『邪教の館』へようこそ。
次回の新作『御蚕様』を書いていて気づいた事がある。それは、私が『男』という物に絶望しているのだという事だ。それは男性という存在にではなく、主として男性自身が抱いている、男の生き様、男らしさ、男の意気地や矜持というような諸々の思い込みや幻想の事だ。それを括弧付きで『男』と表記しようと思う。
『御蚕様』は元々、『家』という幻想について書こうとして始めた企画だった。『家』は家族制度と言い換えても良い。日本の家族制度について考えて行くと、結局は天皇制という問題にたどり着く……私はそのように予測し、また想定していたのだが、実際には『男』という幻想にぶち当たった。もっとも、近現代社会のあらゆる制度は、先の天皇制や家族制度も含め、宗教も国家も男性原理に立脚しているのだから、事の本質が『男』に行き着く事はある意味、必然だったのかも知れない。
紅王国には比較的良い女優が集まっていると思う。と云うか、はっきり云って、紅王国でレギュラーのポジションを獲得している女優達は、かなりの高水準にあると断言して良い。劇評家や演劇誌の記者達もそう云っているし、オーディエンスにしてもそう思っているらしい。不思議な事に、私のまわりには、美しくて芝居の出来る女優が集まるのだ。これは学生時代からそうだった。別に私が女にモテたのではなく、私の戯曲や作品が女優にモテたのだ。同性のライバル作家達は、その事を不思議がったし妬ましくも思っていた、或いは思っているようだ。
以前はその理由として、「野中は女が書ける」とか「野中には女の血が流れている」等と云われて来た。発言した連中は、俳優にしろスタッフにしろみんな男だ。女優達は、私の作品に出る、或いは出たい理由として、上記の事を口にした事はない。心の中でそう思っていた、またはいるのかも知れないが、少なくとも私が女優達自身の口から、それに類する言の葉を聞いた事はない。そして私は、女が書けるとも、女の血が流れているとも思っていない。それから、意図して女を書こうとした事も殆ど無かったりする。有るとすれば、『化蝶譚』の霧島翠ぐらいでは無かろうかと思う。
昔……P−BOXで『虫の女』シリーズ等を展開していた頃……の私は、女を描こうとしていたのではなく、『男』を拒否していたのでは無いかと思う。ここで云う、『男』とはジェンダーの事でもセックスの事でもない。私はゲイでもホモでもなく、それに憧れた事もない。性的欲望の対象は常に女性だし、女装したり言葉遣いを女言葉にしてみる趣味もない。その時、自分の中にある衝動や感性を物語化するのに、女性キャラに自分を投影する方が、素直にかつ劇的な物語を構築出来たという事が出発点なのだ。大昔からの私のファンや仲間達の一部に、未だに絶大な支持を受けている『蛹化記』誕生の背景は、実はそんな物だ。いわゆる「女々しさ」と呼ばれる感性や、制度にあらがう状況や姿勢、そして感性も、男性よりも女性に投影する方が、不思議とスラスラと運んだのだ。それは、前述したように、あらゆる制度が男性原理によって作られている事と同時に、その男性原理そのものが、実はかなりの無理を背景にして成立している幻想である事に起因しているからだろう。
オビラプトルと云う名の恐竜がいた。卵泥棒という意味だ。プロトケラトプスの卵の巣と共に化石が出土したのでこの名が付けられたのだが、後になって、その卵の化石が、プロトケラトプスの物ではなく、オビラプトルの卵である事が判った。つまり、他種の卵を補食する為にではなく、自分の卵を守っていたのだと云う事が、後になって判明したのだ。卵泥棒と云う命名は、とんだ濡れ衣だったのである。それとまるっきり同じでは無いだろうが、男性がウジウジした煮え切らない態度をとったり、物事を諦めきれずに執着したりすると「女々しい」と云われる。「女の腐ったの」という云われ方をする時もある。男らしくない態度という事で、『女』という字が使われている。しかし、私の知る限り、演劇の現場で本質的に女々しいのは、私も含む男性の方である。決断力や打たれ強さという点でも、女性の方がずっと上である。実社会でも、ストーカー化する比率は女性よりも男性の方が高い。似たような事を村上龍が繰り返し云っているので詳述はしないが、要するに、男の本質は女々しいのだ。
つまり、世の男性達は、かなり無理をしながら『男』を演っているのだ。「最近の若い男達は女々しくなった」というオジサン達の嘆きは、実はやっかみ半分だったりするのでは無いかと思う。実際、演劇現場で出会う若い男性達は、自分の女々しさを隠さないようになったという気がする。隠さない、という事は、素直に表現しているという事だ。素直でいる方が楽に違いないし、互いの誤解も生じない。そうした素直さを恥だと考える事も、いわゆる『男』という幻想を支える一要素だ。若い世代は、この幻想に囚われていないから、素直に「女々しく」なる事が出来る。おじさん達が、それを腹立たしいと感じる事の根底に有る感情とは、恐らくは嫉妬だ。
