらその2号前からの連載を読み、先月分も読んでから、ここに戻って来て頂きたい。

 近代天皇制とは、明治維新から第二次世界大戦の終結までの期間……簡単に云えば、大日本帝國憲法下の天皇制である。この天皇制は、幕藩体制下の封建主義国家であった日本を、近代国家に変える為に発明された道具である。近代国家とは、産業の機械化や資本主義経済の導入という事と共に、国民皆兵……あるいは近代的な軍隊を所有する軍事国家の事と考えて良い。資本主義社会は、植民地支配による搾取と収奪に、その立脚点を置く時代であり、日本の開国から近代化は、世界がパックス・ブリタニカから、パックス・アメリカーナへと移行する過渡期にもたらされた物だ。

 もう一度言おう。

 「近代天皇制とは、幕藩体制下の封建主義国家であった日本を、近代国家に変える為に発明された道具である」

 幕藩体制下の一般庶民にとって、一番、偉い人と言うのは、お殿様=大名である。勿論、お殿様が公方様=征夷大将軍の家来であるというような事は、何となく知っていただろうが、庶民が納税や賦役の義務を課せられていた対象は、あくまでもお殿様であって、将軍様に徴兵されたり叙勲されたりという事は、一生のうちに一度もない。要するに、我々が国連総長などに抱くような……或いは、アメリカの大統領に抱くような……ほぼ、関係のない偉い人である。これが天子様=天皇陛下となると、「それって誰?」ってなモノだった筈である。

 事実、維新後の明治政府は、国民に対して、「神聖不可侵の天皇陛下」について教育を施さねばならなかった。これまで、「右や左のお殿様」の領民だったお百姓さん、職人さん、商家の若旦那……それを強力な近代国家の軍隊に編入し、見ず知らずの外国人と戦って殺しまくれる兵士にしなければ、日本は西欧列強の植民地となる……と、当時の為政者達は考えた訳である。近代天皇制は、この庶民を纏める為の旗印である。十字軍にとっての神様、タリバーンやアルカイーダにとってのアッラー、そして合衆国にとっての絶対正義……等々と同じなのだが、出来たてのほやほやだった君主国家日本の庶民にとって、「それって誰?」でしか無かった天皇陛下の為に身命を捧げろとか言われても、ピンと来る筈もなかった。

 軍隊とは理不尽な組織である。そもそも、通常は道徳的に、或いは法的に「いけない事」とされている人殺しを組織的に遂行する為の暴力機関なのであるから、理不尽でなかろう筈がない。神の為、とか国を守る、或いは家族や知人を守る、というお題目は、「本来やってはいけない人殺し」を正当化する為の方便であり、多くの場合は「人殺しをやらされる人達」が、自己正当化を図る為の、悲しい自己暗示である。戦争はヒロイズムに訴えるが、その実体は国際問題や紛争解決の手段という、血も涙もない現実しかない。

 しかるが故に、軍隊という組織は、その構成者、即ち具体的に人殺しを行う兵士達が、その行為の目的や行為自体に疑問を抱かぬように、徹底的な洗脳と調教を施すのが常である。キューブリックの映画『フルメタルジャケット』の前半は、軟弱なヒッピーや平和主義者が、冷徹な殺人マシーンに作り替えられて行く過程が、これでもかと描かれている。地獄のような殺し合いの後で、ミッキーマウスの歌を歌いながら行軍して行くラストシーン……それが、洗脳の結果として作られた狂気の絵柄である事は論を待たない。間もなく、特別編の後悔されるコッポラの『地獄の黙示録』も、ストーンズやワーグナーの楽曲が戦場の狂気を彩っているが……日本の、天皇の軍隊では、これが『海ゆかば』だったりしてしまうのだ。狂い方一つとっても自由ではない。

