野中友博の
『邪教の館』

《17》禁じ手と手加減

珍しく、『水神抄』の後説など……



 『邪教の館』へようこそ。

 つい先日、公演を終了したばかりの第伍召喚式『水神抄』は、狙い通りの、或いは狙い以上の賛否両論に終わった。そうなる事は判っていたし、そうするつもりだったのだから、当たり前だ。当然だが、ある程度のダメージは覚悟していた。しかし、納得の行かない物を誉められるという事よりはよほど良い。

 当日のパンフレットに記した事といくらか重複するが、件の作品を書くにあたって、私は幾つかの禁じ手を設定した。
 まず、天皇制やカルト宗教と言った社会的な背景を排除する事。
 一目で分かる時代性、歴史的設定を排除する事。
 銃撃、真剣勝負、肉弾戦と言ったアクション的側面を排除する事。
 更に、プロローグとエピローグの前後を除き、暗転をしない。そして、その部分のみ暗転はしても、大規模な装置転換はしない事を決め、舞台美術の質的印象から、設定、空間処理までを、演出家としての私が、完全にコントロールする事を決めていた。

 社会性だの歴史背景という物は、紅王国……というよりは、私がこれまで書いて来た作品の重要な骨子と言われて来た部分であるし、そうした背景を定め、その時代と状況を生きる人物を設定した時点で、ストーリー展開は半分以上決まってしまう物である。私は、古代史だの昭和史を緻密にリサーチして物語を構築する「社会的ストーリーテラー」とか、「生真面目なエンターテインメント作家」という事で、少しは名前が知られて来たようなのだが、そういう商品価値を端から棄ててしまっている訳だから、かなりのリスクを背負った公演だったと言える。

 実を言えば、歴史や社会的事件をバックボーンとした物語は、ある意味で作りやすい。難しいのは、そうした事件や、時代を徹底的に研究し、分析する事だが、それに用いた膨大な資料や考察等を貫く、呪術的な象徴を発見すれば、物語の構築は案外たやすい。勿論、書く時間の数十倍の読む時間が必要となる訳だが、読む事を厭う作家や演出家(更には俳優も)は、そうした物語に手を出すべきではないし、その資格もない。前段階の分析が徹底されれば、書くべき事もやるべき事も、その大筋は、その段階で決まってしまうからだ。

 つまり、『水神抄』という作品に関して、私は私の構築した物語そのものに関してすら、殆ど重要度を感じていなかった。「物語を転がす」という事は、作家や演出家、或いは俳優を含む、舞台人の重要な使命の一つだが、舞台というジャンルの担う物は、物語の展開だけでは無い。ある意味で、何も起こらない物語、とか、物語としては成立しない物語、とでも言う物を、私は目標としていた。

 舞台で最も重要な存在は、言うまでもなく俳優である。俳優の本質的使命とは、物語を転がす事では無い。その作品の状況の中で生き、関係性を築いて存在する事その物である。

 そして、私の紡ぎ出す言の葉の羅列、野中友博の戯曲作品を演ずる人々、即ち演劇実験室∴紅王国の俳優達は、その作品世界を貫く、ある特殊な存在の仕方を要求される。例えば、殆ど再デビュー作と言って良い『化蝶譚』と『井戸童』に登場する化蝶、今回の『水神抄』の蛟、と言った存在は、受肉された存在ではなく、一種の純粋概念や集団無意識によって顕現する物の怪である。それらの存在を割り振られた俳優は、通常の演技術、例えばスタニスラフスキー・システムを基礎とするような役作りを使用できない。おまけに、演出家としての私は、そういう存在に対して、趣味的な美学から、「すり足を踏め」とか、「感情を排除して、直感と生理だけを使え」等と、理不尽なダメだしをする。こういう「お化け」を演ずる事が楽しいと言ってしまえる俳優が集まったりしてしまうところが、紅王国の凄いところだったりすると私は思っている。正直言って、この手の物の怪を、単に好きずきではなく、雰囲気や自己陶酔で無く演じられるという事は、訓練や理屈の問題では無く、才能と言うしか無いのである。
 ちなみに、『水神抄』に先立つ『人造天女』の人造人間達や、『不死病』の吸血鬼は、それぞれバイオ技術と錬金術によって作られた「ヒト」であったり、成長と老化の停止する病に罹った感染症の患者であったりするわけで、合理的な解釈が可能な存在であり、要するに「人間」である。劇評家の七字英輔氏には、そのあたりを評価して頂いたりしたのだが、結果として今回はその商品価値も棄てている。要するに、そうしなければならない、そういう過程を踏む必要が、私には、或いは我々演劇実験室∴紅王国にはあった。