(ここまで書いてきて、某劇団の研究生達が、どうしようもなく女々しいリーダーに従っている訳が解った。それは一種の共同体的な親近感なのだ。『優しい演劇』が未だに支持されている事の理由の一端が解った気がするが、この件については別の機会に書く)
私の作品群……特に『虫の女』シリーズではそれが顕著だが……には、「制度や世間の欺瞞に気づいた女(達)が、煮え切らない男達を置き去りにして何処かへ行ってしまう」というラストを迎える事が割と多い。その場合、女は件の『虫の女』のような、人に有らざる者=物の怪と化している場合が多く、男がそれに同道したり別の場所に飛翔する場合は、『螢火抄』の乞食や『化蝶譚』の帽子の男のように、社会という枠組みからはみ出したアウトサイダーで無ければならない。女が物の怪になる事が出来、男は一種のバガボンドになるにとどまるという構造は、結局、私自身が男性のセックスとジェンダーを持っているからだろう。一度だけ、男も虫の女の伴侶として飛び去ったというラストを書いた事があるが、男性観客……或いは出演していた男性俳優の一部……の目には、『心中』という風にしか映らなかったらしい。
実際、リアルに考えれば、男性原理に支配された制度や世間から個人が脱出する為には、死んでしまうか、ホームレスのようなアウトサイダーになるか、引き籠もりになるかしかない。或いは、特殊な芸術分野等の第一人者になり、経済的にも社会的にも孤高を守れるという幸運な(しかし、孤独な)領域に踏み込むという選択もあるが、誰にでも出来るわけではない。異世界への飛翔とは、そうしたマイナスイメージを残さずに、個人が置かれている状況=世間や国家や社会、その他の共同体に対して、直感的、或いは感覚的な異議申し立てをするという事である。『男』を引きずっていれば、物事を即物的に解釈しようとしてしまうので、「『蛹化記』の月子は発狂したのだ。『化蝶譚』では霧島翠も浅葱も樹海の中で腐乱死体になっているだろう。『井戸童』の得壱と美琴だって、二日もすれば腹を減らして家に帰るに決まっているさ」という事になるのだろう。これは絶対的な例とは云えないが、女性の方が、「人を越えて異世界の住人になる」というファンタジーを受け入れやすいのかも知れない。少なくとも、件の終幕を『心中』と受け取った人たちが、紛れもなく男性と『男』を同一の物として疑わず、『男』として生きる事に邁進していた人達であった事は確かだ。こういう人達は、紅王国の女優が色気のある良い芝居をすると、「野中君、あの女優とやっちゃったの?」という類の質問を平気で浴びせて来るコーマン主義者である事が多い。「やっちゃう」とは性行為をしたという事だが、女優の色気が演出家や共演者との性行為を抜きに成立するとは思えないのだろう。実際、彼らは「俺は○○という公演では、共演女優の××とやった」という類の話をする事が大好きだ。未だに、そういう事が自慢になると思っているらしい。幸せな事かも知れないが、あまり深いつきあいはしたくない。
このように『男』を盲信している男には柔軟性が無い。男性原理に支配されている劇集団では、おそらく『虫の女』のようなタイプの作品は舞台化できない。そういう所に書き下ろしをしなければならなくなると、戯曲の構造がひどく現実的な物になるから、異世界への飛翔という私の切り札が使えなくなる。私は社会や制度に苛立っているから、主人公と制度が対立した結果として、主人公は悲劇的な死を迎えたりする。隠してもしゃあないから書いてしまうと、これはシアトリカル・ベース・ワンスモアに書き下ろしをした『倭王伝』と続編の『八岐大蛇』の話である。『八岐大蛇』ではヒミコ(邪馬台の卑弥呼という固有の人格ではなく、滅ぼされた民族の魂を代表する者としての物の怪)に率いられた『屍のコロス』という存在が場面の変わり目を転がして行くというささやかな抵抗を試みたのだが、演出家にはその本質が全く理解されず殆どカットされてしまった。諦めた私は、親友同士が刃を交える所で劇が寸断されるというエンディングを書いた。
