紅王語録

不定期更新のショートコラム集。
新しいものから並んでいます。

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#4 真に重要な情報はWeb上の日記などには無い

現在、ブログ(Auto Page)というシステムが、ネット上では大ブームになっているようだ。ブログと云っても、実質的には個人の日記であったり、複数の関係者が寄ってたかって書く日記であったりする。要するに、ネット上に展開されている個人ホームページというのは、殆どが日記を代表する個人情報だという事である。

個人情報をインターネット……ワールド・ワイド・ウェブという環境に晒す事には、様々な動機があるだろう。我々は、こうしたインターネット環境に対して、世界中の誰もが読めるという事を、時として見落としてしまう事がある。個人ホームページというのは、インターネット環境と、ほんの僅かな経済力があれば開設できることなので、個人に対する誹謗中傷は勿論、自分が今日、何を食べたのかというような何の公共性もない情報すら、何の選別や淘汰をされる事もなく、世界に発信出来るという事になる。おそらく、このようなシステムと状況を、人類はここ十数年ばかりの間で初めて体験した事になる。

私がサイト上に日記を書くようになった動機とは、一義的には、毎日のように更新される情報があれば、それをフォローする為に定期的にサイトを覗いてくれる人が増えるだろうという事、それに伴って、新作についての宣伝やら劇団告知が迅速かつ広範囲に伝達されるだろうという目論見から始まっている。まあ、その為に私という個人の情報をある程度切り売りしてきたのだと思っている。

同時に、日記を書くようになってから、世界に対する違和感、もしくは私憤と云った事を、より早急に書き留める場となったのも確かだと思う。私の為人をきちんと知っている人には言わずもがなの事だが、私は世界を構成している様々な共同幻想に対して相当な違和感を持っているので、世界を語ろうとするとどうしても過激で毒を含んだ物言いになる。「日記のファン」を自認する人達にしてみれば、要するに私の毒舌を読みたい訳で、そういう人達の需要を満たすという意味でも、吟味しない言葉をぶつけてきたのも確かであろうと思う。

Web上に個人情報を晒すという事は、その情報に何らかの価値があるという裏付けをもたないと出来ない事だろう。要するに、ネットに個人情報を晒すという事は、その個人、自分が何をしたかについて価値があるとしなければなかなか出来ない事だ。私の発していた個人情報に、果たして価値があったのかと言えば、そんな物は無かったと云う事になると思う。事実、サイト上から日記を撤去した事に対して、掲示板のような公の場での発言は一つだけだ。日記を撤去した事についての反応は、実際に顔を合わせた人か、もしくは私の配偶者に直接言ってきたというパターンが最も多く、次は私個人宛のメールで、劇団宛のメールなどもなかった。劇団員からの問い合わせも一人しかいなかった。

要するに、『紅王日記』という発信情報は、殆ど全ての人にとってあっても無くても良い情報なのである。あればあったで楽しんで読むけれども、無くなっても一向に構わない……その程度の情報である。そんな物だ。

おそらく、私の書いていた『紅王日記』の熱心な読者というのは、紅王国の常連客であるという人達、演劇関連でお付き合いがある、もしくはあった人達、私の配偶者の知りあい、私の教えている戯曲講座の生徒か卒業生といった人達に限られていて、今現在の私というのは、劇団とそれに関わる演劇関連と劇作家協会の主催する戯曲講座等々の中でしか活動していないので、結局、何をどうぼかして書こうと、誰について書いているかが予め予測可能の範囲でしか書けないという事態に陥ってしまった。これは馬鹿げている。

その結果として、私が日記に書いた事に対しては、メールや電話や直接の言葉という個人的な手段による感想や忠告が来るようになった。それ自体が、私の日記がWeb上に載せられる重要な情報でない事が判る。

私の私生活に価値があるか? そんな物は無い。無いと断言する。それでも私の私生活を知りたい人達に対して、日記を再開する事はやぶさかではない。ただ、再会した日記には、たどり着くまでのプロテクトを沢山かける事になると思う。

とりあえずは、ワールド・ワイド・ウェブに相応しい文書を吟味するという事から始めようかと思っている。私的な情報をある種のセクトの中でやりとりするのはおそらく不毛だ。

真に重要な情報が何処にあるのか……それはおそらく、コミュニケートを前提とした場所にある。私がこれまで書いてきた日記とは、ある程度顔の見える読者層を想定し、それが故に真実を書けないという馬鹿馬鹿しい事を繰り返してきた。本当の事を書けない私憤に価値はない。謎めいた言い方をするならないほうがましだと思ったのが日記を撤去した理由である。まあ、復活させる時は、本当に私の私生活を知りたい人の為のプロテクトをかけますよ、いや、本当に。

ワールド・ワイド・ウェブという事を考えるなら、多分、万人に価値のある情報を発信しなくてはならない。だが、多分、私は日記について万人への価値など考えていなかっただろうし、そのような事を考えたWeb上の日記も僅かだし、ブログもそれ程には無いだろう。世界中の誰もがアクセス出来るメディアの中で、極々限られた人を相手にするという発信とは何かを考え直したのである。

