野中友博の
『邪教の館』

《12》『BR法』の日



 前回、映画『バトル・ロワイアル』に関する御上の反応を取り上げ、火付け役である石井紘基代議士が、「表現規制の為の第三者機関を作る為の法案」を国会に提出する予定である事を記した。一応、リベラル派を売りにしている筈の民主党から火の手が上がった事を苦々しく思っていたのだが、さすがは自民党、更に最悪の法案を用意しているそうだ。名付けて青少年社会環境対策基本法。新聞報道によれば「青少年の暴力行為や不良行為を誘発する恐れがある、あらゆる商品やサービスを首相や知事が認定し、事業者を指導、勧告、公表できる内容が盛り込まれている」という事である。

 いったい、何が悲しくて、そんな判断を森喜朗にして貰わなければならないのだ。そもそも、これは田中康夫や石原慎太郎ならば良くて、森喜朗は駄目という問題ではないが、「寝言は寝て言え!」と言いたくもなる。

 この動きに対して、TV報道メディアの反応は早かった。民放各局を代表する六人のテレビキャスター達が記者会見を開き、「公権力の放送番組への介入を制度化する事であり、テレビに課せられた公権力を監視するという使命を危うくする」と、反対の声明を出した。同法案の対象は「あらゆる商品やサービス」という事だから、当然、舞台や戯曲の掲載誌といった物も対象となる筈である。演劇関係の親睦団体やユニオン、いわゆる○○○協会とか×××会議という名称の組織は、まるで競ってセクトを作っているかのように急増した筈だが、こうした公権力の表現への介入に対して、迅速に対応できるか否かという部分で、ある意味、真価を問われる事になるだろう。

 この法案の危うさは、首相や知事という一個人の主観に、表現等々の善し悪しを認定し、規制を加える権限を与えてしまうという事である。事の発端とも言える『バトル・ロワイヤル』の試写後、この映画を有害作品と断じた石井紘基、盛山正宏といった代議士達の感想を観ると、作品に対する判断力や鑑賞眼を持っていなかったのは、青少年達では無く、むしろ彼らの方だったのだと断言できるが、法案が成立すれば、規制の権限の持ち主が、どんなに最低の鑑賞眼しか持っていない人間だったとしても、ボツな物はボツだという事になってしまう。政治家先生達の馬鹿さ加減を考えるに、『バトル・ロワイヤル』は、原作や、今後発売されるであろうビデオ共々、有害作の認定や勧告を受けてしまうであろう事は、想像に難くない。

 そして、現在の与党が、絶対安定過半数を議会に持っている限り、どんな馬鹿げた法案だろうと通過成立してしまう。国旗国歌法の時も、地方振興巻の時もそうだった。そうなったら、我々は有害作の認定を受けた作品を名作と信じて、積極的に観賞する事ぐらいしか抵抗の手段は無くなってしまう。

 「この国はクソみたいな国だが、よく出来ている。壊すなんて、容易じゃない」

 これは高見広春氏の『バトル・ロワイヤル』原作中の台詞である。作品の見方、読み方に正解などは存在しない訳だが、映画、原作の両者に共通して感じた事の一つは、最も理不尽で残酷な暴力とは、国家のような権力が一般市民に対して行使する暴力であるという事であり、それらに立ち向かう為には、突発的にキレてしまうという類の衝動や突っ張りが、何の役にもたたないという事である。政治家先生達が、残酷、醜悪極まりないと仰有る中学生同士の殺し合いは、国家権力の暴力によって強いられた物であり、公権力こそが、この作品で描かれた最大の悪役である。

 私は、多くの映画評論で言われているように、その事が御上の神経を逆撫でしたのだとは思っていない。連中には、そんな事が判る程の頭は無い。実は、その事こそが問題である。

 映画で言うBR法、原作ではプログラムと呼ばれる「中学生の一クラスに、最後の一人になるまで殺し合いをさせる」という理不尽な法律は、映画では大人が子供を怖れた為に成立したとされ、原作では、国民相互に不信感の種を蒔き、クーデターの発生を未然に防ぐ為という真の理由が存在するというような下りがある。少年法の厳罰化、奉仕の義務化、そして今回の青少年社会環境対策基本法にしろ、大人の権力者が青少年に強いるナンセンスな反応は、その根底において、『バトル・ロワイヤル』のBR法と共通している。御上の人達は、その事に対して、全く無自覚であろう。もしも、確信的に遂行されているのだとすれば、本当にこの国は恐ろしい国になりかけているという事になる。

 石井議員は、二一世紀の初頭がこの映画から始まる事に悲しくなるという旨の発言をしたが、私としては全然OKだ。理不尽な大人の言いなりにならずに、世界を前向きに変える戦いを始めよう!

2001.1.19(『テアトロ』2001年3月号)