アンケートの中には、案の定「救いはないのか?」という類の感想があったが、作り手(私の事では無い)が救いを拒否しているのだから当たり前だ。私が「制度に抗う個人が蟷螂の斧を振り上げる」という状況を好んで書くのは、実際に、このどうしようもない状況を何とかしたいと思っているからなのだが、前にも書いたとおり、芝居で世の中が変わる程、制度も共同体も甘い物ではない。理念やインテリジェンスの無い演劇屋は、私が芝居で世直しをしたがっているとか、社会問題を主張しようとしているのだという風に誤解しているようだが、そんな事は出来るわけがない。表現者の出来る事は、思った事を素直に、或いは無意識に作品に反映させるという事であって、それ以上でも以下でもない。私が芝居で世直しをしようとしていると誤解している人達は、自分の危機感の無さと、世界に対する無知を自覚した方が良い。ついでに云うと、「救いは無いのか?」等と恥ずかしげも無く云える奴には、そもそも危機感が欠乏しているのだから救われる訳がない。
なんだかワンスモアの悪口になってしまった。言いたい悪口はいっぱいあるのだが、それは別の機会にして、話を元に戻そう。
……20代の私は『男』を拒否していた。30代に入って、私は自分が『男』である事を発見した。少なくとも男性である事をリアルに自覚したと云って良い。それは年齢的な事もあっただろうし、バブルが弾けたという社会状況もあったと思う。あの異様な時代、『男』の価値は全て金銭によって測定されるという事になっていたし、いつの間にか私もそれにならされていた。マルチ商法で稽古場を建てようという馬鹿から受けた心的外傷がPTSDとなっていた時期でもあり、私は芝居から離れてテレビやイベントに絡む原稿ばかり書いていた。女(現在の妻の事)を原稿料で食わせて行けるようにならないと『男』が立たない等という馬鹿な事を、結構まじめに考えていた。かなり無理して『男』を演ろうとしていた。疲れ果てたのと入院を契機にそういう自分がアホらしくなり、芝居に復帰した。『化蝶譚』は『虫の女』の系譜に属する噺ではあるのだが、物語の中心は男性キャラにある。恩田眞美はプレ作品となった『真・化蝶譚』の時から「今回は男の人の話ですね」とその事を看破していた。結果的に愛人である霧島翠と破滅的な終末を迎える露木は、男が『男』に拘った行動によって物事を台無しにするという事を、作品上で具体的に描いた最初の人物だ。
彼は作中でそれを「大人の行動」として正当化しようとする。今にしてみれば、これは『男』の論理だ。『男』は恥をかく事を極度に恐れる。別に、女が恥知らずだという意味ではない。『男』のかきたくない恥とは面子の事だ。物事が悪化している事を関係者に隠し、表面上は大丈夫と言い続け、結果として手の施しようがない状態まで放置し、破滅する。露木は亡命の成功率が皆無である事を隠し続けて、愛人の翠、部下の葛城と共に逃避行を続け、結果として転向を選択する。経営が傾いている事を部下に隠し、大丈夫だと言い続けて、倒産が決まって土下座する経営者や、解雇された事実を家族に隠し、出勤するふりをして公園で時間を潰し、勝手に手首を切ってしまうお父さん……露木という人物はその同類だ。『男』に拘る人物として、『水神抄』では親方というキャラを登場させた。面子に拘って、一円の借金を四兆円強にまで膨れ上がらせる……これが面子の本質であり愚かしさだ。
『男』という幻想は、別に男性の業でも何でもない。「人は女に生まれない。女になるのだ」と云ったのは『第二の性』のボーヴォワールだが、同様に男も男には生まれない。『男』になるのだ。現在は父権が喪失していると云われているが、為政者や保守系論客が唱えるような父権の復権なんてあり得ないし、あるべきではない。それが不可能だという事は、世のお父さん達の方が、皮膚感覚で解っている。だから、彼らは懐古的になったり、援助交際をしたり、演歌を歌ったりして傷を舐めあい、新橋で焼き鳥を肴にチューハイを飲みながら「今時の若いモンは」とくだを巻き、オヤジ狩りを恐れてビクビクしながら家路につくのだ。彼らは自分が『男』であるという事に諦観を持ち始めている。これがオヤジの現状だ。男性が『男』以外の生き方が出来るかも知れないという可能性を考えられないのだ。
再三になるが、『男』以外の生き方とは、オカマになるとかゲイになるという事では無い。『男』という幻想はセックスともジェンダーとも無関係だ。しかし、『男』という幻想は、それが男性というセックスの本質であるという強固な幻想を築いているから一筋縄には行かないのだ。これは女が『女』である事に拘るという事でも同様だ。私が『虫の女』という存在を創造したのと同様に、ある種の女流劇作家の作品には、非常に中性的な『少年』というキャラクターが登場する。男性が『男』ではなく、『虫の女』が現実には存在しないのと同様に、『少年』は少年ではない。先輩では渡辺えり子さんの得意技だし、同世代では詩森ろばなんかもこの手の『少年』を書く事がある。他にも、『少年』が登場する芝居はうんざりする程見たが、小劇場ではボーイッシュで中性的な女優が『少年』を演じている事が多い。一昔前の少女漫画に出て来るようなアレである。