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近頃、外敵とか外圧という言葉を良く耳にするようになった。『つくる会』の教科書問題や小泉首相の靖国神社参拝問題に関わる、アジア諸国……諸国と言うよりは、主として中国と韓国からの公式な抗議や遺憾の意の表明、或いは市民レベルの反対運動などをさして、外圧という言葉が日々紙面を踊っている。『つくる会』の歴史教科書の採択が、結局、1%程度にとどまったのも、これらの外圧と一部マスコミの狂信的な報道とプロパガンダに起因しているというのが彼らの言い分である。
近年、我が国のナショナリズムの昂揚は、確かにものすごい物があると感じられる。小林よしのりの『戦争論』が売れまくった事、タカ派と目される石原慎太郎が都知事戦で圧勝した事、そして、国民の大多数が小泉首相の靖国参拝を是としている事、等々をとってみても、世論は随分右側に傾斜したと言って良いだろう。その原因には、前回述べたように無知に起因しているところもあるだろうが、確信犯的に分かって右を向いている部分も多々ある。
靖国に参拝した閣僚の言い分や、首相の参拝を是とする世論の言い分は、「日本人として、また人間として当然」という言葉に集約される。根元的な問いかけや分析、或いは再検討を端から拒否している訳だ。「人間として当然」な事にとやかく言ってくる連中、具体的には中国や韓国の世論は、三段論法的に言えば「人の道にもとる」行為という事になり、理不尽な外圧だという事になる。公にこんな事を口にする事が、日中関係や日韓関係に悪い影響を与えるだろうという事は、ちょっと頭を働かせれば誰にでも判る。問題は、それを判って言っているのか、何も考えずに言っているかだが、「当然」等という言葉を使った時点で、実体は兎も角、「私はそれ以上考えません」と表明したのと同様である。
吉本隆明はこう言っている。「保守派の主張する日本の伝統とは、せいぜい奈良朝以降の事に過ぎない」と。実証的に歴史を学べば、この言が正しい事は明白。古事記と日本書紀の編纂は、奈良時代にされており、実際は、それ以前の歴史は改変捏造がされている可能性が極めて高く、持統天皇以前の歴史は、本当の事は判らない。聖徳太子は居なかったかもしれず、古代史上の最大悪人蘇我入鹿は天皇だった可能性があり、大化改新は、単なる反動的テロだったかもしれない。そして、公式に編纂された歴史や神話が、その当時の支配者にとって都合良く書かれている事も、社会科学の常識。そういう神話を積極的に引用しているという一点を持ってしても、『つくる会』の教科書は万人向きではない。少なくとも、民族主義的ナショナリズムの産物である事は否めない。ただ、民族主義的ナショナリズムという物は、その事自体を当然の事として肯定する。
私は、ナショナリズムとは主義主張では無く気分だと思っている。「日本人として、人間として当然」という言葉は、この気分を的確に表している。この言葉の中には、「日本とは、或いは日本人とは何か」という問いに対する答えを拒否するという立場が率直に示されている。つまり、海外文化と日本の文化を相対化する事を拒否している。「これは国内問題。貴方達の言う事は余計なお世話だ」という意味だ。これは、外圧に対する抵抗であると同時に、「日本人なのに靖国参拝に反対する事はおかしい」という同調圧力をかけるものである。
私は、個人的には靖国神社という存在に対して否定的であるが、日本人として当然の事に反対するとなれば、その態度に対する非難の言葉は「非国民」という事になるだろうし、人間として当然の事に反対すれば「人でなし」という事になってしまう。こういった気分が蔓延してしまう事、それ自体が息苦しい。こういう私の反応も、また気分であると言われればそれまでだし、その事自体を否定しようとは思わない。ただ、私が靖国を否定したり、『つくる会』を否定したりするのは、中国や韓国の外圧に屈したからでも無ければ、一部マスコミとやらの煽動にのっかっている訳でもない。保守派の方々が、中国や韓国に「余計なお世話」という感覚を持つように、「日本人かくあるべし」という同調圧力に対して「余計なお世話だ!」という感覚を持っているのだ。
