LABORATORY OF THEATER PLAY CRIMSON KINGDOM

火學お七 公演記録

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【スタッフ】
作…岸田理生/演出…野中友博/音楽…寺田英一/照明…中川隆一/美術…松木淳三郎/音響…青木タクヘイ/振付…恩田眞美/照明操作…富松博幸/音響操作…山口睦央/舞台監督…小野八着・小野貴巳/宣伝美術…KIRA/制作…在倉恭子

【キャスト】
お七…沢村小春/ゆき…マリコ(劇団Eva)/つき…相原美奈子(はれる屋)/はな…森田裕美(座◎葉隠)/女主人…鰍沢ゆき/産婆…野呂エリカ(劇団☆A・P・B-Tokyo)/暦屋の女房…平沼寧(世の中と演劇するオフィスプロジェクトM)/マッチ売りの少女…駒田忍/暦屋…中川こう/鋏屋…影土優/質屋…小澤浩明(世の中と演劇するオフィスプロジェクトM)/米屋…佐々木べん/土地係…鈴木淳

【概略・備考】
 前年、2003年6月28日に永眠した劇作家・岸田理生の一周忌に合わせた『岸田理生作品連続上演2004』の参加作品として上演された本作は、紅王国のレパートリーとして、初めて野中友博以外の劇作家の作品を取り上げた。岸田理生は野中友博にとって最も多大な影響を与えた劇作家であり、生涯の目標でもある。岸田作品の上演は、そのまま、紅王国とは何かを問う物であった。
 あえて、生前の岸田理生との関わりを持たない若い世代による上演という戦略は、結果としては賛否両論であったが、上演形態としてのテイストが紅王国カラーで仕上がっていた事は一つの成果として残った。また、特殊な文体に対する特殊な肉体の必然性という物も、成否の両面から再確認された。
 お七を演じた沢村小春は一年半ぶりの紅王国ステージ復帰であったが、強烈な存在感で観客を圧倒した。

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【チラシ文】
《共通チラシ》

二十年目の『火學お七』

 今から四半世紀以上前、岸田理生の『捨子物語』の初演を観た日、私は一夜にして新劇少年からアングラ少年へと転向した。以来、岸田理生の作品の奥底に流れる、宿業のような怨念に惹かれ続け、ジェンダーの違いから来る理生さんとの、感性のズレのような物が、劇作家としての私を突き動かしてきたのだと思っている。
 二十年前、スズナリで『火學お七』の再演があって間もなく、寺山修司が逝き、そしてまた理生さんも月より遠い場所へと逝ってしまわれた。もはや教えを請う事の出来ない心の師との正対を経なければ、前にも後にも進めなくなったとも感じている。
 『火學お七』は、岸田理生作品の中でも、最も宿業と怨念がストレートに描かれた一本であると思う。お七の宿業に立ち向かう事で、岸田理生の「業」という物とも対決してみたいと思う。


《劇団チラシ》

「焼き払いたい」

 岸田理生の『火學お七』という作品と出会ってから、早い物で二十年以上の月日が流れた。この作品を思う時、私は「宿業」という言葉と「劫火」という言葉、そして「浄化」という言葉を同時に思い浮かべるのである。怨念を浄化していくための焔、そして、一人の女の宿業が癒されるためには、世界の破滅が必要なのだというある種エゴイスティックなロマンチシズムの中に、私は情念の極北としての美を見いだしていたのだ。
 放火という行為には性的なストレスが大いに関係しているという説がある。恋しい人との逢瀬を願って火を放った八百屋お七は、十五歳以下の子供の罪は問わないという法度を使って減刑しようとした奉行の計らいに対して、あくまで自分は十六だと主張して火炙りとなったが、『火學お七』のお七は、自分の年齢を偽って、その後十年を生き延び、
「きのう死んでも、よかったような、明日、死んでもいいような……かと言って今日、死にたい程の訳があるじゃなし」
と嘯く。十年の間、ブスブスと燻るように消える事の無かった火種が、その宿業と怨念を浄化する、煉獄の炎のようになって燃え上がる……そんな刹那を現出せしめたら良いと願うばかりである。
 もう、四半世紀になろうかという間、私は岸田理生という劇作家の背中を見ながら歩き続けて来た。昨年、岸田理生が「月より遠い場所」へと逝き、もう先達の背中を見る事は出来なくなった。私は、私自身の次の一歩、演劇実験室∴紅王国の更なる一歩の為に、岸田理生の『火學お七』という劫火の芝居で、演劇の荒野を焼き払いたいと思う。その焦土の上を歩いていきたいと思う。その為に燐寸を擦ろうと思う。

