野中友博の
『邪教の館』

《22》紅王、2001年の雑感



 『邪教の館』へようこそ。
 ちょっと、今回はとっちらかった上に個人的な話になるかもしれない。前々回の『パックスとテロル』の続きはどうなったのだ、という方もおられようが勘弁して欲しい。必ず書くから……人には内省の時間が必要だ。あくせくしているだけでは、人は成長しない。調教には有効かもしれないが、自律的な成長はしない。そして、私はこの2001年という一年の間、殆どあくせくしまくっていた。案の定、ろくな事は無かったような気がするが、年の始めに『バトル・ロワイアル』にはまり、今まさに暮れようとしている年末に『最後の家族』にはまった。これだけでも、良しとして良いのかもしれないとも思う。

 『バトル・ロワイアル』は、高見広春の原作小説と、深作欣二がメガホンをとった映画があり、そして『最後の家族』は、村上龍が原作を書き下ろし、自らシナリオを書いてテレビ朝日系で放送されたドラマがある。双方共に活字と映像のメディアミックスだ。BRの方は、最初からメディアミックスを狙った訳では無いが、この時期に与えたインパクトとしては、原作版と映画版の双方がリンクしたと言って良かろう。この原稿を書いている現在只今の時点で、昨日『最後の家族』は最終回が放映され、明日、WOWOWがBRの特別編をDVDの発売に先駆けて放映する事になっている。そう言えば、BRの方はコミックにもなっていたな……

 何かと言うと泉鏡花や横溝正史、久瀬光彦や京極夏彦といった人達が比較の対象となってしまうのが、私、野中友博という作家である訳だが、実を言えば、私がはまってしまうクリエーターというのは、前出の村上龍であったり、北野武であったり、庵野秀明であったり、デビッド・リンチだったりするのである。この辺の作家に共通する感性とは何かを考えれば、オカルトとペダンチズムとか、耽美主義と心情左翼といった面で捉えられていた私の正体が、有る程度見えてくるのではないかと思うのだがどうだろう? 実際の劇評や評価とは別に、紅王国を見て下さるお客さんには、判っている人が多いようで、「かなり『エヴァ』が入ってましたね」等というアンケートもあったりする。エヴァというのは、当然だが『新世紀エヴァンゲリオン』の事である。一時のブームは去ったが、コミック版はこちらも完結しておらず、ちなみに今日はレイかアスカのフィギュア付き限定版コミック第七巻の発売日であった。当然だが私は両方とも買った。

 BR=『バトル・ロワイアル』と、『最後の家族』を2001年の大括弧と考えれば、オーディエンスとしての私は、結構楽しんでいたのかも知れない。多分、年内に、待ちに待った、久々の期待大の『ゴジラ』も観る事になるだろうし……と、なるのだが、他の事象を物差しにすると、散々な一年だったとも言えるのだ。

 肉体、健康面で言えば、歯周病によって失った歯が八本、腰痛で歩けなくなる事二回、吐血一回、そして左腕を骨折、高熱で八年ぶりに内科の治療を必要とした等々があり、兎に角、文字通り痛い一年であった。

 そして、何しろ、年頭にパソコンのハードディスクが壊れて、ほぼ六年間分の作品その他のデータ一切合切が消失したのが痛かった。この時は、本当に、頭が真っ白になった。パソコンを使うようになって以来、作品や創作の為のメモは勿論、コラムや日記は勿論、劇団の制作に関わる事一切をPCで処理して来たのだ。「コンピュータ、使わなければ只の箱」と言うが、六年分の蓄積の殆どを失って、私のパソコンは只の箱に戻ってしまったのだ。OSもハードディスクも壊れかけたまま、騙し騙し使ってきたこの一年ではあったのだが、つい先日、紅王国の全ての台本を印刷し続けたページ・プリンタまでが昇天し、抜本的にOA環境を更新しなければならない事態に到ったのである。まあ、七年も前のパソコンを、更新もせずに使い続けた私も私だが、『コンピュータ壊れ始める』から『コンピュータ完全に壊れる』という大括弧を考えると、「うわあ」とか「どひゃあ」とか言いたくもなるのである。

