野中友博の
『邪教の館』

《18》神話と歴史と教科書



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 もう先月(2001年7月2日)の話らしいが、自民党の鈴木宗男代議士と、平沼赳夫経済産業相が、それぞれ「アイヌ民族は今はまったく同化された」とか「レベルが高い単一民族できちんとしまっている国。日本が世界に冠たるもの」などと発言したという事で、アイヌ民族団体の顰蹙を買っている。こういう無知と偏見に満ちた連中の政府をアイドル扱いして支持したり、選挙で勝たせてしまうのが日本という国だ。こんな日本に誰がした……という話は、前にしたので、今回は書かない。しかし、状況はまるで変わっていない。むしろ、主役がトリックスターからカリスマに変わってしまった事で、負の部分が見えにくくなっている。憂慮すべき事態であろう。

 目下、シアトリカル・ベース・ワンスモアという劇団の為に執筆中である『八岐大蛇』という作品で、役名その他にアイヌ語をベースとした言葉を幾つか書いている。ベースという言い方をせざるを得ないのには幾つかの理由があるが、アイヌ語が元々文字を持たない言語であるという事も、一つにはある。純粋に言語としてのアイヌ語を扱った文献では、大抵の場合ローマ字アルファベットで表記されるが、それをカナ文字に移す場合は、文献の筆者によって微妙に異なっている。問題の作品は、四世紀の古代日本を舞台としており、アイヌ語起源の台詞はアイヌ語そのものではない。アイヌ語をベースとして創作された古代語である。そもそも、四世紀の古代人が、どのような会話言語を用いたのかを知っている人間は、現代日本にはいない。しかるが故に、作中の言葉は「アイヌ語を元にした創作的古代語」としか言いようがないのだ。ある種、スター・ウォーズのハット語、イウォーク語のような物である。

 しかし、そのベースとすべきアイヌ語の資料を集めるのが、実に何とも大変な作業であった。兎に角、無い。殆ど、無い。ヨーロッパ、アジア、中東諸国など、一般的日本人が一生話すことも耳にする事もないであろう言語資料やテキストをずらりと並べた大型書店でも、アイヌ語や琉球語の資料は皆無に等しい。そして、アイヌ語を話せるアイヌ民族も少数派となっているのが現状であり、それらは全て、鈴木宗男の言う政府の同化政策の結果である。蝦夷地と琉球王国の併合は、日本の近代化に於ける最初の帝国主義政策だが、前大戦に於けるアジア諸国への日本語や日本名の強制という日本帝国主義のスタンスは、実はこの段階から始まっている。

 日本は単一民族の国家だという考え方は、救い難い政治家先生達だけではなく、多くの日本人に共通した認識であるように思えるが、大多数の場合はその事実を知らないという無知に起因している。無知は、我々の向上心や探求心の欠如という性癖と共に、都合の悪い事実を隠蔽しようとする我が国のお上の教育政策にも起因するのだ。その原動力の中には、「日本は単一民族国家」、更には「日本の国、まさに天皇を中心とした神の国」という、一種の狂信を持った人々の存在がある。

 日本の国家が公式に編纂した史書は奈良時代に成立した『日本書紀』である。書紀の年代表記は、当時、日本に輸入された陰陽や算命の考え方に基づき、「○○の年××の日には秀でた王が生まれる」というような暦に、歴代の天皇の誕生年月日をあわせた為に、とんでもない過去から朝廷が続いているという話になっている。どちらかと言うと文学という傾向の強い『古事記』と同様、書紀も神代記、即ち神々の世界から記述が始まっている。神様や神の子孫が異様に長命なのは、聖書やその他の聖典でも珍しい話ではない。そして、記紀が神代から始まり歴代天皇の功績に至るという共通の書き方は、天皇の権威=恩賚が、神聖な、神々の権威を後ろ盾とするという共同幻想を、全国的な共通の価値観として定着させるという、当時の朝廷の意図が働いていたからだ。

 以前から度々書いている事だが、宗教的な権威、信仰に基づく価値観とは、ある意味では絶対的な物であり、科学的根拠も証明も不要な物だ。イスラム教徒のコーランへの執着や、カーシェルのタブー。また、キリスト教徒が獣肉をたらふく食いながら捕鯨に対してヒステリックになる事など、日本人にとって「こいつら変!」という印象を持つ事こそ、彼らの価値観の根幹にあったりする生活習慣だ。彼らにして見れば、「天皇陛下万歳!」の方が、よほど奇異に見える筈である。アイヌや琉球の同化、更には日韓併合やアジア諸国への支配は、それを肯定する人々から見れば、「彼らを皇国臣民と同じにしてやったんだ。天皇陛下の赤子として迎えてやったんだ。喜んで当然じゃないか!」という手前勝手な思い込みがある。彼らにして見れば、迷惑千万な話である。

 そして、更に無知な我ら一般人は、「どうして韓国やアジアの連中は、こんなにヒステリックになるんだ? 日本人が日本の教科書に何を書こうと勝手じゃないか。余計なお世話だ馬鹿野郎!」という反応を示す。何故、彼らは拘り、我々は余計なお世話と感じるのか……その理由はたった一つ。彼らは知っている。そして、我々は知らない、という事である。

 記紀神話の異民族の討伐、即ち、蝦夷征伐や日本武尊の熊襲征伐、更には土蜘蛛の討伐……彼ら異民族の容姿や生活習慣は、殊更に化け物じみて書かれており、単なる読み物として読めば、単なる化け物退治にしか見えないが、冷静に考えれば異民族に対する虐殺でしかない。そして、それがそのように読めてしまう事こそ、当時の記紀の編者達の狙いであろう。文学や舞台、映画などのメディアの恐ろしいところは、そうした一般大衆に対する刷り込みが、随分と容易に出来てしまうという事なのである。「騎兵隊はイイモンでインディアンはワルモン」であったり、アフリカには人喰い人種がいたり、日本はフジヤマハラキリスシゲイシャであったりするのも、全てメディアの刷り込みだ。だから、メディアに携わる人間の責任は重大なのだ。「これはお仕事、喰うためだ」と言って、悪質なプロパガンダに荷担する人達とは関わり合いになりたくない。そして、無知であってはいけない。

 扶桑社の歴史教科書の古代史部分には、記紀神話がこれでもかと引用されているが、本来、歴史と神話とは全く別の物だ。そして、記紀の神話とは、天皇制という、我々日本人の根底にある、タブーとトラウマに満ちた、前近代的かつ宗教的で、更に無自覚な宗教的権威と不可分だ。「古代人のおおらかさ……」などという西尾幹二の戯言に騙されてはいけない。日本の若者が日本神話を知らない、というのは、また別の大問題だが、それは歴史教育の中で行う事ではない。

 もう一度言おう。どうして、諸外国が日本の教科書に文句をつけるのかと言えば、それは彼らは知っていて、我々は知らないからなのである。我々は、侵略戦争を知らず、占領政策を知らず、アイヌも琉球も、靖国神社の公式参拝も、天皇制も日本神話も何一つ知らず、そして解っていない。

 ……そして……信仰が人を殺すように、無知は人を殺す。


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 更新が遅れた事をお詫びします。
 
今月発売の『テアトロ』9月号の寺山修司の特集に、野中友博のコラムが掲載されます。即座にサイトに転載は出来ませんので、こっちの方は買って読んで下さい。別に、テアトロの部数が伸びたからと言って、野中に印税が入る訳ではありませんが、真面目な評論誌が売れないと、我が国の演劇に未来はありません。これ、ちょっとマジな話。

 今回の話題は、次回に続きます。多分……