野中友博の
『邪教の館』

《16》苦痛と恐怖にまつわるあれこれ

第伍召喚式『水神抄』直前SP!



 『邪教の館』へようこそ。

 今回は、上演が間近に迫った我が演劇実験室∴紅王国の公演『水神抄』の根底に流れている(と言っても、主題とか全てではない)素材に関わって、苦痛、痛みと、それから派生する恐怖、等について少々……

 痛い、という事が嬉しいという人は、滅多に居ない。いわゆるM系という人達にしたところで、単に痛い事が好きなのでは無く、性的な関係性の中で、虐げられる事を好むのであるから、何でもかんでも痛ければ良いという訳ではあるまい。尤も、クライブ・バーカーの小説『魔導師』(映画化タイトルは『ヘル・レイザー』である)に描かれるように、「究極の快楽とは苦痛である」という話もあるのだが、これはまた別の話。基本的に、痛みはどんな痛みであれ、億劫な物であり、仕事や日常生活の妨げとなるから、大概の人は各種の痛み止めを用いて、緩和したり排除したりしようとする。骨折や、虫歯の痛み、また二日酔いの頭痛のただ中にある時、「神よ、なにゆえ人の子に痛みを与えたもうや?」と唱えたくもなろうというものだ。

 世界には、極々稀にだが、痛覚を持たないという体質の人が実在する。つまり、骨折しようが裂傷を負おうが、『痛み』という物を感じないのだ。007映画や、目下連載中の某劇画には、戦争やその他の戦闘で、頭部に被弾した銃弾が、脳髄の中の痛覚を司る部分を破壊してしまった為に、痛みを感じなくなったというヒットマンや悪漢が登場する。彼らは、痛みを感じないが故に、苦痛による恐怖や弱点を持たない、恐るべき戦闘マシーンとして描かれる。前述したような痛みのまっただ中に居ると「痛みがないなんて、なんと羨ましい話だろう」と思ってしまいがちだが、痛みという感覚を持たないという事は、現実には限りなく不自由で不都合な事であったりする。

 痛覚=痛みは、肉体にある種の不都合や異常が生じた時に発せられる信号であり、生命体の活動を維持する為のプログラムである。一般に、五感と言えば、第一に視覚=見る事、即ち光学的センサー、第二に聴覚=聞く事、即ち大気の振動に対するセンサー、第三に嗅覚=匂いを嗅ぐ事、つまり大気中の化学物質に対するセンサー、味覚=味わう事は、体内に取り込む化学物質を選別するセンサー、そして、五番目の感覚が触覚である。これらの感覚器官は、生命体(主として、動物に分類される多細胞生物)が、諸々の危険を避け、生命活動を有利に、或いは安全に維持する為のプログラムだ。見えない、聞こえないという状態は、接近する危険や障害を避け得ないだろう。ヘッドフォン・ステレオや携帯電話を使用しながら自転車に乗っている連中が、うざったかったり危なっかしいのは、聴覚をふさがれているからだ。匂いを嗅げなければ、ガス漏れや火事の煙に気付かないかも知れず、味覚が麻痺すれば、腐った物を喰って死ぬかも知れない。

 生物、それぞれのタイプによって、感覚器官、各種センサーの働きは案外異なっている物だ。例えば、犬は嗅覚が発達している割には、視覚センサーが貧弱で、色盲であると言う事が良く知られている。哺乳類は、恐竜の全盛時代を生き延びる為に、基本的には夜行性であった為に、専ら嗅覚を進化させ、視覚に頼る生存様式を持たなかったからだ。視覚が発達し、嗅覚を退化させた哺乳類は、樹上生活を選択した霊長類等、ごく一部に限られる。色が見分けられなければ、交通信号の赤と青の区別が出来ない。犬が進化して高等生物になって文化を獲得したとしても、それはヒトのような視聴覚中心の物ではなく、『匂い』を価値判断の主体とする文化となるであろう。また、コウモリやイルカ、クジラ類のように、超音波を自ら発するアクティブ・ソナーのような感覚を中心とする生き物が知性化すれば、音を主体とした文化を作り上げるだろう。痛み、即ち痛覚は、触覚の中に含まれるが、ヒト=人間のような脊椎動物にとって、触覚は結構未分化で未発達な感覚なのだ。

 触覚には、痛覚の他に、温度差を感知するセンサーの役割や、圧力を感知するセンサー等が含まれる。性的快感という物も、一種の触覚の中に分類されるかも知れない。触覚には、こうした物が渾然一体となっているが、ある学者は、ヒトが独立した温度センサーを持っていない事が、十七世紀まで温度計が作られなかった理由の一つと考えている。ハエは体表面に、物体が動く事で変化する空気の密度を圧力として感覚する器官を持っているので、穴だらけの蠅叩きを使わなければならない。ハエは、この動体探知機とも言える器官によって、身の危険を避けている訳だ。

