野中友博の
『邪教の館』

《14》こんな日本に誰がした!



 『邪教の館』へようこそ。

 「一体誰が選んだんだ、よりによってあんな首相を!?」

 ここ数ヶ月、酒の席の話題に必ずあがるのが、森首相、自公保連立与党、そして、その他諸々の政治経済問題……別に、我々が老けたから政治の話をしている訳では無いのだ。だって、面白いんだもん。何しろ、他国の新聞の社説やらコラムにも、「首相一名募集中」だの「でも、森が辞めたら、これから一体、誰が笑いを提供してくれるんだ?」と書かれてしまうのだ。この面白さはもはや国際的なのである。

 森さんの『神の国』発言から、かれこれ十ヶ月である。初めてこの話を耳にした時、私は連載中だった『邪教の館』の第4回目の入稿直前だったが、本気で怒り狂って原稿に手を加えた。気になる人は、サイトの中に入っている『テアトロ』7月号掲載『心の教育』を参考にして貰いたい。正直、私は呆れると共に怒っていたのだ、あの直後には……

 しかし……私は入稿した後、ほんの二三日で考え方を変えた。件の発言以前にもやらかしてくれた首相就任後の様々な失言の数々や、自社さ連立という茶番が起こった日、挨拶の為に自民党の控え室を訪れた村山さんを紹介する時、「皆さん、やっと与党に帰ってこれたんです」という身も蓋もない本音を吐いてくれた人だった事等々、森喜朗という人物のキャラクターを鮮明に思い出したのである。森内閣初期の頃、チマチマした失言やスキャンダルの度に、私の周辺では、日本人として恥ずかしい、或いは、情けないといった声が聞こえたが、私は敢えてこう言い続けたのだ。

 「これはチャンスだ。エンターテインメントとして、徹底的に政治を笑い飛ばせる状況がやって来た。思いっきりコケにして、楽しめ! そして見逃すな! 我々の国が、いかにチンケな連中に牛耳られているかを、みんなが認識するチャンスは今しか無いぞ! 無関心よりは、遥かにましだ。そうでもなければ、この国は永遠に民主主義を獲得出来ないだろうから……」

 と……そして、私が煽動する必要も無く、人々は政治を娯楽として楽しみ始めた。アメリカの原潜と日本の民間船、しかも研修中の高校生を乗せた船が事故を起こしたというのに、賭ゴルフを続けられる神経の持ち主だ。こんな人物の一挙手一投足が、面白く無い訳がない。

 何を不謹慎な、と言われるかも知れない。もちろん、事故の当事者と家族、その他、笑い事には出来ない人達が沢山居る事は承知している。しかし、政治が娯楽と化している事は確実だ。何しろ、国旗国歌法や盗聴法が国会で審議されていたような時期にも、「サッチーの学歴詐称疑惑は、議会制民主主義の根幹に関わる問題」等と戯けた事を言っていたワイドショーまでが、最大の時間を永田町の話題に割いているのだ。森喜朗をトリックスターとして笑い飛ばす状況では無くなったかも知れないが、内閣不信任案否決に見られる与党の茶番、株安やデフレに対する政府の無策といった事態を、かつてオウム心理教や酒鬼薔薇聖斗に怒りや疑惑をぶつけるという高揚感と同様の娯楽として、ワイドショーの視聴者やスポーツ新聞の読者が受け止めている事を意味している。少なくとも、私はこの状況を歓迎している。

 正直言って、小渕内閣の時代、私はヤバイと思っていた。何がヤバイと言って、前記したような国旗国歌法や盗聴法のような重要案件が、殆ど審議されないような状態で成立して行くにも関わらず、内閣支持率も首相の支持率も、まるで下がらない。件の法律自体がかなり危険な物だと私は思っているが、それ以前に、議論をせずに、数の力で押し切るという状況を、異常だと感じない有権者の意識がヤバイと思っていたのである。死者を鞭打つとは不謹慎……と、またまた言われてしまいそうだが、故・小渕前首相は『人柄の小渕』と言われていた訳で、積極的に管理政策や保守化、右傾化を支持していたので無ければ、良い人だからという理由で支持されていたのだ。それこそ、ワイドショーの関心は、サッチーVSミッチーの熟女対決とかの方が大事だった訳で、日の丸&君が代に対するアジア諸国の反応とか、不祥事続きの警察権力が、我々のプライベートを侵害する危険などに、全く関心を払っていなかったのだ。

