LABORATORY OF THEATER PLAY CRIMSON KINGDOM
蛭子の栖 公演記録
【スタッフ】
作・演出…野中友博/音楽…寺田英一/美術…松木淳三郎/照明…中川隆一/照明操作…林美保/宣伝美術…河合昭彦/舞台監督…根岸利彦/音響…山口睦央/制作…K企画
【キャスト】
滝沢宗一郎…野口聖員(劇団フライングステージ)/御厨詩織…佐藤由美子/鵜飼晴彦…佐々木べん/小泉嘉朗…諏訪部仁(岸田理生カンパニー)/四條桂…円谷奈々子(劇団前方公演墳)/遠眼鏡の男(大正天皇)…中川こう/番頭壱(山県有朋)…小林達雄(岸田理生カンパニー)/番頭弐(原敬)…阿野伸八/帽子の男…鈴木淳/カヲル(梅宮薫子内親王)…鰍沢ゆき/雅…雛涼子(岸田理生カンパニー)/奏…北島佐和子/琴…駒田忍
【概略・備考】
第壱召喚式『化蝶譚』、第弐召喚式『井戸童』と同じ世界観による火本教シリーズ第三弾。時代的には前二作の前に当たる大正が舞台となっており、化蝶譚Episodeゼロという呼ばれ方もする。
陸軍中尉・滝沢宗一郎は、シベリア出兵で戦死したはずの戦友・御厨恭介から妻の詩織に手紙が届けられている事を知り、その足跡を求めて青木ヶ原樹海へと踏み込む。そして滝沢とそれを追う人々は、樹海の深奥にひっそりと佇む社の中で、忘れられた神として天の岩戸の彼方へと沈んで行く大正天皇の御霊を目撃する……。
上演台本は白水社岸田國士戯曲賞の候補作として推薦されている。
【チラシ文】
イラク戦争が始まろうとしていた頃、私はかつてのシベリア出兵にそのイメージを重ね合わせていた。米英によるイラク攻撃は、国連の意向を無視する形で始まったが、我々の政府はそれを支持し、今またイラク特措法で自衛隊を派遣しようとしている。自国に対する専守防衛を唯一の存在理由とするはずの自衛隊の隊員が、いかなるモチベーションでイラクに対する作戦行動(補給作戦はどう考えても軍事作戦である)に荷担できるのか、私には見当もつかない。イラクは別に日本を攻撃も牽制もしなかったではないか? まあ、それは自衛隊員各個に責任がある訳でもないだろうが……
シベリアへの派兵もやはり、ロシアの革命政権が我が国への攻撃をしかけたからという訳ではない。共産主義思想の拡散を防ぐという大義と、大量破壊兵器の排除という大義は、共に「正義の戦争」という欺瞞を成立させる阿呆陀羅経だ。我々の国の軍隊(自衛隊が事実上の軍隊である事に誰が異論を唱えられるか)は、他国の民族自決を否定する形でしか発動しないようにすら見える。欧州大戦への参戦やシベリア出兵と、イラクやその他の紛争地域に自衛隊を派遣したがる風潮に、同じ匂いを嗅いでいるのは私一人ではあるまい。
このような情勢下で、日本が「新たなる戦前」という時代に突入したのだという危惧を抱く人々も少なくないようだ。では、戦前とはそもそもどのような時代を云うのだろうか? 例えば、前大戦を基準に考えれば、戦前とはどの辺りの時代をさすのだろうか? よもや世界恐慌前後の僅かな時代をさす訳ではあるまい。だとすれば、直接の交戦国家として戦った日清・日露両戦争の戦後である大正という時代、欧州大戦やシベリア出兵という形で、他国の紛争に嘴を突っ込んでいたその時代こそ、前大戦にとっての戦前という時代だったのではないかと思われてくる。件のシベリア出兵や関東大震災、米騒動やスペイン風邪の流行という暗部はある物の、大正は民本主義と『赤い鳥』と松井須磨子の『カチューシャの唄』に代表される、あまりにものどかなイメージに包まれている。それは明治と昭和の両天皇の間にあって、弱々しい印象のみで記憶される時代の君主、押し込められた現人神のイメージとも共通するのだ。
そして、歩行困難で登院できないと云った理由で、実質的な天皇権を失った君主のイメージはまた、足萎えの故に流された皇祖神の兄妹神である蛭子のイメージへと繋がる。
私はこれまで、多くの封印された神々を、作品の呪術的象徴として採り上げたが、今回のモチーフは、尊き血の中から排除された蛭子の末裔との邂逅となるだろう。深き杜の奥での封印された神々との出会いは、我々に新たな戦前を読み解く鍵を与えてくれるだろうか……?