 痛みは、触覚の中でも、単に圧力や振動を感じる感覚ではない。生まれながらに痛覚を持たないという人のドキュメントを見た事があるが、その生活は苦難の連続である。特に、分別を持たない幼少期には、生命の危険に関わる重大な事故や怪我が多発する。そうした子供達は、何をやっても痛くないので、平気で二階や三階の窓から飛び降りてしまうのだ。当然、足の骨が粉々になるような骨折を繰り返すのだが、本人は痛くない。その度に、保護者は神経をすり減らして対処する事になるのだが、幼いうちは、そうしたあたふたする大人の姿が、更に突飛な行動に拍車をかけてしまうらしい。

 「この子が知性と理性によって、危険な行動を区別し、認識出来るようになるまで護り、育てるのが私達、親の責任」

 そう語る、御両親の御苦労は、我々には想像も付かない事である。

 実際に、我々が痛みを失ったとする。歯痛も腹痛も頭痛も無く、生理痛や裂傷、擦過傷、骨折等などの痛みからは解放される。その分、虫歯やぎっくり腰や、挫いた足を、取り返しがつかなくなるまで悪化させたり、食中毒や出血に気付かぬまま命を失うという事になるだろう。我々が高いところから飛び降りるという行為を滅多にやらないのは、こういう事をしたら怪我をしたり死んでしまうという分別ではなく、「ウワ〜ッ、痛そう……」という感覚的な恐怖が、それを押し止めるからなのだ。我々が歯医者や整骨医のお世話になるのも、痛み=身体の異常という信号が発せられたからに他ならない。そして痛みを放っておけば、更に痛い思いをする事になる。

 そして、痛覚……痛みの感覚は、長い進化の過程で獲得された、比較的新しい感覚なのだという事を覚えておきたい。魚は『活き作り』にしても、もがき苦しまないのは御存知であろうが、それは触覚神経に痛点を持たない為である。まな板の上に押さえつけられた魚が跳ねるのは、圧力に対する反射なのだ。「サメは血の匂いを嗅ぐと噛みつく」という話を聞いた事があると思うが、それも嗅覚センサーからの反射的行動としてプログラムされている事だ。仲間をサメに殺された漁師の復讐の一つが、生きたままサメの腹を割いて、そのまま海に放り込む事である。同類達がそれに向かって喰らい付く事は言うまでもないが、腹を割かれたサメそれ自身も、自分のハラワタに噛みつくのである。痛みを感じない魚類の生態使った残酷な復讐だ。同様に、爬虫類にも痛点を持っていない。従って、ヘビやワニが人に噛みついたりした場合、ひっぱたこうとぶん殴ろうと、連中がその痛みに耐えかねて口を開けるという事はない。現存する爬虫類の中では、恐竜に最も近く、進化した身体構造をしたワニですら、痛みの感覚を持っていないのだ。果たして恐竜が痛みを感じる事が出来たかどうか、非常に怪しい。

 最初の生物が誕生したのは三十六億年前と考えられ、痛みを感じる哺乳類の支配が始まるのは六千五百万年前である。最古の哺乳類は、最古の恐竜とほぼ同時期に出現しているが、その哺乳類が最初に痛覚を獲得した生物だったとしても、せいぜい二億五千万年前であり、生物が痛みを感じるようになるまで、三十億年以上の進化の時間が必要だった事になる。

 そして、痛みの感覚、諸々の苦痛、苦しみは、前記したサメの話のように、人の諸々の情緒を刺激し、多くの価値判断の基盤となったりしている。以前、連載中の誌上で書いた『バトル・ロワイヤル』問題に代表される暴力表現に関わる問題も、この苦痛や恐怖の問題と無関係ではない。