まあ、吟味しながら発信しますという事です。別に、日記やブログを楽しんでいる人達を批判する訳ではないので、やりたい人はどうぞおやり下さい。

(この稿、未完)

2005/07/02

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#3 無知は演劇をダメにする

先月「イラク攻撃と有事法制に反対する演劇人の会」の協力支援の一環として、あちこちの演劇関連サイトにゲリラ的にメッセージを書きまくるという事をやった。その際に、若い演劇人ほど食いつきが悪く、極めて脳天気であったりピントがずれた事を云っていたりすることに苛立ったのだが、最近、若い世代が戦争という物、その物を具体的にイメージ出来ていないと云う事が判って、少々考え方を変えた。

要するに、彼らは「戦争とは何か」という事をイメージする為の情報をまるで持っていない為に、その事をイメージする事が出来ないのだ。無知なのである。無知である事は、学ぶという事に貪欲ではないという事は確かにあるのだが、例えば戦争に対する教育、前大戦で日本はどのような事をやったか、或いはどのような目にあったのかという事に関する情報を、大人の世代が与えてこなかったという事に最大の責任があるのではないかと思えて来たのである。

あらゆる差別や偏見は無知であるが故に起こるのである。つい最近も、
「家の猫が猫エイズに罹っていて……」
という話をある人にしたら、
「感染らないように気をつけて」
と云われた。よその処で何度も云っているが、猫のエイズと人間のエイズは違う病気だ。知らないから偏見が起こる。そして、知らないから責任がない、では済まされない事象がある。握手したらエイズが感染る、傍にいたらエイズが感染る、エイズは出て行け……そんな事が起これば、それは無知故の差別だが罪深い精神的な人殺しだ。無知は人を不幸にする。決して幸福にはしない。無知と無垢は同一ではない。

そして、こんな事を思い出す。鐘下辰男さんが、ベクターだか何だったか……戦時中の日本を舞台にした戯曲を出版した時の後書きで、「この作品は、時代と共に滅ぶ運命にある」と書いていた。何故か、という理由として、鐘下さんは、故・黒澤明監督が、「時代劇はもう撮る事が難しい。何故なら時代劇の質感を体現出来る俳優がもう居なくなっているからだ」と云った事と同じだ、と書いている。つまり、戦争という状況を具体的にイメージ出来る俳優が遠からず居なくなるから、この戯曲は時代と共に滅ぶのだと……

そして、鐘下辰男の懸念、それは現実の物となって僕の目の前に現れた。戦争を具体的にイメージ出来ない世代が「役者で御座います」と云って演劇界にのさばり始めてきたのだ。

そして、そんな連中に役者面をさせているのは、サービス産業としての俳優学校が、「あなた達はプロと同じだ」というような甘やかした教育をしているからだ。授業料獲得の為に、嘘八百を並べ立てておだて上げ、淘汰や競争のない仲良しごっこをさせているのだ。「座学はやらずに実践だけ……」なんて寝言を言っている養成所の卒業生は、今後、演劇実験室∴紅王国には入れない事にする。そんな物は、知力は要りませんと云って客を引こうとしている詐欺師の常套句なのだ。そういうこすい大人達が若い俳優をダメにし、ひいては演劇をダメにする。

僕は「役者は馬鹿ではいけない」と言い続けてきた。だが、日本の為政者が「民は愚かに保て」と考えているように、演劇で金儲けをしようとしている人でなしどもは「俳優志願者は愚かに保て」と考えているらしい。空恐ろしい事だ。そして、無知を指摘されずに役者になった連中が、無知では演じられない作品を埋没させ、最後には演劇というジャンルその物をダメにする。

早く気付いてくれ……と思っている。騙されるなよ、と……

私の母は教育者だったが、何故学ぶのかという事に関しては「騙されない為だ」と云っていた。その通りだ。せめて、腹黒い大人に騙されないぐらいには賢くなって欲しい。「そんな思いやりのない事を……」等という情緒の次元で物事を済し崩しにしている間は騙されっぱなしだ。

無知は演劇をダメにする。
何故なら想像力の欠けた人間には演劇は出来ないからだ。
無知では想像力を羽ばたかせる事は出来ないからだ。

もう一度云う。
「無知は演劇をダメにする」
そして、私は演劇をダメにしたくない。

2003/03/15

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#2 役者の気持ちなんてどうでもいい

「気持ちが入っている」とか「入っていない」という言い方を、最近やたらと耳にするようになった。大概の場合、「○○の演技は、まるで気持ちが入っていなくて良くなかった」というような使われ方をする。つまり、気持ちが入っていれば良い芝居で、入っていない芝居は良くない芝居だという使い分けだ。実写版の『ガラスの仮面』で、演出家の「気持ちが入って無いんだ!」というダメが出る場面があり、それまでそういう言葉は素人さんからしか聞いた事がない私は苦笑してしまったのだが、最近の演劇現場では、日常的にそんな言葉が飛び交っているのだろうか?

