演劇実験室∴王国 第拾壱召喚式

フジノヤマイ 2006

ワスレナイデ オネガイ ワタシヲワスレナイデ

それは異形の怪物か? それとも病と闘う病者なのか?

永劫の孤独を生き続ける、吸血鬼達の物語。

作・演出/野中友博

2006年3月1日(水)〜3月5日(日)

於:ザ・ポケット(中野)

〒160−0001
東京都中野区中野3−22−8
03−3382−1560(ロビー)
03−3381−8422(劇場事務所)


永劫の孤独

 『不死病』は孤独の物語である。それは題名の如く、永劫の時を生きる不死者、吸血鬼の孤独の物語であると同時に、病者の孤独を描こうとした物語でもあるのだ。
 吸血鬼はそもそも伝染病のメタファーであると言われるが、吸血鬼の伝染がやはり病であるとすれば、それは血の病であり、尚かつ愛の病であり、そして不治の病でもある。幼い頃に見た『吸血鬼ドラキュラ』の映画は、本当に怖いと思ったけれども、それは吸血鬼の毒牙にかかった犠牲者自身もまた、死によってしか魂を救済される事のない吸血鬼となり、胸に杭を打たれて滅ぼされる存在になってしまうという事だった。これは伝染病への恐怖に他ならないし、病者に対する偏見と恐怖もまた象徴しているように思われた。
 病者の孤独とは、おそらく病によってもたらされる死の恐怖という物とは異なるだろうと思っている。私も幾つかの持病を抱えているし、人一倍生への執着も強いので、勿論、死への恐怖という物はあるに違いないと思う。だがむしろ、その病を患っているが故の、他者からの恐れと偏見、同情、無知と無関心、それらと闘いながら、病と共に生きて行くという事にこそ病者の孤独があるだろうと私は思う。孤独や恐怖は死に対してではなく、むしろ生の中にこそある。故に私は死ななくなる病気に罹った病者として吸血鬼の物語を綴った。それは私自身の恐怖と孤独を綴ったという事でもあるのだ。
 一九九〇年代に入って間もなく、私はAIDSを出発点とした劇を書きたいと漠然と考え始めたが、それが『不死病』という一つの作品に結実するまで、十年近い歳月を要した。初演から六年程を経た今も、不死者の孤独、病者の孤独は癒されていない。もう一度、その孤独と対峙したいと思う。

紅王


PERFORM

堀川りょう(アズリードカンパニー)/小林達雄/

北島佐和子/松本淳市(スパンドレル/レンジ

円谷奈々子(劇団前方公演墳)/田谷淳(木山事務所)/

鰍沢ゆき/佐々木べん/

野口聖員(フライングステージ)/駒田忍/松岡規子

CREW

音楽:寺田英一/照明:中川隆一/美術:松木淳三郎(ART PINE)/

音響:青木タクヘイ(STAGE OFFICE)/殺陣指導:山田直樹(座◎葉隠)/

チラシ:<デザイン>KIRA/写真提供:<人形>大野季楽・<撮影>氷栗優/

演出助手:鈴木淳/舞台監督:小野貴巳(Jet Stream)/制作:菊地廣

MUSIC CREW

guitars,synthesizers & percussions:寺田宏
basses:井上佳紀
drums & percussions:八尋修


料金 前売.\3,500- 当日.\3,800-  高校生以下.\3,000-(紅王国でのみ取り扱い・要予約)
    入場券は日時指定。当日指定、一部自由席となります。
3/1(水) 3/2木) 3/3(金) 3/4(土) 3/5(日)
昼の部 14:00 13:00
夜の部 19:00 19:00 19:00 19:00 17:00

御予約フォームは下記画像をクリックして下さい。
(2006年1月10日より劇団先行予約開始!)