 前記『バトル・ロワイヤル』や北野武の一連の作品に描かれる暴力表現は、兎に角痛そうに見える。苦痛と恐怖に満ち満ちているし、そのような暴力を行使する事に対して、麻痺してしまったように無機質な人間や、暴力自体に快感を感じてしまっているという人間が、恐らく意図的に恐ろしく、或いは見方によっては醜悪に描かれる。人間の攻撃衝動も、恐怖や苦痛と表裏一体のものだ。攻撃衝動は、危険や恐怖、苦痛を回避する為に組み込まれたプログラムなのだと考える事も出来る。深作や北野は、そうした事を冷静に直視していると共に、苦痛や恐怖、残酷さを描き切る事で、逆説的なアンチ・メッセージを発信している。
 一方で、歌舞伎の伝統からその根っこを引きずっている殺陣(タテ、いわゆる擬斗)という芸が存在する。「立ち回り」は「太刀回り」であり、太刀舞である。つまり、格好良く美しい。そこに残酷さはない。斬る側は格好良く(或いは美しく)斬り、斬られる側も様式美的な見得をきって倒れる。深夜ではない時間帯の時代劇では、これが普通。斬られた人間も、痛さにのたうち回ったりしないし、当然、血も出たりしない。拝一刀や座頭市は達人だから、血も流さずに即死させたのだと無理矢理解釈したって良いが、真面目に考えれば、その言いようには無理がある。『バトル・ロワイヤル』に目くじらをたてた人も、『暴れん坊将軍』の成敗や隠密なんとかの無礼討ちや正義の剣さばきは問題にしない。要するに、格好良くて美しければ、同じ人殺しを描いても構わないという事になるのだろうか?
 つまり、チャンバラや美しい殺陣の爽快感や、攻撃衝動の充足の正体が、実は『バトル・ロワイヤル』に描かれるような無惨な代物だという事が、無意識にも突きつけられてしまったという事が、あの作品を弾劾した議員や保護者達の逆鱗に触れたのではないか、と私は思っている。暴力表現を規制しようとする人達と、日本の再軍備化を主張する人達が、ある部分でダブってしまうのには何やら納得してしまうのだ。自分の一番、醜い部分を目の当たりにして、ヒステリーを起こしたというのが正解なのだろう。「戦争はカッコイイ!」とか正直に言ってしまう小林よしのりが参加している作る会の教科書の根底にもあるんだろうな、こういう事が……石井議員達の杞憂をよそに、『バトル・ロワイヤル』を観た少年少女達が、「こういう殺し合いはイヤだ」という極めて正常な反応をしているのも、これまた当然の話。

 「命は大切」なんて言葉を百万回繰り返すより、殺し合いの無惨さ(苦痛と恐怖)を描き切る事の方が有効だろうと私は思う。そうした意味で、美しく、格好の良い殺陣とは別に、ある種リアルな暴力表現も追求されなればならないと思っている。以前、殺し合いは悲惨だという前提で殺陣を盛り込んで書いたホンを他劇団に提供したのだが、専ら格好良さだけで処理されてしまい溜め息をついた事がある。そういう人達に限って「夕日に向かってバカヤローと叫んでみよう」とかいう事で心の教育が出来るとか思ってるんだよな。ホント、シオシオノパーって感じだよ。

 人だけでなく、生き物を殺すという行為は、殺される主体にとって、大変な苦痛を発生させる。痛みは、感覚的進化の中では、最も遅く獲得された危険信号だ。そして、知性と理性を持つ人(ヒト)という種は、更に概念的な恐怖と苦痛をそれに加える。それなりに年齢制限はあるのだろうが、苦痛と恐怖の直視に蓋をし続ければ、格好良さを求めて戦場に赴く若者を大量生産しかねないだろう。

 そして、もう一つ……冒頭に記した「苦痛は究極の快楽」という概念についてだが、それには、ランニング・ハイ等と同様の、ある種の脳内麻薬が関係しているのだと考えられる。最近CM等にも登場し、すっかり有名になってしまった総合格闘家(本人は誇りを持ってプロレスラーと名乗るだろうが)桜庭和志は、「ウエイト・トレーニングは辛いので嫌いですが、強くなりたいので我慢してやります」と話している。本来なら、これが正しい。体をいじめ抜いて「いい汗かいたなあ」と毎日やっているスポーツマンやダンサーは、ある意味、脳内麻薬のヤク中である。この辺は、徹夜の執筆で神秘体験と同様の条件を作ってしまう作家と同じ。詳しくは『邪教の館』第9回「演劇とオカルト」のページを参照。

 そして、究極の恐怖、究極の苦痛である、死。それを和らげる為の脳内麻薬という物も、どうやら分泌されているらしいのだ。臨死体験の報告にある星空、お花畑、天使や先立った肉親との再会という場面は、脳への酸素供給が停止した後に、視覚神経の異常によって起こる幻覚だと説明されているが、それらの体験談が概ね明るいイメージに満ちているのは、死の恐怖を和らげる脳内麻薬のせいだという説が出ているようだ。勿論、地獄に引っ立てられるという恐怖の体験も稀にはあるし、ひょっとしてあの世とか天使や神仏が実在するかもしれない。本当の事は死んでみなければ判らないし、本当に死んだら、それを語る事は出来ない。つまり、本当の事は死ぬまで判らない。

 『水神抄』という戯曲を書き、目下稽古をしている段階では、そういうような事も考えながらやっていたのだが、それを説明するような場面も台詞も出てこない。それが言いたいテーマでもない。言いたい事がそういう事なら、このコラムだけで事足りてしまう。説明できる事が全てなら作品は必要ない。造り手にとって恐ろしい事は、分かって貰えない事ではなく、分かった振りをされたり、分かった気になられてしまう事だ。つまりは、ただ感じて貰う以外にないのだ。

 そういう訳で、後は自分の目と耳と五感と感性で確かめて下さい。
 予約を急げ。観ぬは一生の損。

2001,5,31