 幸か不幸か、こんな私に「台本を書いて欲しい」等と言って下さる方々がポツポツと出て来るようになって、私は、私の戯曲や演劇の特殊性を、それまで以上に意識せざるを得なくなった。依頼のあった劇団(その製作体が劇団とは限らないが、面倒なので劇団という事でまとめておく)の体質、資質、演劇観や演技論によって、設定しなければならない「禁じ手」が、あまりに多い事に驚いたのだ。つまり、私の作品を支える要素として、歴史背景や社会性という事よりも、俳優の佇まいや、その存在方法、特殊な肉体表現といった事の要素の大きさを実感したと言って良い。

 在学中の作品を除けば、紅王国の舞台のみならず、私の作・演出作品の音楽は、全て寺田英一が担当し、オリジナルの楽曲を提供してくれている。私の言の葉の背後に、寺田英一の音楽以外の音が流れる事への違和感は、何やら、パスタに味噌汁をかけて食べているようなミスマッチを感じるのだが、同様に紅王国の俳優が存在しない舞台もまた、ニンニク抜きのペパロンチーニではないかと思えるようになった。まあ、それが、紅王国という集団を立ち上げたそもそもの目的であるから、そうでなくては困るのだが、書き下ろしという行為が、これ程苦痛になるとも思わなかった。

 他劇団への書き下ろしで発生する禁じ手は数多ある。一般に想像されるような、「危ないテーマは書かないでくれ」とか、「天皇制や宗教はちょっと……」というような、覚悟の無い話は論外。そういう話が出る相手とは付き合いたくも無い。問題は、私が度々、作品上で使う、次元的な変化、或いは跳躍に用いる肉体表現や、視聴覚的な演出を想定した展開に、劇団や演出家が対応できるかという事だ。別に、紅と同じ方法を使って貰いたい訳では無いが、そうした跳躍に対応するキャパシティーなり発想力が演出家に備わっているか、俳優に特殊な表現の引き出し、或いは素直に鍛錬出来る柔軟さがあるかどうか、といった事が、かなり大きな足枷となる。そして最大のネックは、私の書いたホンを読みこなせるのか、という事なのだ。いや、私の、では無い。昨今、多くの劇団や俳優に対して、「こいつらは、本当にホンが読めるのか?」という疑念が拭えなくなって来たのである。

 私のホン=戯曲=台本は、勿論、日本語で書かれている。日本人だから日本語が読める。だから野中のホンも読める……なんて発想は大間違い。漢字が難しいからでは無い。確かに難しい漢字が多い事は認める。だが、「金襴緞子」という文字面と「キンランドンス」という文字面から受ける風格は明らかに違う。私はそれを大事にしているだけだ。「ルビを振ってくれれば良いのに」と言ったプロデューサーが居たが、自分が怠け者である事を主張して恥ずかしくないのかと言いたい。だが、そんな事は問題ではない。暇さえあれば(或いは、それなりの金額を払ってくれるなら)ルビぐらい振ってやったって良い。某劇団に書いているような古代史物のような場合、大形の字引を引いても載っていない特殊な単語も多いから、「御殿」に「ミアラカ」というルビを一度は振るように心懸けている。そんな事よりも、私の多用する倒置法や句読点の打ち方、更には語尾の意味を、きちんと考えてくれているのかに対して不安になってしまうのだ。

 例えば、私でなくとも使う「……」という三点リーダを二マスに渡って記す表現……俗称「テンテンテン」である。「……」は「間」とイコールでは無い。作品の前後の状況から、後の台詞にかき消される事、即ち、次の台詞に食われる事を意味する場合、或いは、意識の中断がある場合、言葉は発さないが集注点の変化がある場合……つまり、その役の意識や生理のベクトルが変化するという事を示す表記である。勿論、それが間として表現される場合は多々ある。しかし、イコールでは無い。絶対に間が必要な場面では、作家は「ト、凍り付くような、間。」と言うようなト書きを書く……私は、その事を20年程前に、俳優訓練の過程で学んだが、それは殆ど認識されないか、忘れ去られている状況だ。「テンテンテンと書いて無くても、役者はテンテンテンをやるよ」と言った俳優が居たが、その俳優は、私のホンを単なるストーリーの供給源としか思っていない。私に返す言葉が無かった事は言うまでもなく、その状況を戯曲のように書けば次のようになる。