 『……黙示録』にしろ『フルメタ……』にしろ、アメリカがベトナムのトラウマを描くのは、そこで「世界の警察」という錦の御旗が揺らいだからである。アメリカの反動勢力は、湾岸戦争とテロ撲滅という「人殺し」を、正義の戦いとして世界に認知させる事で、そのプライドを回復し、トラウマを解消しようとしている。

 ……で、である。「天皇の軍隊」である所の旧日本軍ではどうか? 揺らぐ以前に、「誰だそりゃ?」なのであるから、疑うなったって無理なのである。とすると、とるべき手段は一つ。徹底した年功序列による秩序を、暴力と恐怖という手段で補強したのだ。

 日本の戦争映画……それも、実際に前大戦を経験した世代によって作られた、日本軍を描く戦争映画のスタイルは、真っ二つに分かれる。即ち、「あなたを守る為に……」的なヒロイズムとセンチメンタリズムに得々と訴えるタイプと、どうしてここまで陰湿なのかと目を背けたくなる程の軍隊の理不尽さを描ききったタイプ。そして、「戦争を知らない子供達」すら知らない世代に作り手が移行するに連れ、後者のタイプは、ほぼ絶滅状態である。

 日本の軍隊では、『フルメタ……』のようなシゴキによる洗脳……と、言うよりも、イジメの為のイジメ、奉仕の為の奉仕が、必要悪というよりも、むしろ積極的に奨励されているように見える。それは、トップの権威……つまり、万世一系の現人神であられるところの神聖不可侵の天皇陛下の権威……が、あまりにも曖昧で根拠が薄弱だからだ。将官は佐官を、佐官は尉官を、士官は下士官に絶対的であり、下士官は兵士にとって絶対であり、一日でも入隊の早い者は、新米に対して、どんな理不尽かつ冷酷な理由無き制裁を加えても構わない……というルールを徹底する事で、薄弱な権威を補強したのである。そして、それまでは、何とか村のガキ大将だった者も、何とか屋の若旦那だった優男も、成績トップだった優等生も、ただ単に「初年兵」という理由だけで、殴られ、虐待され、意味も無く辱められ、「世間は甘くない」という事を知る。そして、次の「初年兵」が入隊した時、虐待されていた者は、虐待する側に立場を変える。

 ……そして、除隊した男達は「世の中そんなに甘くない」という軍隊の論理を、ラジオも新聞も無い故郷に持ち帰る。幕藩体制下では……

 「何やってんだいお前さん!」

 ……的な、おかみさんだった女達が、まるで武家の妻のように三つ指をついて……

 「お帰りなさいませ。お風呂になさいますか、ご飯になさいますか?」

 ……という奥方に変わる。
 ありとあらゆる組織は、軍隊方式で運営され、年功序列と滅私奉公を強いられる。それが、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の正体である。カリスマ的な指導者がいない劇団の方が、より年功序列に拘るのも「天皇の軍隊」の目的と権威が欺瞞と虚偽によって作られていた事と同じなのだ。

 現在、日本の反動勢力は、方便として作り出した近代天皇制的な感性を、まじめに信じてしまっているのだと思われる。近代天皇制と、それをベースにアメリカ人が作り出した象徴天皇制は、たかだか百数十年の歴史しか無く、日本の伝統でも何でもない。その点については、科学的に正しいと断言する。だが、近現代の日本の家族制度の根底には、天皇中心の家族国家という幻想があり、そこには作られた男性原理という幻想が横たわっている。

 結局、前回書いた『男』への絶望の根底には天皇制があり、それに決着を付けるまでは、日本は真の近代化など果たしていないし、その先にも進めないのだという事だけは見えてきた。

 現代から昭和七年に舞台を移した改訂版『御蚕様』上演台本……公開前に、早くも改訂……でも、その事はグサリとやっているので、乞うご期待。
 ついでに、九月、下北沢の劇小劇場にかける『蛹化記』では、そこら辺、徹底的にやりますよ。

 だけども、兎に角、今は『御蚕様』。
 御予約はお早めにね。

2002.1.31