私は大学の演劇科で理論と実践の両面で演技の教育を受けた訳だが、「気持ち」がどうしたこうしたという話は聞いた事がない。卒業後の現場でも、演出家が気持ち云々を問題にした場面に出会った事もない。実践者で気持ちがどうしたこうしたと言っている人間なんか居なかったのだ。現場で「気持ち」とか云う物についての話を聞くようになったのは、実は21世紀に入ってからだ。

そもそも、「気持ち」というのが何なのか良く判らない。集中度の事でもなければ、感情解放の事でも無さそうだ。芝居には異化や様式を伴う物もあって、内面の支えというのはどうしたって必要な物ではあるが、「気持ち」という言葉を使う人達の表そうとしている事は、もっと別の事のように思える。あえて定義するとすれば、「演ずる役の心理状態になりきれている度合い」というような事なのかも知れない。

表現行為に必要なのは伝達であって、その背景としての心理は、実はどうでも良かったりする。「哀しみに打ち拉がれて慟哭している人物」を演じるには、その人物が「哀しみに打ち拉がれて慟哭している」という状態を、視覚的かつ生理的に表現しきれば良い訳で、俳優本人が哀しみに打ち拉がれたりする必要はない。まあ、手段の一つとして、俳優自身の内面が哀しみに打ち拉がれた状態になるという選択を否定はしないが、絶対条件でも必要条件でもない。もしも、それが絶対条件や必要条件であるという事になれば、殺人鬼の役を演じた俳優は、舞台で実際に殺人を犯してしまう可能性がある。

そして、「気持ち」という曖昧な表現の中には、当然だが、パフォーマンスをしている事その物の高揚感やカタルシスも含まれる。そうした、役の感情と、自分自身の心理状態を冷静に区別できる状態に俳優自身が在るのであれば、それはもはや「気持ちが入っている」などという事にはならないだろう。しかるがゆえに、役者の気持ちなんか、演劇その物には本質的な関係は無いのだという事になる。

それが、「気持ちが入っている」という事かどうかは知らないが、役の感情に酔っている俳優という人種はよく見る。私はそういう場面を見ると溜め息が出て来るばかりだが、陶酔という興奮は、他者、当然観客にも容易に伝搬する。そういう事が演劇の本質であったり、楽しみであると考えている人たちも存外に多い訳だが、私には必要のない演劇である。

2002/11/24

→『邪教の館』…「気持ちという迷妄」を読む

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#1 隣のサイコさん

 いわゆる「異常者による犯罪」という物が起こると、「変な人監禁論」という議論が巻き起こる。犯罪予備軍としての精神病者、性格異常者、病前性格者といった人たちを、特定の医療機関なりなんなりに監禁して、一般人から遠ざけた方が良い……という主張だ。連続幼女誘拐殺人事件から酒鬼薔薇聖斗、保険金殺人の類の時でもそうなのだが、それは潜在的な恐怖心から始まっているんだろう。

 私は、自分自身が躁鬱質で鬱病の治療を受けていたりする……要するに、神経科とか精神科という分野の医療機関のお世話になって投薬をしていたりする身であるから、「変な人監禁論」というベクトルには、むしろ逆の恐怖を感じてきた。サイトの刷新の為に、今回改めて旧作の整理などしていながら思ったのだが、私の作品自体が、「マイノリティーに対する差別と偏見への恐怖」といった物に根ざしている物が多い。

 まあ、その根底的な考えが変わったという訳でもないのだが、実際にかなり「変な人」が近隣に住み始め、自分自身が恐怖感を感じたり「出て行ってくれないかなぁ……」などと考えている事に、何やら妙な気分になってしまったのだ。

 その人物は、自分がマイノリティーだと思って悩んでいる訳ではないし、むしろ独善的で多罰的で攻撃的だ。そして、恐ろしい程神経質なのである。私は彼が強迫神経症なのじゃないかと疑っているのだが、「一度診て貰っては如何ですか?」と言えるような間柄でもなく、些細な理由で彼が怒鳴り込んでくるのに脅えるという不自然な日々を過ごしている。要するに、かなり具体的な恐怖感である。

 本人に自覚がなければ……また勧めてくれる近親者や友人がいなければ、心の病で医療機関の門を叩くというような事は行われにくい。これはドメスティックバイオレンスなどとも一緒なのだろうと思う。

 噂では、彼は近々、この界隈から出て行くらしい。以前住んでいた所も、一月そこそこで引き払ってきたというらしいから、また、次の引っ越し先でも同じ事を続けるのだろう。「出て行って欲しい」と思った自分が、かつて、自分の作品で批判的に描いた人物たちと同様なのだという心地悪さは、いつか解消されるのだろうか?

 月並みな言い方だが、現代は病んでいるという事なのだろう。その状況は「彼らは病んでいる」という事ではなく、「我々は病んでいる」という認識が多数派=マジョリティーになるまで変わらないのだろうと思う。

2002/10/7

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