【パンフレット文】
蛭子の血族
記紀神話によれば、天皇家の祖神は伊勢神宮に在す天照大神である。アマテラスは日本書紀にはオオヒルメムチの名でも記されているが、オオとかムチという尊称部分をのぞけばヒルメとなる。このヒルメとヒルコを、男女二対の太陽神、すなわちヒルメの男性形がヒルコであるとも言う。この説を唱えたのは滝沢馬琴であるらしいが、書紀の中にはアマテラスをイザナギ、イザナミ二神の子とする記述もあるから、ヒルコとヒルメは兄妹神であると言っても差し支えないであろう。そう考えれば、日本神話の宇宙観に基づけば、天皇家の遺伝子には、ヒルコの血脈が流れているのだとも言える。
蛭子を流すという神話は、聖なる血族の汚れ、諸々の負の部分を背負わせるという生け贄を連想させるが、最近、原武史氏が著作『大正天皇』の中で主張するような、大正天皇の意図的な押し込めと皇太子裕仁の摂政就任は、この蛭子を流してケガレを清め、アマテラスの神格を高めたという神話の近代版と云えなくもない。また、大正天皇の病弱なイメージは、アマテラスの血筋が即ちヒルコの血筋でもあるのだという事を印象づける物でもあった。
明治から昭和までの近代天皇制は、西欧の一神教文化の代替物として発明された極めてオカルティックな価値体系だと私は思っているが、現在の象徴天皇制という物も、またやはり呪術的な物なのだという感を拭う事は出来ない。何故なら、未だに天皇や天皇制、皇室について語る事のタブーが存在しているからだ。タブーとは村社会や呪術的共同体が共有する物だから、やはり天皇制との決着がつくまでは、日本も真の近代化を成し遂げたとは云えないだろうと私は思う。つまり、演劇の世界でも、「国立劇場では天皇を題材とした芝居が出来ない」というような暗黙のタブーが存在している現在では、我々のような身軽な小劇場がゲリラ的な公演活動を行うしかないではないかとも思われる。
実際、二度にわたってシアトリカル・ベース・ワンスモアに書き下ろした古代天皇制に関わる作品にしろ、昨年、この劇場MOMOで上演した『御蚕様』で教育勅語を「阿呆陀羅経だわ」と揶揄したり、続いて上演した『女郎花』で昭和天皇の影についてを物語の縦軸にしたりという事を私がやっていると、どういう訳か年下の演劇人の方が、「そろそろ、刺されないように注意した方が良いですよ」とか、「こんな事やっちゃって大丈夫なんですか、野中さん」などと心配してくれるというのが我が国の現状という物だ。それはただのタブーでしかない。まあ、せいぜい私としては、「坂手洋二も井上ひさしも斎藤憐も無事なうちは、俺みたいな小物が刺されたり撃たれたりする心配は無いよ」と開き直るだけだ。という訳で、今回は大正天皇である。
旗揚げ以来、紅王国は専ら昭和史と昭和天皇にリンクする作品を発表し続けてきたが、今年は春の補完計画で初めて現代、つまり平成時代を扱い、今回は初めて大正時代を扱う事になった。明治と昭和というカリスマを放つ天皇の二世代に挟まれた大正天皇について考える事は、やはり、天皇制の理不尽を思わずにはいられなかった。
ちなみに、今回の『蛭子の栖』は、「森の奥に住まう蝶の化身であるあやかしの女達と、そこにちらついている火本教という架空の宗教の影と隠れ切支丹の記憶」という出発点を持ち、演劇実験室∴紅王国の旗揚げ公演であった第壱召喚式『化蝶譚』と、その姉妹編として書かれた第弐召喚式『化蝶異聞録〜井戸童』と同じ世界観の上に作られたシリーズ三作目だとも云える。ただ、この二作は、昭和十五年、1940年を舞台としているので、大正十二年を舞台とした今作は続編ではない。むしろ、『蛭子の栖』は、昭和初期を描いた『化蝶譚』や『井戸童』の世界に繋がって行く物だ。そうした意味でも、大正という時代は、昭和という時代のプロローグであったのだという想いを新たにするところである。次に、この世界観で作品を作るとなったら、私はどの時代を選ぶだろうか……切支丹禁制の江戸時代か、それとも現代か……? いずれにしろ、その物語の背後には、巨大なる禁忌が圧力として存在する事は確かであろうと思う。いつの日の事だろうか?
紅王
【劇評等】
演劇実験室∴紅王国の野中友博作・演出の『蛭子の栖』を観た。昨年九月、『女郎花』を観て文体は泉鏡花風、手法は寺山修司風、という印象を受けた。しかし、二人にない政治性、特に昭和天皇を軸として回転する事件に対する関心、つまるところ昭和史を見据えている点が興味深かった。
そして今回……。野中の関心は、明治と昭和に挟まれた「大正」にたどり着いた。大正七年のシベリア出兵、火本教の開祖鰐淵スエ、聖師と呼ばれる鰐淵出三郎ら幹部の検挙は、大正十年の大本教の開祖出口ナオであり、出口王仁三郎らの検挙をモデルにしているようだが、会話の端々に出る固有名詞の意味をどれだけの観客が理解しているか、かなり疑問ではある。
シベリアで死んだはずの御厨恭介中尉を探して入らずの杜に踏み込んでゆく妻(佐藤由美子)、弟(佐々木べん)、友人の軍人滝沢(野口聖員)、雑誌記者、警察官……。そして大正天皇の一行三人。蝶のカヲル(鰍沢ゆき)に導かれ、杜の奥深く踏み分けて行く。天の岩戸の社には、日本神話に登場する天照大神を祖神とする天皇家の負や汚れを背負った神々の栖だという。二本の迷宮巡りの物語だ。
権力を維持させるためには、「負」や「汚れ」どころか「記憶」までも抹殺される。野中は、その抹殺された「負の記憶」を蘇らせる作業として「天皇」という禁忌に挑んでいるのだと思う。しかし、今やその禁忌から緩やかに解放されようとしているが、理由のない戦いを続けていればいつ何時、正義の名のもとに退行していくかもしれない。そんな怖さを感じた。
北川登園
『テアトロ』2004年1月号劇評より抜粋