 次回作、『御蚕様(オシラサマ)』の第一稿は、ほぼ15年ぶりぐらいに全て手書きで執筆した。左腕の骨折によって、両手でキーボードを打つ事が出来なくなったからだ。勿論、片手で打てない事は無いが、長年ワープロを使ってきた多くの人がそうであるように、正規の訓練の如何に関わらず、どのキーをどちらの手のどの指が受け持つのかという役割は、体が覚える形で身に付いている。片手でキーボードを操る場合、頭の中と印字スピードのタイムラグが増大し、集注の妨げになる。結局、不自由なく使える右手で、万年筆を用いて原稿用紙に書くというスタイルが、最もスピーディー且つ能率的だった。そして、一種の執筆リズムという物も、ワープロを用いるよりも快適であった。一種の忘れかけていた感覚を取り戻したという気がした。

 台本を、そもそもの最初からワープロに直打ちするようになって15年……従って、現在紅王国で行動を共にしている殆どの俳優が、私の手書き原稿を見た事がない訳で、彼らにとっても新鮮な体験であったようだ。文字には勢いとか力みと言った物が、ダイレクトに反映される。そこから受ける、各場面やシチュエーションは、一種の感覚的な印象を加える。これは極めてアナログ的な感性であり、右脳に作用する事なのだろうと思う。

 創作時点での作業は、今よりもアナログ化した方が良いのではないか……その事は、ここ数年、ずっと考えていた事でもあった。コンピュータは言うまでもなく最終的に全てのデータがデジタル化されて処理されている。前世紀末のMac−OSや、MS−DOSからWindowsへのOS進化とは、扱う側=人間の頭が、実はアナログ的に出来ている事と、作業をアナログ的に行うことを企図した結果であると言える。言葉=文字だけを扱う作家の作業であっても、執筆の際にはワープロソフトの持っている日本語変換能力に少なからぬ制限を受ける。サウンドやヴィジュアルといった作業では、「筆で描く」とか、「手で弾く」といった作業による微妙なニュアンスを、如何にキーボードやマウスの操作によって、或いはデータの入力によって再現しうるかという事が、ハード、ソフト両面の進化を押し進めたと言って良い。こうした分野に関しては、「人が機械に付いて行けない」事よりも、「機械を人に近付ける」事が急務だった。見方を変えれば、機械を用いた創作活動は、「機械で出来る事しかやらなくなる」という危険を常に孕んでいる。

 それでも、台本をワープロで書く(打つ)という事を止められなかったのは、偏に「便利であるから」であり「時間とコストの節約になるから」であった。B4の四百時詰め原稿用紙と、ページプリンターによって印刷されたB4袋綴じの台本では、同じ面積に収められる情報が二倍強程に違う上に、手書きの原稿を複数枚コピーする、或いは清書した上でコピーし、仕分けするという事を考えると、その時間短縮は劇的な程であった。私も、ワープロを使い始めた当初は、手書きで下書きをした上で、ワープロを清書感覚で用い始めたのだが、作家自身による清書という行為は、事実上、殆どあり得ない。元の原稿を手書きで清書しようと、ワープロソフトを用いて入力しようと、必ず、そこには推敲という行為が加わってしまうのだ。

 第一召喚式『化蝶譚』から、前回の第伍召喚式『水神抄』までの紅王国の作業工程では、あらかじめ台本書式にして入力された原稿を、必要なだけプリントアウトする迄を、全て私自身が行っていた。俳優のやる事は、自分に渡された袋綴じの台本を折って、綴じる……その他、自分にあった形にファイリングするという事だけだった。パソコンとページプリンタという環境を整えたからこそ出来た事である。

 これが、小型のプリンタしか無い状態であれば、コピーの為の原版を出力するのがせいぜいだから、一般的な小劇場では「コピーをとる→ページ毎に分ける」というような作業を行わなければならない。手書きの作家の場合、原稿用紙をそのままコピーするのでなければ、清書という工程を誰かが加えなければならない。直筆原稿をそのままコピーすれば清書の工程は省けるが、情報量が少なくなるから、印刷にかかるコストと時間は当然倍になる。
 ワープロの普及以前には、作家の原稿は当然手書きだ。清書された物とは限らない。字の判読も難しく、消したり書き足したりという作業の後がしっかり残っているのが普通である。外注の作品の場合、作家の仕事はここで終わりだし、ワープロの普及した現在でも作家の仕事は、本来作品を書くことだけだ。つまり、活字による一冊の台本が出来上がる迄には……

その一、台本の原稿が執筆される。
その二、印刷の原版が植字される。
その三、ページのレイアウトに従って、製版される。
その四、印刷される。
その五、印刷された物が製本される。

