野中友博の
『邪教の館』

《20》パックスとテロル(1)



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 例えば、一つの強大な権力国家がある。権力とは支配構造の事であり、支配権力の本質とは、公的な暴力期間の独占という事が背景となる。公的暴力とは、一つには司法権力の事であり、今一つは軍隊である。言い換えると、公的権力の認定する暴力組織は……つまり国家権力とは「人を殺す権利を所有している」機構や組織である。そして権力は、経済を支配し、道徳観を支配し、秩序を確立する。一個の巨大な権力国家が存在し、その他の大多数の国家が、その巨大国家の力=暴力機構……簡単に言えば軍事力に遠く及ばなければ、支配という名の秩序は、国際的な……或いは世界的な物となる。

 この、巨大な権力国家の力を背景にする世界平和は、パックス・ロマーナ、即ちローマ帝国の欧州支配という形で、世界史上に登場する。欧州の秩序は、その後、大航海時代のパックス・イスパニアからパックス・ブリタニカへの変遷と欧州から世界への勢力圏の拡大という時代を経て、今日のパックス・アメリカーナへと至る。西欧的な支配者の変遷は、新興国が老大国を追い落とすという形で続いていたが、その流れの中には、幾つかイレギュラーなパワーが干渉した時期が存在する。それは、イスラム勢力の欧州への侵入であったり、前大戦から冷戦終結に至るまでの、東西対立、即ちパックス・ルッソ・アメリカーナというソ連と米国の軍事バランスによる平和という時期である。欧州がローマ帝国の支配による秩序を保っていた頃から、アジアでは変遷する中国大陸の帝国が、盟主の地位を独占していたが、アヘン戦争によってボロボロになり、日本が中国的秩序から欧米的価値観へと国家のスタイルをシフトするきっかけを作った。まあ、そうした経緯は色々とある訳だが、今日のアメリカの一人勝ちは、誰の目にも明らかである……筈だった。

 未だに、世界はパックス・アメリカーナの傘下にあり、国連よりも合衆国の力が優勢であるという事実は変わらない。何しろ、「テロリストの擁護者は、同罪と見なして報復の対象とする」と宣言し、「世界は選ばねばならない。我々につくか、テロリストにつくかを」等と脅迫紛いの事を言ってしまえるのも、その背景には軍事力の圧倒的優位があるからである。実際、この理屈は「アメリカを支持しなければ空爆の対象にされても文句はない物と見なすぞ」という読み方をする事が可能ではないか? 更に、本稿を執筆時点で、同時多発テロの主犯がオサマ・ビン=ラーディンであるという証拠を、合衆国は何ら示していない。にも関わらず、「アメリカが確信を持っていると断言する限り、証拠は握っている、筈、である。同盟国としてそれを信じるのは当然」と言って、法改正までして自衛隊を動かしてしまう日本……これもパックス・アメリカーナが未だに世界の趨勢である事の証左と言える。

 圧倒的な暴力機構を持っている国家に対して、普通、他国は楯突いたりしない。近代国家という機構を確立した国ならば、戦争状態になれば、完膚無きまでに叩きのめされ、物的、人的に立ち直れないほどのダメージを負わされ、結局は従属的な地位に貶められるという事が分かる程の知恵は働くからだ。歴史を紐解けば、巨大な軍事力に反発し、勝とうが負けようが誇りを守る……という選択を行ったのは、いわゆる近代的な機構を備えた国家では無く、一種の民族集団や民族国家であった事が分かる。かくしてマヤはイスパニアに滅ぼされ、ネイティブ・アメリカンは欧州の清教徒達に国土を強奪された。パキスタンがいち早くアメリカへの協力を表明したのは、近代国家としての成熟の現れだと観る事が出来る。

 弱いから黙っているしかない……今日の世界に於いては、それが弱小国のとれる、唯一の近代国家の選択と言って良い。しかし、当然かつ当たり前の話だが、弱者が踏まれたまま沈黙を続けられる訳はない。従って、パキスタンでの反米デモ等は起こって当たり前の話である。その動機は、必ずしもテロリストを支持しているからでは無い。彼らは、何処かで、暴力機構の圧倒的優勢を背景に、世界に傲慢と理不尽を突きつけるアメリカの本性に気付いているのだ。