 森内閣の政策は、小渕内閣の政策を受け継ぐ、という名目で発足した。森さんの応援団長である亀井さんが「一体、どんな失政をしたのか!」と言うが如く、小渕内閣が善政によって支持されていたという訳ではない。結局のところ、我ら日本国民は、小渕恵三という『人物』を支持し、森喜朗という『人物』を支持しないようになった、というのが現実である。社会の単位としての人間集団は、結局、理念や思想ではなく、『人』について行く。人間集団と、そのリーダーについての考察は、そうした意味では重要なテーマだが、今回は、その事に深入りはしない。ただ、結果として、森喜朗という人のキャラクターを契機として、それまで『お上』の動向に無関心であった人々の一部が、政治、或いは国家、そして社会の動向に関して、そしてその責任の所在を考え始めた事を良としたいという事である。

 そこで、最初の問題に戻ろう。

 森首相は密室で選ばれた……メディアは良く、この言葉を使う。「森首相を誕生させた五人組」と言えば、前述の亀井さんや、私と同じ名字の野中さんその他の顔が浮かぶ訳であるが、彼らのフルネームを列記したところで、誰があんな首相を選んだのかという答えにはならない。再三に渡る不信任案を否決している与党三党も、単なる事後共犯では無い。党議拘束の有無に関わらず、信任票を投じた時点で、彼らは森内閣の政策だけでなく、森首相個人の不人気による沈滞ムードにだって責任がある。不信任案を否決しながら退陣を促すという茶番を繰り返し、国民に絶望的な気分を蔓延させている一点を持ってしても、彼らは森喜朗と同等以上の責任がある。しかし、彼らだって最終的な責任者ではない。

 我が国は国会を国権の最高機関とし、その決定が全てに優先するというルールを持っている。そして国会は、政党に属した議員によって構成され、現在の勢力図においては、自民党総裁が総理大臣指名を受けるというのが自明の理だ。

 そして、自民党が長老と呼ばれる人々の思惑と派閥の論理に支配されている事は、とっくの昔から、誰もが知っていた筈なのだ。更に、自民党が権力を握れば、或いは連立与党を組む公明党、保守党を含めて、与党三党に絶対安定過半数……即ち、野党が採決をボイコットしても、与党単独の採決で衆議院で法案が通過する状況……を与えてしまえば、森内閣は続き、利権誘導型の政治が継続し、失言とスキャンダルで世界の冷笑を受け続けるなんて事は、去年の総選挙の時から、知っていた筈なのだ。今回の内閣不信任案を巡る茶番劇だって、連中は恥だなんて思っていない。その事だって、先刻御承知の筈ではなかったのか……?

 そしてそして、総選挙は当分の間は無さそうだし、与党三党は中選挙区制を復活させる選挙制度改革を、参院戦後に提出する事で合意したらしい。たとえ参院選でボロ負けしようと、衆院で安定過半数をとっている以上、どんな法案だって最終的には通ってしまうのだ。それがどんなに馬鹿げた法律だろうと通過する……悲しい事に、それが我が国のルールに沿った現状である。

 そしてそしてそして……倫理的にも能力的にも平均以下としか思えず、現実感覚の欠如した、現在、国会と政府の権力を握っている連中に、その権力を与えたのは、我ら有権者の一票である。議席を減らしたから信任はされていない……等と言うファジーな理屈は通らない。権力者とはそういう物だ。エイズ発言、神の国発言、寝ていろ発言が続いても、我々日本国民は、与党三党に絶対安定過半数を与え、森内閣を信任したのだ。

 「一体誰が選んだんだ、よりによってあんな首相を!?」

 それはつまり、最終的には我々有権者の責任である。「森さんはチョットと思うけど、やっぱり政権は自民党さんじゃないと……」と考えたアホな我々である。「待て待て、俺は自民党になんか、投票して無いぞ」という方々も大勢いるだろう。勿論、私自身だって、与党になんか投票していないが、その責任を共有するのが市民の義務という物である。そう考えて行かなければ、国家も社会も自分自身の物にはならない。実は、劇集団だってそうなんだけど、まあ、これはまた別の話……

 「こんな日本に誰がしたか? それは貴方であり、私である」

 この言葉を肯定的な意味で語れるようになれれば良いと思う。その第一歩として、現在の政治状況を徹底的に笑い飛ばそう。

2001.3.24