正直言って、韓国や中国とのおつきあいの関係から、保守派を批判する人達を見て「それって、ちょっと卑屈なんじゃないの?」と思うことは、私にだってある。実際、私は中国文化や韓国文化のベースの一つである儒教道徳というやつが大嫌いなのだ。堅苦しい年功序列や男尊女卑を、「韓国や中国ではこれこれしかじか」とか言って実践している人達には辟易している。その感性の根底には「今の若い者は、軍隊に入って鍛え直して貰った方が良い」というような、保守派の人達と同様の思考停止が見て取れるからだ。だからと言って、目上の人の前で煙草を吸うなとか、酒を飲むなとか、お風呂は男性からというような思い込みに対して、「私は日本人ですので……」という言葉を反論の材料にするつもりもない。レディー・ファーストが正しいとも思わないけどね……開き直って「私はエゴイストですので」と言うしか無いのかも知れないが、日本が、韓国がと言い合っている間は、人間と人間が付き合うなんて不可能だろう。
現代日本で価値観の喪失と秩序の破壊が進んでいるのは、近代化が終わったからであると言うのが村上龍などの主張だ。それは、恐らく正しい。昨今の保守化や国家主義、民族主義の蔓延は、それに対する反動であろうとも思う。パラダイム・シフトの過渡期の現象としては、別に不思議なことではないだろう。しかし、保守派の人達が主張する、吉本隆明的に言えば、奈良朝以降の日本的伝統は、やはり天皇制と不可分であり、再三再四言っているように、天皇制は前近代的な宗教権力を内包する、世界的には極めて特殊な価値観だ。我々自身が、この厄介な制度に対して、俯瞰的な決着をつけ、それが世界的に見て、かなり特殊な価値観であるという事を自覚しながら対外活動を行わなければ、日本が北朝鮮やイラクのように孤立してしまう日は、そう遠くない。外圧という言葉をお題目のように使って、国家的な引きこもりを続ければ『つくる会』の人達が好んで主張している「開戦せざるをえない状況」というものが、遠からずやって来るだろう。
そして、開戦せざるを得ない、或いは得なかった状況というものについて言えば、それは一面においては事実だし真実であろうとは私も思う。ただ、その事によって「日本もまた被害者であったのだから責任は無い」という主張には無理がある。その事で中国や韓国を黙らせる事など出来ないし、外圧と言って敵視する事はお門違いだ。
以前、第二召喚式『井戸童』の公演パンフレットで、小林よしのりの戦争論批判を書いた時、彼らは「家族や友人、恋人達を守ろうとして戦った」のだ云々という反論がアンケートに寄せられていた事がある。この件に関しては、小林よしのりの『戦争論』それ自体と、その前後にマスコミを通じて小林の行った発言、及び、私の前文を再検討しなければ、再反論という事にはならないので、詳述はしないが、少なくとも次のことは明確にしておきたい。
小林やアンケートに反論を書いたお客さんの言う、「家族や友人恋人達を守ろうとして戦った」日本兵は、日本本土ではなく、中国大陸や朝鮮半島で、中国兵や朝鮮の兵士と戦っている。その中国兵士や朝鮮兵士は、その日本兵の家族や友人や恋人達に危害を加える事を目的として戦ってはいない。彼らもまた同様に、自分の家族や友人恋人達を守ろうとして戦った事は同様であろうし、自国の国土が戦場になっている以上、その思いは彼らの方が遥かに切実である。中国も韓国も、第二次大戦においては、日本本土に対して侵略、或いは進出と表現できる軍事行動は起こしておらず、日本側はそれをやっている。