成人男性なら、或いはとうの少年自身も、少年とはそんな無垢で中性的な存在ではなく、一日の大半はセックスの事だけを考えている存在だという事を知っている。私の少年時代を思い返してみても、そんな中性的で天使のような存在であるという少年は見た事がない。かろうじて近い存在を思い出すと、その時期から既にジェンダー・アイデンティティーが不一致だという兆候を示し、青年期にはゲイやバイ、或いはオカマになってしまった奴と、極度のマザコンで二次元オタクになってしまった奴ぐらいしか居ない。実物の少年達はオヤジ以上に性に対してギラついている。実在のオヤジは自信喪失から精神的に去勢されているので、お茶やカラオケだけの援交で満足している。かえって哀れだ。
これは想像に過ぎないが、『少年』を描く女流作家達も、そのような『少年』が実在しないという事は先刻承知の上で書いている筈だし、少年に天使のように無垢であれと望んでいる訳でも無い筈だ。私が天使や物の怪を女優に仮託しているように、一種の純粋観念を『少年』というキャラに仮託しているのだろうと思う。ジェンダーからは逃げる……或いは超越する事が出来るが、セックス(性別という意味です。念のため……)からは自由になれない。遺伝子と染色体を改変する技術が生まれるまでは本質的にオスがメスになる事は出来ない。また、したって自由になんかなれない。何故なら、我々高等生物は根元的な意味で『男でも女でもない性』を獲得する事は出来ないからだ。私が純粋観念の存在を女の形に、また、女性の劇作家が『少年』という女性ではない者(つまり、必ずしも男性である必要はない)に観念的なキャラを投影するのも、作家も俳優と同じく、自分の肉体から自由ではいられないという単純な事実を発見するのだ。
(ちなみに、半陰陽に生まれてしまった人の問題を、例の詩森ろばが印象的な作品に書いているが、この際、その件は置いておく。これはジェンダー・アイデンティティーの問題で、重要な問題ではあるのだが、これに深入りすると現代の男女が『男』や『女』という幻想に束縛されているという問題をスポイルしてしまう可能性がある。)
もう一度、話の流れを元に戻す。20代で『男』を拒否し、30代で自分の中に『男』を発見した私は、40を目前にして、『男』から自由になりたいと思っている。断言するが、絶対にそうした方が人生は楽しい。ガチガチの女性解放運動家で無い限り、物の分かった女達は『女』から人間になろうとしている。これは言い過ぎか? 少なくとも、「三歩遅れて男の後を付いていく良妻賢母」というイメージを捨てても、自分の価値が何ら損なわれないという事を知っている。しかし、『男』は、こういう『女』が居てくれないと、何ら存在価値が無くなってしまうし、もう、そんな『男』は誰も必要としていない。そして、『男』の度し難い処というのは、その事実に薄々気づきながらも、『男』が否定される事は、男性が……自分の全存在が否定されてしまうと勘違いしている事なのだ。だから今まで以上に女々しくなったり、ムキになって父権の復権を唱えたりしているのだ。こういう『男』には、もはや絶望するしかない。早く滅んでくれる事を祈りたいが、私の周りも、実にこの手の『男』で溢れかえっている事が解った。という訳で絶望はさらに深い。気づいた連中は去勢されたように萎縮しちゃうし、気づかない連中は、ぶん殴ってやりたい程オヤジの権力を振り回しているし……
そして、『男』の価値を支える物として、やはり家名や家族制度という事が浮かび上がるのだ。今回は、そういう『男』の軛から解き放たれる男を描きたかったのだが、現在の紅王国の状況を鑑みるに、ちょっとまだ無理だな。そういう訳で、『家』や『男』という制度の軛から飛翔するのは、またしても女という事になるのだが、今度は物の怪ではなく、女が飛翔するというようにしたい物だと思っている。まあ、出来上がるまで信用しない方が良いけどね。
最後にもう一つ。
近頃の若い男の子が女々しさを隠さなくなったという事を書いたが、彼らは同様にある種の面子にも拘っている。要するに、馴れ合い的な共同体に属して、互いを甘やかす事を好むのだ。前々回『個人の時代の劇集団』に書いた、滅亡した方が良い劇団形態の事例である。女々しさを許容しあって互いに舐めあうというのは、既に分かる通り、昨今の去勢されたオジサンの特徴だ。一方で父権的な厳しさを持つ、問答無用の権力者にも従順だったりする。自分で決断するのは厭なのだ。つまりオジサンの資質を内包したガキである。先に書いた某劇団の研究生は、まさにこれのような気がして来た。勿論、某劇団とはシアトリカル・ベース・ワンスモアの事である。
嗚呼、やっぱりワンスモアの悪口で終わっちゃったよ……
2001.12.30