彼  テンテンテンと書いて無くても、役者はテンテンテンをやるよ。
私  ……
彼  だから、別にテンテンテンって書くこと無いんだよ。
私  ……そうですか……

     と、絶句する、私。彼、勝ち誇ったように酒を飲み干す。


 戯曲を読む、という事の困難さは、楽譜を読めるという特権性に匹敵する。それを読み解き、血肉とし、具現化するには、かなりの知的作業と忍耐、努力と体力と才能が必要なのだ。戯曲を読める、という事は、それだけで選ばれた人間だと誇って良い事なのだ。にもかかわらず、多くの俳優が、演出家がその特権性を棄てる。そして、私は、そこそこ台詞の……否、台詞回しのうまい俳優だけが揃った、即ち、誇りを持った表現が何も出来ない人達の為に、ストーリー展開だけで観客を納得させる物語を構築しようと苦悶する。別に、舞台でなければどうでも良いし、金銭を得る為の仕事ならば、生活の為だと割り切る事もできる。しかし……舞台は私の聖域だ。舞台人としてある為に、私は人の道を外れる事を覚悟し、自覚し、無茶苦茶な事をやり続けて来た。その付けは、いつか払わなければならなくなるだろう。しかし、ストーリー供給係として消耗する事は耐え難い。

 物語が面白い、或いは展開が解り易いと言う事は、それが「良いホン」と呼ばれる事の条件の一つではある。「ホンが良いと役者も頑張るしかない」という言葉も聞いた。しかし、その「良いホン」が、話の面白さという事を意味しているなら、それは間違いだ。勿論、良いホンを書いたという実感があった時は役者にも頑張って貰いたいと思うが、ストーリー展開重視で書いたホンを演じる事は、実はたやすい。頑張らなくても、話の流れに乗っていれば、自ずとやるべき事は限定され、高度な役作りをしなくても、そこそこ観られる作品に仕上がる。出来、不出来、作品の深みといった事とは別だが、兎も角、芝居として成立する。それが出来ない俳優は舞台に立つ資格が無い。本当に役者が「頑張るしか無くなる」のは、ろくでもないホンに取り組まねばならない時である。そして、そうした状況で俳優が底力を発揮した時、歴史に残る名舞台が生まれたりするのだ。ピーター・ブルックもそう言っている。物語性中心の舞台ばかりやっていると、俳優は一瞬の油断で怠惰になり、役の魅力と自分自身の魅力を誤解してしまう事もある。

 つまり、ホンが読めない、発想力に乏しい、表現のキャパが狭い、といった制約から来る禁じ手は、禁じ手とは言えない。それは単なる手加減だ。手加減ばかりしていれば、いつの間にか自分の刀までがなまくらになってしまう。そんな事はまっぴらだ。

 紅王国の旗揚げ作品となった『化蝶譚』の頃、「小説を書いた方が良いのでは?」と言って下る(勿論、余計なお世話なのだが)方が多かった。私は、戯曲では無く、台本を書くという方向にベクトルを修正しようとして『井戸童』を書き、書き下ろしの『倭王伝』を経て、紅王国の、そして私自身の代表作と言われる『不死病』に至った。この頃から、今度は小説ではなく、映画を撮れとか、アニメを書けという方向に言われる事が変わって来た。その理由も解っているし、食い扶持の為にそういう仕事をするのは構わない。しかし、舞台が、演劇がその事によって変質する事は望まない。『不死病』の事を、私は劇団内では「あれはラッキーパンチだ。いつでも出来ると思ったら大間違い」と言い続けている。戯曲と舞台の双方が、勢いで一気に作ったという状況にも関わらず、禁じ手無し、手加減無しという状況下で、絶妙のバランスを獲得する事が出来たからだ。これは、なかなか狙って出来る事ではない。そして『人造天女』では、ある種の手加減を加えなければならない状況が発生した。

 それは、観ている側には解らなかった事だろうし、造り手の側にも、明文化された形で自覚されはしなかったかも知れない。しかし、この路線をこのまま進めば、手加減の度合いは指数関数的に増大するであろう事を私は確信した。紅王国自体が、ある種のリセットを必要とする時期に来ていたのだ。『水神抄』の企画は『人造天女』の稽古中から進行していたが、私はその段階で既に、この舞台にかける制約のベクトルを定めていた。

 つまり、禁じ手を設定するが、手加減はしない、という事である。

 そうした作品は、極めてコアな物になる事が当然であり、オーディエンスの側を、濃厚にシンクロするタイプと、拒否感を示すタイプに差別化する。「好みでは無いが凄い」と言わせきれなかった所が、我々の未熟な部分であり、精進を必要とする部分だろう。だが、決して、間違った事をやっているとは思わない。前にも書いたが、私は二枚目のレコードにはなりたくない。

 様式美の美たる所以は、その制約の中にこそある。だから、私は今後とも、自作、自演出の舞台では手加減をしない。そのように、私は私自身を律さねばならない。次回、というか、来年予定している二本の作品では、再び、禁じ手無しの手加減無しという難行に挑もうと考えている。そのような作品を実現し得る可能性を持つ劇団や製作体は、今の所、この地球上に演劇実験室∴紅王国以外には無いのだと私は断言する。

 この峰は険しいが頂は見えてきた。後はみんなで、脇目も振らずに登り切るだけだ。決して遠くは無いぞ!

2001,6,27〜28