 公権力の認める暴力……即ち、法秩序によって人を殺す事、戦争行為によって人を殺す事……は、恐らく「命は大切」というような道徳観念と、全く別の処にある。テロに対する報復的軍事行動は、命を奪った事への贖いではない。テロと同様に、戦争行為は無関係な人を公然と殺し、それが戦争行為であるという理由によって罪を問われない。

 私は、「命が大切というなら、戦争を止めろ」等という事を言いたい訳ではない。国家が人を死刑にしたり、戦争によって敵兵、更には敵国の民間人の命を奪うのは、国家という機構が、大切な命と、大切でない命を色分けし、結局、人は人を殺しても良い……少なくとも、殺しても良い場合があるとか、殺しても良い命もあるという事を選別し、認定するのだという事実を認めろという事だ。補給支援だろうと何だろうと、報復的軍事行動を支持し、それに荷担する事は、そうした人の生き死にに対する色分けに荷担するのだという事を認めねばならないという事である。そして、私は、そんな事に荷担したくないと思っている。

 テロルは、恐らく、圧倒的な軍事力への暴力的対抗手段として生まれた。現在の国際社会の動勢は、テロルによる無差別殺人に否を唱え、軍事行動による無差別殺人を是とするという方向に傾いているように見える。その決定も、国連という、不完全だが、力によらぬ秩序を模索できるであろう唯一の機関をすっ飛ばした形で進行している。もう一つ確かな事は、テロリストは軍事行動に対して、軍事行動では……少なくとも、それだけでは対抗しないだろうという事だ。軍事で対抗できないからテロルを選択している以上、軍事報復されれば、更にテロルによる報復が行われるであろう。

 前回、民族主義的ナショナリズムとは、主義主張では無く、気分の問題であるという主旨の文を書いたが、今回のテロ事件も、更にはアメリカの報復宣言も、実はこの「気分」という物にのっかっている。小林よしのりは『戦争論』の中で、「戦争はカッコイイ!」と記したが、こうした民族主義的な気分に則って言えば、「テロルはカッコイイ!」という話になってしまうのだ。そして、ヒロイズムを刺激する分だけ、テロルへの陶酔は遥かに深い。アメリカが高圧的になればなる程、また、我が国のように同調する国が増えれば増えるだけ、テロリストのヒロイズムは肥大化するだろう。死して悔い無しと思っていればこそ、無関係な民間人を巻き込んだ自殺テロが出来るのだ。自分の死に陶酔しているテロリストに「ぶっ殺すぞ!」という脅しが通用する訳がない。そして、テロにも戦争にも否を唱える人達ばかりが大量に命を失う……

 国連への訴えかけではなく、「我々かテロリストのいずれかを選べ」という呼びかけに始まったアメリカの独走と、それに対する我が国を含めた先進諸国の追随は、結局、国連という組織が、世界の秩序を構築する機関として、未だに未成熟であり、人類社会がガキ大将の勢力争い的な次元から、全く進歩していなかったのだという現実を我々に突きつけているのだ。二十一世紀は民族紛争の時代になると誰かが言ったが、その通りなのかもしれない。今、誰もが泥沼的で世界的な戦争の予感を感じているが、これが人類最後の世界大戦になるのかどうかは誰にも判らない。だが、いずれにしろ、パックス・アメリカーナの時代は、今回の紛争を境に、終焉に向かうであろうと思うし、終わって欲しいとも思う。

 「ケッ! 演劇屋が偉そうな事を言いやがって! お前達に何が出来るんだ!」って? そりゃあ、何も出来ませんよ。演劇に何が出来るか? と問われれば、何もありません、と答えるしかない。そんな議論は意味をなさない。演劇に出来ること等、何もない。その認識を第一歩としなければ、我々は演劇を継続できない。それについては、今回の紛争の推移を見ながら、また、次回に続けよう。少なくとも、私は出来る振りをしたり、出来ると勘違いしたりする程の阿呆でも恥知らずでもないよ!

2001,9,27