初演(1999年)劇評より


 野中は三年前のテアトロ新人戯曲賞を受賞し、その受賞作『化蝶譚』で「紅王国」を旗揚げ、『不死病』は一昨年の『井戸童』に次ぐ第三回公演になるが、ファンタジー色の濃い物語に社会性を加味するという劇団の方向性が、この作品において、ある程度、結実したといえよう。舞台となるのは、敗戦直後の隠れ切支丹の里。不死病とは、察するとおり、吸血鬼を媒介にして発生する疫病のことで、冒頭から、寝台に寝かされた美女を黒頭巾を被った異様な一団が取り囲むといった場面があり、舞台はオカルト的雰囲気に満ちている。この寒村で若い男性の変死体が見つかったというので、元帝大教授の法医学者が数十年ぶりに出身地を訪れる事になるのが物語の導入。以後、主にこの地の旧家の座敷と、切支丹進行を守ってきたからくり仕掛けの教会内部を舞台に、旧家の当主である姉妹や、寄宿している復員兵、事件調査の刑事、「ハナレ」で生活している不死病治療の医師夫婦、それに神父代理の修道女などによって、この村で発生する不死病の秘密が暴かれていくという展開になる。作者特有の衒学趣味が巧妙な舞台設定と共にうまく生かされている。
 だが私が面白いと思ったのは、そうしたゴシック・ホラー的要素のためばかりではない。むしろその逆で、吸血鬼による不死病を、感染してから発病するまでの潜伏期間に四、五百年を要する伝染病とする科学的合理的な解釈のためだ。不死病は、感染すると細胞が突然変異を起こして一切の成長・老化がストップするが、その代わり性的欲望が衰退し、患者同士の吸血がわずかにその代替行為になるのだという。病の伝搬を防ぐには患者の心臓にサンザシの木を削った杭を打ち込み、首を切り落として足元に置くという残酷な方法がとられ、その死体を焼いた灰を清水に流して浄めねばならないのは伝説のとおりだが、ここではニンニクを恐れたり、蝙蝠に変身するといった吸血鬼の習性は顧みられない。そして、「予防は治療に勝る」という信念の下、患者を根絶せんとする法医学者と「病者こそが病魔と闘う者であり、病原体ではない」という、実は自らも四百年を生きている罹患者である「ハナレ」の医師が対決する。
 このことは実に多くの類推を可能にさせる。ひとつは、劇中でも語られるように、不当な差別と偏見によって長く隔離政策がとられてきたハンセン病などの歴史、またひとつは、民族浄化とそれに伴うジェノサイドの世界史的経験である(勿論、こうした不寛容な精神は、例えば最近の、オウム真理教の信者の子供たちを教育機関が排除した論理までを思い浮かばせよう)。と同時に、発病(意識が混濁し、理性や判断能力を失って、夜行性の吸血動物になる)を恐れながら、想像を絶する長い潜伏期間を生きなければならない罹患者の「孤独」は、現代にあっては、何よりもAIDSを想起させる。それ故に「ハナレ」に隔離されている女性患者の「私を覚えていて」という叫びは、私たちにとっても痛切なのだ。時代背景も的確に描かれていて、ファンタジーでもこれだけのことが言える、と、私はまさに意表を衝かれる想いがした。
七字英輔

『テアトロ』2000年3月号、【'99舞台ベストワン・ワーストワン】より抜粋

 さて、テアトロ新人戯曲賞受賞者である野中友博だが、この劇作家は、リージョナルな空間というか、過去が蓄積された濃密な(地方的な)土地を好んで導き出す。新作(演出も)の紅王国公演『不死病』(於・中目黒ウッディーシアター)も、またそういう作品だ。
 何世代にもわたる吸血鬼の物語で、父≠ネる存在が息子≠ネるものの血を吸い、兄と妹が、姉と弟が血を吸ってつながっていく(おぞましい)血族≠ヘ、そのまま共同体の治者、ということが明らかになっていく。
 この共同体は我々に馴染みのあるもので、国史へとスリリングに移行させて、ゴシックロマンに終わらせないところが、野中作品たるゆえんである。極めでデモーニッシュな内容を、強固なスタイルで押しまくり、観客を説き伏せてしまうのだ。(旧)共同体にかかわらない若い人物たちは、生きのび、くびきを解かれて、新しい自由とロマン(ス)に一歩踏み出すというエンディングがホッとさせる。
 目算で間口四間、奥行き三・五間ほどの舞台だが、奥から手前に徐々に芝居が移ってくる遠近法を強引に多用し、小さな舞台を広く見せる技巧に感心させられた。美術・亜飛夢。
浦崎浩實

『テアトロ』2000年1月号、劇評より抜粋

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