 ……納品され、個々の俳優やスタッフの手に渡るまで、少なくともここまでの工程が必要である。私の場合、紅王国では工程の四まで、他劇団から依頼のあった書き下ろしの場合でも三までの工程は行っている。作家プラス製版屋、或いは印刷屋の仕事までをしている訳だ。パソコンとワープロソフトとページプリンタまでが揃った環境があれば、それほど苦になる事ではないが、生の原稿を「宜しく!」と言って渡してしまうだけの事と比べれば、膨大な時間とコストの節約になっている筈である。外の仕事では、あまり感謝された覚えは無いのだが、ワープロの普及した現在、だいたい三まで……少なくとも、データによる入稿などで、二までの作業は作家に期待されている。

 しかし、OA環境が破壊されれば、作家の出来る事は、工程の一、つまり作品を書く事しか出来なくなってしまう。目下、私の作業環境は、その状態である。

 そうなってしまった流れをかいつまんで纏めると、こうなる。

 まず、ほぼ年頭にパソコンのハードディスクが壊れ、全てのデータが消失するというという事があった。実際には、二千年の一月一日に、いわゆる二千年問題に類するトラブルは起こり始めていたので、兆候は既にあったと言って良い。そして何とか、OSと各ソフトの再インストゥールでパソコンを修復、生き残ったデータと、プリントアウトされた物から再入力して、第伍召喚式『水神抄』の執筆と製作関連作業、シアトリカル・ベース・ワンスモアへの書き下ろし『八岐大蛇』の作品執筆と関連資料その他の文書の入出力を行った。左腕の肘の部分を骨折したのが、『八岐大蛇』の初日直前である。「右手で筆記具を使って書く」という事しか出来なくなったので、『御蚕様』第一稿は手書きで、しかも一気書きをやった。生原稿のコピーという作業は、これまで二時間で済んでいた事が、丸二日かかるのだという事が判った。第一稿は、人に頼んで入力して貰った。

 その後、ギブスも外れ、第二稿をワープロの直打ちで進行させはじめ、校正した第一稿をプリントした直後、今度はページプリンタが作動しなくなった。通常、五年と言われている寿命を七年使い込んだので、元はとっているという話にはなるだろうが、稽古の直前という時期を考えると、甚だ都合が悪い。そして、七年も前に買ったパソコンとプリンタを、OSのヴァージョンアップも一切せずに使い続けて来たつけはあまりに大きかった。何しろ、プリンタだけを最新機種に買い換えたとしても、ドライバを組み込めるOSが無く、新しいOSを入れるには、ハードの能力が付いて行かない……結局、パソコン本体とプリンタを根こそぎ買い換えねばならなくなった。しかし、OA環境を整え、新しいソフトに熟れるまで執筆を中断するという訳にも行かず、執筆は再び手書きに……

 ……ここまで来ると、「戯曲は手で書け!」と演劇の神が命じているのだと思った方が良さそうだ。先に記したように、ずっと創作作業のアナログ化を考えていたので、これは良い機会だと思う事にする。出演者達には多少の負担が増えるだろうが、今まで楽だった分の利息だと思って我慢して貰おう。
 それからもう一つ。パソコン環境は、いずれ更新しグレードアップを計らなければならなかった事である。これまで殆ど人任せであった、このサイトにしても、私自身の作業が反映されるようになるだろう。掲示板を作っても、自分で見られるようになるしね。(「えっ? 野中さん、今までネットやって無かったの?」って思った貴方へ。そうなんです。やってませんでした。スミマセン)当然、これだけの環境を整えるには、それなりの出費が必要だから、今まで二の足を踏んでいたのだ。そういう訳で、トラブルに背中を押された形だが、思い切ってパソコンの買い換えである。Windowsが3.1からXPにいきなりグレードアップするという訳で、笑っちゃいそうな話なのだ。長年お世話になったワープロソフト一太郎君も6番から11番になる。そして、11もふた月を待たずに12にシフトする事になるだろう。

 そういう訳で、これからは創作はアナログ、雑務はデジタルという使い分けが、ますます大きくなるだろうし、そうしたい。だが、時間がなければ、またまたデジタルライフに逆戻りかも知れない。この辺は、何とも云えないかな……兎も角、新しいパソコンを買う事になったので、現行機種での執筆は、この文で終わり。長い間御苦労様でした。

2001.12.14