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【パンフレット文】

世界を焼き尽くす力

 今回の『岸田理生作品連続上演2004』の上演にあわせて、而立書房から理生さんの追悼戯曲集が刊行され始めた。その一冊目には、我々の演目である『火學お七』と、私が初めて岸田理生作品と出会った『捨子物語』が収録されている。理生さんの師である寺山修司が、この二編を特に気に入っていたと生前書いていたが、私にとってもこの二作はとりわけ思い入れの深い作品であった。このフェスに参加するのならば、取り上げるのは、このどちらかだろうと私は最初から思っていた。実際には、劇団員達には我が家にあるありったけの岸田戯曲(刊行された物から、随分前に岸田事務所+楽天団の事務所から頂いて来た未刊行の上演台本も含めて)を読ませ、「どれにするか?」という会議にかなりの時間をかけたのだが、「理生さんを偲ぶ会」の宗方さんから、榴華殿の川松さんが『捨子物語』をやりたがっているという話を聞いた時点で、「ああ、もうお七に決まりだな……」と私は独り決めしていたのだった。
 『捨子物語』と『火學お七』という二作に対して、私の思い入れがとりわけ深いのは、この二作が、かなりストレートな情念の恋物語であるからかも知れない。『捨子物語』の初演時、私は十五歳、『火學お七』の初演時は十九歳だった。要するに一日の大半は恋愛やセックスの事ばかり考えているティーンエイジャーだったので、ある種の私議曲のような匂いを持った、一人称の恋物語に填るようにシンクロしてしまったのだと思う。理生さんは、その後、『糸地獄』を経て、『恋』三部作という、そのものズバリの「恋」をテーマに作品を書いていく訳だが、『恋』三部作では、「恋という名の狂気」を扱うことは同じでも、作者としての岸田理生が、恋する男女を俯瞰しているという作者の客観性が見て取れて、捨子やお七に見られるような、主人公の情念的恋と作品の一体感のような物は無い。それはそれで面白く、不惑の年代に突入した今となっては、むしろ『糸地獄』や『恋』シリーズの完成度と構成力に居心地の良さを感じたりする訳だが、岸田理生とその作品に憧れ、些かの背伸びをしながら劇作の道に踏み込んだアングラ小僧には、情念の恋を一人称的に叩きつける初期作品が、人生と劇作とを重ね合わせようとする私という個人にとって重要だったのだと思う。
 『火學お七』という作品のキーワードの一つには「十年」という時間のスパンがある。十年の怨念、十年前の記憶、そして十年の恋と片想い……何度も書いたことだが、『火學お七』を初めて観た頃の私は二十歳そこそこのガキンチョだった訳で、十年というスパンはなかなかに重い物だった。それはそうだろう。二十歳のガキにとっての十年前は小学生なのだから、十年の恋などと云う物の情念は想像を絶する世界だ。そのことがまた、背伸びをしたいお年頃には、甚だ魅力的だったのかとも思われる。そして、理生さんが『火學お七』を書いた頃というのは、最近になって本当の事がばれてしまった理生さんの年齢から逆算すると、三十代の半ばだった事が判る。私の劇作生活で云えば、『化蝶譚』を書いた頃に相当するかも知れない。私も『化蝶譚』という作品は「最後の青春戯曲」などと思って書いたような気がする。そうしてみると、『火學お七』以降の理生さんが、『宵待草』や『糸地獄』を経て、『恋』三部作のような、世界を俯瞰するような作風に変質していったと云う事も、今にしてみれば当たり前なのかも知れないと思える。そう思える年齢に私もなったという事だろうかと思う。情念を一人称的に語りきってしまう事には、良くも悪くも、ある種の若さが不可欠だ。それは未熟さと危うさという事をもつ反面、自由と無鉄砲であるという強力な武器を持っているとも云えるのだ。
 ……などなどと、分析的に書いてしまうような私が確信犯的に情念の恋物語『火學お七』を演目にしようと直感したのは、私自身の中に、未だに燻る情念の揺らぎのような物を体感したからに外ならない。個人の情念が癒されるためには、世界の破滅が必要だ。若さとは、おそらく、世界の理不尽に対して、自分の理不尽を肯定出来るという事なのだ。その理不尽を肯定したいと思ったと云う事なのだ。そして、これからも肯定し続けたい、と、そう思ったと云う事なのだ。それは理不尽な世界を焼き尽くす力だ。
 夜毎の火事に身を焼くお七に、今再び、我が身を重ね合わせたい。世界の理不尽を焼き払うために……

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【劇評等】

(工事中)

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【舞台写真館】







































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