これが、逆の立場であれば、彼らが未だに「日本許すまじ」という感情、或いは気分を有している事に対して、少なくとも理解は出来る筈である。中国や朝鮮、或いはロシアでもアメリカでも良いのだが、他国の軍隊が、日本の国土を戦場として、日本兵、或いは民間人に対して武力を行使し、自治権その他の自由を奪い「私達は自分の家族や友人恋人達を守ろうとして戦ったのだから、これは侵略ではない」と開き直ったら、納得する事が出来るか? 少なくとも、私には出来ない。だから、「終戦を早めた。数百万兵士の命がこれによって救われた」という理由で、民間人に対する核攻撃を正当化しているアメリカ政府にも世論にも私は納得しないし、生涯納得するつもりはない。そういう論調が、アメリカやその他の国に残っているうちは、「広島、長崎への原爆投下は間違っていた」と言い続けなければならない。中韓の反日感情に対しては、そうした側面を、きちんと自覚的に認識する必要がある。
そして、開戦せざるを得ない状況をつくったのが、ABCD包囲網を初めとする、アメリカ、ソ連、ヨーロッパ列強の圧力であるという言い方も、まるで子供の論理だ。これは、結局「A君が睨んでいたのでB君を殴りました。そうしないと僕が虐められるからです」というイジメの構造を国家レベルにまで拡げてしまう事と変わらない。中国や韓国は「僕を殴ったのはA君じゃなくて貴方じゃないか? 殴った事は認めてくれ。そして、殴った事、それ自体については謝ってもらいたい」と言っているB君である。それは外圧なのか?
日本が外国相手に行った戦争で、日本本土が戦場となった例は、大河ドラマでブームの蒙古襲来、いわゆる元寇と第二次大戦ぐらいしかない。他の軍事行動は、全て、日本の軍隊が大陸……それも主として朝鮮半島に対してちょっかいを出すという形で行われている。侵略を迎え撃ったというのは、それこそ元寇の時だけだ。古くは任那を巡る百済と新羅の戦争への介入だから、それは五世紀の話である。黒船来航の時は、戦争になる前に降参してしまったようなもので、無理矢理行われた近代化の後は、やっぱり征韓論という訳で、半島の権益を巡って日清日露の戦争へと続く。古くは中華帝国、そして近代に於ける欧米列強の圧力があったにせよ、ぶん殴られる前に、他の奴をぶん殴るという形で、朝鮮半島に軍事行動を行って来たのが日本の戦争の歴史である。そんな事が千五百年も続けば、そりゃあ頭にも来るでしょうよ……
少なくとも、殴られる前に殴ろうという発想が、正史編纂の前後から、日本の国策だったのではないかという気がする。実際には、三世紀以上に渡って鎖国を続けられた程なのだから、侵略の驚異というのは、それほど切実ではなかったと思われるが、海を隔てていた分、侵略されにくかったのと同時に、疑心暗鬼も肥大化して行ったのかも知れない。地続きで無い分、敵の顔はよく見えないからね。この辺の事は、もう一度調べ直して、きちんとまとめようと思うのだが、この慢性的な疑心暗鬼については、目下の作品(ゴメン、紅王国じゃなくて、余所への書き下ろしです)で、チクチクと書いてはいる。断っておくが、別に、自虐史観だとは思っていない。
小林よしのりも『つくる会』も「個と公」という言葉を使うのが大好きだが、公の最終段階を国家という単位で、或いは民族という単位で終わらせてしまう事で、人類種という、よりグローバルな単位を否定している。勿論、現在の状況は、世界や人類種という単位で公を語れる程に楽天的ではない。そんな事を主張するのは格好良すぎるだろうし、私はそれほどの偽善者でもない。ただ、この国際化と近代化が中途半端に発展した今日の状況は、国家や民族という単位を基準にすると、人類種も個人も見えなくなってしまうという、甚だ厄介な段階にあるという気がする。そうなると、エゴイズムを主張する事が、ナショナリズムに対する、一番有効なアンチテーゼという事になるのだろうか? でも、それって、あの人達を、本当に気分的に逆なでしてしまうからな……どうも憂鬱だが、だからと言って、「明るく楽しく優しい演劇」に埋没してしまうってのも非生産的だし……
てな訳で、これからもせいぜい過激に行かせて頂きます。
2001,8,27